「──やった……」
かすれた声が、虚ろに響く。
光景はまさに地獄絵図だった。天空には裂けたような大穴が穿たれ、煮え滾る溶岩が赤い雨のように降り注ぐ。地面は血に染まり、無数の死骸が無造作に転がる。ここは最果ての地──『ギンヌンガガプ』。
あまりにも凄惨な戦いの余韻が、そこには残っていた。
そして、その中心に、彼女は立っていた。
手に握る弓からは、なおも鮮血が滴っている。異形の化物──もはや魔物などという生易しい言葉では表せない、理解を超えた存在。仲間たちが次々と倒れる中、彼女はただ一矢、その喉元に貫いた。
そして──
巨体が、地を揺るがす轟音とともに崩れ落ちた。
静寂。
次の瞬間、どこからともなく、震えるような声が漏れる。
「……倒した……?」
「まさか……本当に……?」
戸惑いと驚愕が入り混じった呟き。
それが、波紋のように広がっていく。
「……勝った……! 勝ったんだッ!!」
歓喜の認識が、まるで炎が燃え広がるように隊員たちの間に広がる。戦士、弓使い、魔導士。エルフ、ドワーフ、ヒューマン。老若男女、人種を問わず、全ての者たちが血と汗に塗れた武器を掲げ──
「「「──うおおおおおおおおおおおっっっ!!!」」」
雄叫びが、空間を突き破った。
涙を流し、互いに抱き合う者。
勝利に歓喜し、膝をつく者。
誰もが、戦いの終焉を実感していた。
「はははっ! 俺たちの勝利だっ!」
「……やった、やったんだ……!」
「さすが俺たちの指揮官だッ……!」
無造作に交わされる言葉。その全てが、長き戦いの終わりを祝福していた。
皆、満身創痍だった。誰もがボロボロ。武器は刃こぼれし、防具には大きな亀裂が入っている。それでも、美しき銀の長髪を血と泥に汚した彼女は、肩で息をしながらも笑みを浮かべた。
「やったね! これでまた先に──」
だが、それは一瞬の平穏だった。
言葉が途切れる。次の瞬間、閃光が視界を焼き、耳を裂く轟音が響き渡る。
圧倒的な威圧感が場を支配し、空間ごと押し潰されるような感覚が襲う。
先ほどまでの歓喜は霧散し、時間さえも止まったかのように誰もが動けなくなる。
──その中で。
ただひとつ、
人でも、魔物でも、悪魔でもない。
そのどれにも属さない、理解を拒む存在。
誰かが視界に
「ぇ……」
彼女の顔から血の気が引く。
だが、足は震えながらも踏みとどまった。
目を逸らさず、問う。
「あれは……何……?」
しかし、その問いに答えられる者は、誰一人いない。
誰もが、この現象と目の前の
沈黙の中、
おぞましい。
ただ、それだけだった。
誰も動けない。
だが、
やがて、まるで何かを探すように、無機質な眼球がこちらを捉え──
そして、響いた。
それは言葉ではなかった。
それは、直接頭の中に響いていた。
言葉ではないのに──
なぜか、その意味が理解できた。
いや、理解させられていた。
──頭が痛い。
「──■■■!」
割れるようだ。
「やめて! ■■■を離して!」
誰かの叫びが、遠くで聞こえた。
だが、体は動かない。
冷たい感覚が全身を侵し、意識が遠のく。
身体が宙に浮く感覚。
目の前が暗転し、意識が薄れていく。
──動けない。
「嫌……! やめて!!」
指すら、動かせない。
「うぅ……苦しい……」
冷たい。
「■■■……」
冷たさが、全てを蝕んでいく。
「■■■……。■■■……」
誰かが呼ぶ声。
誰かが、遠くで私の名を。
だが、それすらも虚ろに消え──
ただ一つの思念が、頭を支配する。
「助けて……■■■……」
私が、助け……なければ。
たすけ、なければ。
たす……け……────
=====
『■■■オ■■ ■v■■ が回復しました』
『不完全な状態です』
『一部の記憶が引き継がれました』
=====
魅惑の大都市『オラリオ』。
それは数多の種族が交錯し、世界唯一の大穴を擁する迷宮都市。
その名声は世界に轟き、知らぬ者など存在しない。
富と名誉を求め、今日も多くの人々がこの地を訪れる。
初めて足を踏み入れる者は、誰もが圧倒される。
なぜか?
答えはただ一つ──『人の群れ』。
老若男女、人種を問わず、あり得ぬほどに溢れる人波。
主要な大通りは肩がぶつかり合うほどの混雑。
この地では移動するだけでも一苦労であり、都市の広大さは現在地すら見失わせる。
迷子になるのはもはや必然と言えよう。
では、なぜこの地はこれほどまでに栄えているのか。
理由は明白。
世界中を探しても
『
この深奥なる迷宮とは、いかなる存在か。
その本質を理解するためには、まず特徴を知らねばならない。
迷宮──それは巨大な穴だ。
だが、単なる穴ではない。
地底に広がるは、深淵の闇。
生命すら飲み込まんとする漆黒の奈落。
それを覗き込むだけで、根源的な恐怖が心を蝕む。
しかし、それは氷山の一角に過ぎない。
暗闇の奥に潜むのは──
人類の天敵たる
さらには、地上では得られぬ希少な鉱物や未知の資源が眠る、広大なる地下世界。
そこに広がるのは、想像を絶する『未知』。
それこそが、未知の象徴──『
そして、
“地上では得られぬ”
その一言だけで、人々の欲望を刺激するには十分だった。
この文言だけで十分過ぎる程に魅力的ではあるのだが、
それは、紫黒色でありながら透明感を備えた奇跡の結晶。
それは、現代文明の基盤を支える絶対的なエネルギー源。
それは、迷宮に棲まう怪物共の
──通称、『魔石』である。
現在、都市内外に存在する大半の人類にとって渇望する品こそ魔石であり、それを収拾する作業を生業とする者たちを『冒険者』と呼ぶ。
しかし、魔の結晶を得るには勿論の事、壮絶な戦いへの勇気と覚悟──つまるところ、怪物共と命を懸けた殺し合いをせねば、手に入れたい物も入らない。
だが、凡夫では太刀打ち出来ぬ程に、強力無慈悲な存在そのものであるのが
本来ならば、蹂躙され、征服されるべきは人類側である程に、絶対たる上位種であるのが
それでは、一体どうしろというのか。
人は、どう抗うというのか。
答えは単純明快。
──【神の眷属】となること。
──【
ただ、それだけ。それのみである。
この世には神が存在する。概念ではなく、実物の存在として。
これは約1000年も以前に、神が天界から下界へと降り立ったことを契機に、世の常識と成り果てた。
冒険者となりたくば、【ファミリア】に入るべし。
富と名声を望まんとする者も。
未知を解き明かさんとする者も。
全世界が切望する『三大
皆一様に神の加護の下、行動を為す。
神なくしては、行動など成り立たぬ。
そう──
世は正に、神と人が織り成す『
=====
背に感じるのは、冷たく湿った岩の感触。
呼吸をすれば、重たく淀んだ空気が肺を満たし、鼻腔には土と鉄の匂いが突き刺さる。まるで眠りそのものを否応なく破り捨てるように、現実の感覚が一気に押し寄せてきた。
まぶたを開いた。視界に映るのは、ただただ暗く閉ざされた岩の天井。星も空もない天蓋の下、私は仰向けに倒れていた。
ゆっくりと身体を起こす。鈍い痛みが背骨を伝い、きしむように鎧が軋んだ。
見回す限り、ここは洞窟──それ以上の情報は得られない。
いや、それ以前の問題だ。
……ここがどこか、などという問い自体が虚ろだ。
私は──誰だ?
なぜ、ここにいる?
……私の、名は?
頭の中に濃霧がかかったような感覚。手を伸ばしても掴めない、自身の輪郭すら曖昧な意識。
記憶が、断絶している。断片すら見当たらない。自分という存在の定義が、ことごとく空白だ。
だというのに、胸の奥には奇妙な違和感が、確かに居座っていた。
頭の奥で──誰かの声が、響いていた。
否、正確には“叫び”だ。痛切なまでに脆く、掠れた女の声。
──たすけて。
懇願。嘆願。……哀願に近い。
距離も、姿も、感情すら曖昧なのに、その声だけは妙に鮮明で、魂の芯に食い込んでくる。
……私を、動かしているのは、これだけだ。
記憶も、名も、過去すらない。だというのに、この声が私という存在の"核"のように、揺るぎなく胸の内に居座っている。
助けに行かねばならない──そう強く思う。
誰を? なぜ? どこへ?
問いは次々に浮かぶが、答えはひとつも見つからない。
それでも、“そうあるべきだ”という確信だけが、血の代わりに体内を巡っていた。
私は、立ち上がる。重い鎧が微かに鳴り、身体の輪郭を思い出させる。
足元には、黒ずんだ岩肌。無数の亀裂が走り、長い年月の荒みを物語っていた。
視線を落とせば──腰に佩いた銀の長剣が、鈍く微光を放っている。
気付けば、手が自然と柄へと伸びていた。
まるで、それが“当然”であるかのように。
まるで、戦うことが“本能”であるかのように。
足を踏み出すたびに、鋼の鎧が微かに軋んだ。耳障りなはずの音が、今は逆に現実感を与えてくれる。
腰下まで垂れる赤のマントが、背後で湿った風を受け、重く揺れる。
そのとき、洞窟の奥。
暗がりの向こうから──微かな足音が届いた。
……生き物の、それだ。
獣か? いや、違う。あれは──何か、異様だ。
私は音のした方へと視線を向ける。
そして、見えた。
通路の奥の闇。
その輪郭の中から、“それ”は、ぬらりと染み出すように姿を現した。
漆黒の体。
煙のように曖昧で、影そのもののように輪郭が滲んでいる。
異様に伸びた両腕、重心の定まらぬ脚──その姿は、明らかに生物の“形”をしている。
だが、それはただの模倣に過ぎない。
そこにあるのは、“生き物”ではなく、“生き物に似た何か”。
本能が、そう断じていた。
──知っている。
確信はない。
記憶がない身で、そう断言できるはずがないのに。
けれど、胸の奥に微かに残る“手触り”のようなものが、それをそうだと言い張っていた。
懐かしさにも似た既視感。
記憶の底から泡のように浮かび上がる違和感。
だが、結局のところ──わからない。
その感覚の正体は、霧の向こうにぼやけたままだ。
思考が霞み始める中、目の前の“それ”が、こちらを見た。
目などあるかもわからぬはずなのに──わかった。
──殺意。
理屈ではない。感覚が、脳を経由せずに警鐘を鳴らす。
間違いなく、“敵”だ。
私の前を遮る者。
進むべき道の、障害。
ならば、結論は一つ。
──斬る。
生存のためでも、名誉のためでもない。
目的も、大義も要らない。
進まねばならない。ただ、それだけだ。
「……ふっ」
剣を抜いた刹那、思考よりも先に身体が動いた。
刃を引き抜く音と同時、足が地を蹴り、風が頬を裂く。
襲いかかる影──その爪が私を貫かんと迫った瞬間。
一閃。
私は、それを断ち斬った。
銀光が走る。まるで月光が夜を裂くかのように。
斜めに振り抜かれた剣が、首元から胸を、背骨ごと断ち割る。
肉が裂け、骨が砕け、粘ついた臓腑が溢れ出る。
濃密な血飛沫が弾け、鈍く濡れた音を響かせながら地を染めた。
──その瞬間、
『守護者の剣 Lv.1 を獲得しました』
『あなたの攻撃力が10%上昇します』
『トマトを獲得しました』
『声』が、響いた。頭の中に直接。
その言葉……いや、『声』に込められた意味は曖昧だった。
理屈では捉えきれない。だというのに、脳は自然とそれを理解していた。
まるで、遥か昔──意識の底で、同じ音を聞いたことがあるかのように。
懐かしさと既視感が交錯し、胸の奥を淡く満たしていく。
不思議なことに、心が落ち着いた。
先程までの緊張や混乱が、どこか遠くへと押し流されていくようだった。
体の内側が、ふつふつと熱を帯びる。
冷えていた血流が、一気に奔流のように駆け巡る。
──あの声を聞いたからか。
私はふと、足元に目を落とす。
斬り伏せた“それ”は、断ち割られたまま、ぴくりとも動かない。
そして──まるで燃え尽きた木炭のように、静かに崩れ始めた。
黒い灰。
肉も骨も臓腑も、すべてが無へと還るように。
──なぜだ?
ただの死骸ではないのか?
それとも、“死”は灰へと変わる現象なのか?
理解は追いつかない。だが、その中で──煌めきがあった。
灰の中に埋もれていたそれは、明らかに他とは異なっていた。
薄紫がかった何かの欠片──透き通るような輝きが、まるで“この世に遺された意志”であるかのように、静かに自己の存在を主張している。
私は片膝をつき、無意識に手を伸ばしていた。
指先で灰を払いのけ、慎重にそれを拾い上げる。
掌の中に収まったそれは、紫紺の輝きを帯びた結晶だった。
小さくも確かな重量感があり、表面には微細な力の揺らぎのような波紋が走る。
一体、これは──何だ?
……記憶の底を探っても、類似の情報は引っかからない。
見たことがない。だが、“無関係ではない”という確信めいた感覚が、どこかにある。
あの魔物の体内に存在していたものか?
だとすれば、なぜ肉体が灰となって消えても、これだけが遺されたのか。
分からない。理屈では説明できない矛盾に、思考が波紋のように広がっていく。
仮説は生まれ、分岐し、また霧散する。
脳裏が、徐々に霧に包まれていく感覚。
再び、霧迷宮のような混濁に思考が沈み込みかけた──
──そのときだった。
「──助けてくれえええッ!!」
暗闇の奥から、悲鳴のような叫びが洞窟内に木霊した。
男の声。切実で、追い詰められた者の、命を乞う響き。
私は顔を上げる。
視界の先、通路の奥──
三人の男たちがこちらに向かって全力で走ってきていた。
彼らの表情は恐怖に染まり、息は荒く、足元はもつれそうになっている。
そして──その背後。
蠢くように押し寄せてくる、異形の影。
群れ。
数えきれぬほどの、赤黒く染まった蟻のような魔物ども。
岩肌を這う無数の脚が、湿った地を這い、天井を伝い、空間そのものを喰らい尽くすかのように迫ってくる。
その有様を私の脳は即座に危険と判断した。
静かに剣を抜き直す。
銀の刃が、微かな音を立てて鞘から滑り出る。
理由は不要。状況も関係ない。
──進まねばならない。
あの声が、頭の奥で微かに響いている。
たすけて、と。あの懇願が、未だに消えてはいない。
ならば、迷う理由などあるはずもなかった。
助けを求めるあの声が、頭の中で木霊する限り。
『守護者の剣 Lv.1 』(攻撃力+10%)
『トマト×1』