グラスが割れる音が屋敷に響いた。
4人目の夫に貢がれた屋敷を5人目の夫に買わせた調度品で満たして、6人目の夫から贈られたボトルを空けながら、それでもデメテルの鬱憤は晴れなかった。
「なによ、あの小娘……」
デメテルは偉大な魔女だ。魔法界に数多溢れる弱者たちを救済してきた。
スクイブに片足を突っ込んだような無能、世渡りを知らない愚か者、負った傷を忘れられない悲観主義者。そういった哀れで不運な存在を、デメテルはずっと助けてきたのだ。
魔女は対価を求める。
そして、その対価によってデメテルの権勢は高まってきた。今や、無数の信奉者が常にデメテルの言葉を持っている。一言囁くだけで弱者の軍勢が暴動を起こすのだ。
それを虚仮にされた。
「ブレーズ、本当にホグワーツであの小娘に逆らうやつはいないのね」
「わ、わからないよママ……そんなに怒らないでよ、グラスは僕が片付けるから」
「その情けない顔をやめろ!」
デメテルは怯える息子に近づき、その頬を潰すように掴んだ。
「私たちは弱者の顔をしちゃいけないの。私たちはあいつらとは違う! わからないの、ブレーズ……!」
「わかってる、わかってるよママ……ごめんなさい……」
デメテルの苛立ちが息子のブレーズに向かうのは今に始まったことではない。
元々産む気はなかったのだ。
いくらデメテルの美貌がずば抜けていようと、瘤付きは再婚には不利だ。ブレーズを産んだことで、男を渡り歩いて富を膨らませていくデメテルの計画は台無しになった。この結婚が最後になるかもしれない。
それはデメテルにとって
だからこそ、ブレーズにはその分の埋め合わせをしてもらわなければならない。
ホグワーツ。
デメテルが次に攻略したい領域だ。ずっと不可侵とされてきたその城を切り崩せば、デメテルは三派閥の頂点に立つことができる。英国魔法界に女王が生まれるのだ。
「……グリーングラスには先手を打たれたわ。ハリー・ポッターを救うのは私でなければなかったのに」
デメテルは弱者救済を訴えている。
だからこそ、ハリーの登場は都合が悪かった。戦災孤児、しかもヴォルデモートを消し飛ばした英雄を救うのは、他ならないデメテルの役目だったはずなのだ。その役目を放棄したと見られれば、ハリーが名を挙げるにつれてデメテルの求心力は低くなっていく。
真っ先に手を差し伸べなければならなかった。デメテルはハリーに魔法界の母と思わせるほどの厚遇を用意しなければならなかったのだ。
「相続には隙一つなかった。養子縁組はできない。どこを取ってもダンブルドアとグリーングラスの息がかかってる……ブレーズ、どうしてあなたはハリー・ポッターと友だちになれないの? せっかく私に似て美しく生まれたというのに」
「だって、ママが言ったんじゃないか。マルフォイには喧嘩を売るなって」
「口答えをするな!」
グリーングラス家がハリーを後援し、その関係をドラコが支えている。傍にはマルフォイ閥がポッター家の取り込みに動いたとすら言われている。一度半純血になった家だが、ハリーが純血と結婚すれば生まれてくる子どもは純血の1代目だ。
さらに、グリーングラス家の後ろにはブラック家がいる。衰えたとはいえどもかつては王家を名乗るほどの権勢を誇った家だ、何が出てくるかわかったものではない。
この関係を切り崩すのは容易ではない。
デメテルは成り上がりだ。身の程を弁えるなどという悠長な真似をしていれば常に後手に回る。ルシウス・マルフォイやアークタルス・ブラックが相手でもそれは変わらない。しかし、だからといって勝てない喧嘩に挑むほど愚かではない。
「……いいわ、わかった。グリーングラスの地盤は脆い。マルフォイ家を除けば所詮落ちぶれた年寄りの集まりよ、やりようはあるわ」
デメテルにあって、ダフネにないもの。
それは力だ。世論を動かし、人々の流れを作り、暴力すら正義に仕立て上げる真の魔法だ。
メディアに訴えかけ、噂を広め、暴動を起こす。デメテルが本気で絵図を描けば、1週間のうちにグリーングラス家の屋敷は灰に変わっている。
デメテルがこの力を振るう限り、ダフネには勝ち目など最初から存在していないのだ。所詮はマルフォイ閥の末席を汚す、呪われた下等生物。できることなど嘆き悲しみ、慈悲を乞うことだけだろう。
そう思っていた。
だからこそ、ダフネがデメテルの手を拒んだのは衝撃だった。一瞬、ダフネが愚かすぎてデメテルの言葉の意味を理解していないのかとすら思った。しかし、ダフネの瞳には明らかなまでに余裕の色が浮かんでいた。
「グリーングラス……大人しく私に跪いていればよかったものを」
デメテルは歯ぎしりした。
グリーングラス家に育たれるのは都合が悪いのだ。彼女たちはデメテルとは違う、魔法界においての本物の弱者なのだから。
デメテルは弱者の代弁者として属性に欠ける。
魔法界は古くから魔法によって世界的に連帯してきた。それはつまり、肌の色や国籍で差別されることが限りなく少ないことを意味する。そういった差別感はマグル生まれが持ち込むものであって、純血の価値観には適さない。
女性だから、ということも言われない。魔力は性別を選ばない。歴史上には多くの偉大な魔女が登場する。マグル界とは違い、魔法界ではよくも悪くも女性だからといって弱者として扱われることはない。
女性で、アフリカ系。デメテルは弱者の声を汲み取るのにはある程度適した属性を有している。マグル生まれが持ち込む偏見のおかげで、デメテルは力を得続けている。
しかし、それは魔法的な欠陥という本物の弱者の前には儚い看板に過ぎない。
弱者の代弁者という地位は、本物の弱者を相手には脆弱だ。
だから、潰すなら今しかない。誰もまだ変わった小娘、哀れな下等生物としか思っていない今なら、グリーングラス家を潰すことができる。
しかし、気がかりなのはダフネを満たしていた自信だった。
「……なにか秘密がある?」
デメテルは考えを巡らせた。
魔法族の旧家は多かれ少なかれ都合の悪い秘密を抱えている。それは先祖が闇の魔法使いや魔女としてマグルを虐殺した過去であったり、今もなお続く邪悪な研究であったり、あるいは多方面への献金によって不都合な生まれを隠した事実であったりする。
グリーングラスにはなにかがある。
デメテルという三大派閥の長からの直接の誘いを蹴って、悪意をはっきりと向けられてもなお、ダフネは笑みを絶やさなかった。まるでそれがパーティーのごく自然な会話であるかのように振る舞っていた。
そこには秘密があるはずだ。
「ブレーズ」
「はい、ママ」
「探りなさい。グリーングラスと、そうね、ポッターのことも。必ず何かが出てくるわ」
ポッター家は現存する魔法族の家でも一際歴史の古い家だ。もし、グリーングラス家とポッター家が結びつくことで何かが生まれたのだとしたら。
所詮は子どもだ、秘密を守るのは容易くないだろう。ブレーズがうまく懐に潜り込めば、真相は全て明らかになるに違いない。
「……もし、出てこなかったら?」
「出てくるまで帰ってこなくて結構よ」
ブレーズは割れたグラスを片付けながら悲しそうに頷いた。
「なに、その顔は。不満なの?」
「違うよ、ママ、そんなんじゃない!」
「いいこと、ブレーズ。お前をあの男と一緒に地下送りにしていないのは、お前に利用価値があるからだということを忘れないでちょうだい」
ブレーズの父親はこの屋敷の地下にいる。
元々病がちな男だったこともあって、世間には疑われていない。そもそもデメテルと結婚した時点で何が起きるかを賢い者は察している。
しかし、まだ殺してはいない。
使い道がある限り生かす。それがデメテルの賢いやり方だ。そしてそれはブレーズも同じことだった。父親が死ねば、次はブレーズを
「私たちは強者なのよ、ブレーズ。あまり弱ったような顔をしないでちょうだい、腹が立つわ」
自分は弱者ではない。そう言い聞かせながら、それでも心は落ち着かなかった。
デメテルの権勢には時間制限がある。
グリンデルバルドとヴォルデモート、ふたりの
しかし、戦争が過去のものになるにつれて、弱者を救うのは簡単ではなくなっていった。
衣食住を与えれば済む問題ではないのだ。犯罪被害を告発しなければならない。職を探してやらなければならない。時には聖マンゴの癒者と連携してことを運んだことすらある。
弱者が複雑化すればするほど、デメテルは権力を拡大しづらくなる。
それに、デメテル自身にも
一瞬、自分の心に弱さが浮かんだことに苛立ったデメテルは、大きく舌打ちをした。
「いっそ殺してしまおうかしら、グリーングラス」
「そ、それはだめだよママ!」
「あら、あの女に気があるの? でも残念ね、ああいう女はお前みたいな顔だけが取り柄の情けない男には興味がないのよ」
「そんなんじゃない! でも、ほら、グリーングラスには妹がいるんだ。姉が死んだら可哀想だろ? ママ、きっと疲れてるんだよ……最近いつもそうだ、おかしいよ」
「疲れている? 私が? 馬鹿を言わないで。あなたこそ、誰のおかげで生きてホグワーツに通えているのか、よくよく考えて口を利くことね」
「うん、そうだね、全部ママのおかげだよ……ほら、お水を飲んで」
差し出されたゴブレットを自然と手が掴んだ。
冷たい水が喉を通り過ぎていく。ほのかに酒精が残って火照った身体が冷えていく。疲労に染み渡る水とは、これほどまでに甘かったか。
夫がこの場にいれば、きっとその蕩けた美しさにたまらない感情を抱いたことだろう。
デメテルはゴブレットの水を飲み干した。
「……グリーングラスは、一旦は見張りを付けておけば十分でしょう。任せたわよ、ブレーズ」
「見張り……わかったよ、ママ」
「ほら、若気の至りってあるでしょう? なんでも自分でやりたいお年頃なんだわ、きっと。私のような大人はそれを見守ってあげる、そうでしょう?」
もう1杯水を飲む。
思考がすっとほどけて、つい先程までダフネに向けていた殺意などどうでもよくなっていく。どうして彼女を殺そうなどと思っていたのだろう。
水が美味しい。
「でも、そうね、少し躾は必要かもしれないわね。そういえば、まだホグワーツに行っていない妹がいるとか。名前は、そう……アステリア」
「アステリア……」
「もし妹が
デメテルは魔法の水差しが注いだ水をもう一杯飲んだ。
喉が渇いてたまらない。
浮遊する燭台の光を浴びて、ゴブレットに嵌められた宝石が怪しげに輝いている。
「なんでも、果樹園の管理を森番の亜人に任せているそうね。魔法生物がよく入り込むという噂を聞いたことがあるわ。たとえば、そう……野蛮で飢えた人狼が迷い込んでも、おかしくはないわね?」
「人狼……ママ、それって」
「満月じゃなければ問題ない、違う? ちょっと怖い思いをするだけよ。もしかしたら、治らない傷を負うことになるかもしれないけれどね」
水が美味しい。
「ママ、やっぱりちょっと興奮してるんだよ。そんな怖いこと言わないで。お水を飲んで落ち着いて」
「わかってるわ、ブレーズ、わかってる……」
このゴブレットを手に入れてからというもの、デメテルは全てが上手くいっている気がしていた。
水を飲む。ただそれだけだ。
そうすると思考が落ち着いて、すっきりとして、やるべきことが自然と明らかになるのだ。元々気性が荒いデメテルが派閥の長などという厄介な役目をこなせるのは、このゴブレットのおかげだった。
「このゴブレットには感謝しないとね……」
「……そうだね、ママ」
「手紙を書いてから寝るわ。当たり散らしてごめんなさい、おやすみ、ブレーズ」
「うん、おやすみ、ママ」
おぼつかない足元に若干の不安を感じながら、デメテルは寝室でもう一杯水を飲んだ。
デメテルは強者でなければならない。
信奉者たちに手紙を書きながら、デメテルは強く念じた。マルフォイ閥やヤックスリー閥のような弱者に興味のない連中が頂点に立てば、この国の弱者の声は踏み潰される。戦後、多くの人々が苦しみを抱える今はデメテルが立つべき時なのだ。
水が美味しい。