(2)もうひとつ引っかかったのは、康純先生の論文の中から、美山代表が転載した以下の箇所である。
『現在、世界的に使用される診断基準において、DSMでは精神疾患に位置づけ、ICDでは精神疾患とはみなしていないという乖離が生じている。また、診断するためには、DSMでは経験した/表現した(experienced/expressed)ジェンダーと指定されたジェンダー(assigned gender)との著明な不一致が必要と記載しているが、ICDでは経験した/表現した(experienced/expressed)ジェンダーと指定された性別(assigned sex)との著明な不一致が必要と記載されており、ICDでは身体に対する違和感がない場合は診断されないことになる。ICDでは身体に対する違和感がない場合は疾患ではないと主張していると考えられる。』
ちなみに、康先生が記した「指定されたジェンダー(assigned gender)」は、DSM5の原文によれば「natal gender(出生時のジェンダー)」。康先生の誤記と思われる。
それはさておき、康先生の上記考察とそれを発展させたと思われる美山代表の説明には、私は同意できない。お二人の考えを仮に要約すれば、「sexという用語よりもgenderという用語を多用しているDSM5では、〝身体に対する違和感〟がICD-11よりも過小評価されている」となるだろう。
振り返れば2000年代、ジェンダー思想の広がりが精神医学にも影響を与え続け、その潮流が、2013年公表のDSM5における性同一性障害から性別違和への改称(障害という文字の抹消)という事態を招いた。とはいえ、その診断基準には、「苦痛や機能障害」が残されていた。しかし、その5年後、2018年に公表されたICD-11では、DSM5にかろうじて残されていた「苦痛や機能障害」という重要項目までもが、診断基準から外されてしまった。
つまり、DSMとICDを時間軸を加えて比較すれば、「苦痛」すなわち〝身体に関する違和感〟(以下で説明する)を性同一性障害という病態の本質としてより重視していたのはICD-11ではなく、むしろDSM5の方であると思われる。残念ながら、次の改訂版DSM6では、ICD-11を踏まえて、さらにそれを上回る脱病理化が示されてしまうことだろう。
さて、お二人の考察と私の考えに違いが生じた理由については、2点ほど考えられる。第一に、私は『性同一性障害の疾患理念型の本質は、疾患そのものに由来する直接的な「苦痛」である』と考えている点である(その苦痛は、社会的に不当に差別されることによりこうむる苦痛とは区別したい)。そしてその苦痛は、上で記した〝身体に関する違和感〟のことであると思われる。「性別違和」と「身体違和」を区別して用いる人もいるようではあるが、そもそも私は、性別に違和感を持つことは、身体に関する違和感を持つこととイコール(性別違和=身体違和)としてよいと考えてきた。なので、私としては、少なくともICD-11との比較においては、「DSM では身体的性別 sex は副次的な問題(美山代表)」とは見做されていないと思う。
第二に、genderという用語の多義性がわざわいしていると思われる点である。genderには、次の4つの意味があると言われる。
①sexと同義
②文化的性
③文法上(名詞、代名詞)の性
④gender identity と同義
(参照したポスト→ x.com/streamkamala/s )
康先生と美山代表が引用した箇所のDSM5のgenderを、上の②ではなく、適宜①として理解し、対応する日本語の〝ジェンダー〟を〝性別〟と読み替えて頂ければ、私の主張がご理解頂けるのではないだろうか。
ちなみに、トランプ大統領が「性別は男と女の2つだけ」と宣言した時の〝性別〟の原語は、sexではなくgenderだった。
③本特集ではなく、以前発表された松永先生の論文
『松永千秋「ICD-11 で新設された「性の健康に関連する状態群」ー性機能不全・性疼痛における「非器質性・器質性」二元論の克服と多様な性の社会的包摂にむけてー』
の一部が引用されていたが、どの辺にあるのか、ちょっと見つからなかった。この論文は私も何度か読んでいて、美山代表が好意的に引用されるような論調ではなかったと思われるのだが。引用された箇所の前後の文脈がとても気になった。
以上、取り急ぎご参考まで。お気づきの点やご意見など教えて頂けると嬉しいです。