吾妻ひでおファンと子役アイドル創世記
1970年代末から1980年代初頭にかけて、日本のサブカルチャーシーンでは大きな変化が起こりつつあった。いわゆる「ロリコンブーム」である。この時代背景の中で、一人の少女モデルをめぐる現象が、メディアと同人誌界を横断して展開された。
本稿では、ヒロコ・グレースという当時のCMモデルが、いかにしてマスメディアから同人誌界へと取り込まれ、そこでどのような表象を与えられていったのかを追跡したい。
それはマスコミから始まった
1979年夏、マスコミが一人の少女モデルに注目し始めた。その名はヒロコ・グレース。当時放送されていた飲料「フルーティ」(AGF)のCMが突如ヒットしたことが人気の発端だった。
『週刊平凡』1979年6月21日号を皮切りに、『女性自身』1979年7月5日号、『週刊プレイボーイ』7月24日号、『週刊明星』1979年8月5日号、『平凡パンチ』8月27日号「10歳の小悪魔」、『少年サンデー』1979年9月2日号「この娘、いくつ!?」…など、様々な雑誌で立て続けに取り上げられていった。
それ以前にもCMで話題になった少女モデルが雑誌などで特集されることはあったが、今回の特徴は色っぽいイメージを前面に出していたことだった。とはいえ、これは女性誌でも取り上げられていたことからわかるように、編集者たちが真剣にそう考えていたわけではなく、あくまで話題づくりの一環だった。
「ネタ」としての子役アイドル
この現象に敏感に反応したのが、漫画家・吾妻ひでおのファンコミュニティだった。当時の吾妻ファンは『はぁど・しゅ~る新聞』というファン会報誌を発行するなど、精力的に活動を展開していた。吾妻が参加した同人誌『シベール』の執筆メンバーとも重複があったと思われる。
実際、ヒロコが同人誌界で初めて取り上げられたのは『シベール』第3号(1979年末発行)においてだった。
注目すべきは、ヒロコがアイドルとして扱われた背景には「ネタ」としての側面が強かったことである。
そもそも吾妻自身がそれ以前にアグネス・チャンなどのアイドルを作品内でパロディ化して笑いを取っていた。吾妻ファンはその手法を模倣し、ヒロコを同人誌でネタとして取り上げ始めたのだ。
なぜヒロコがネタの対象に選ばれたのか。その背景には、当時まさに始まりつつあった「ロリコンブーム」前夜の空気があったことは否定できないだろう。
#吾妻ひでお#やけくそ天使#いいおっぱいの日
— ガラダマ (@HxzZbuUlivvHjIy) November 8, 2020
吾妻ひでお先生は、アグネス・チャンのファンでした。
「この物語はあくまでフィクションであり、特定の国家、団体、アグネス、三上寛、百恵、昌子、淳子、イクエとは関係ありません!!」
注:百恵、昌子、淳子、イクエのシーンは見せられません! pic.twitter.com/iRPDYlMizm
ファン活動の本格化と変容
ヒロコのファンを演じたのは、主に北海みちおと美少女通信社という2人の作家であった。彼らは1980年7月から1981年にかけて「はぁど・しゅ~る新聞」「シベール」といった同人誌にヒロコに関する記事を集中的に執筆した。
その後、彼らは1980年12月頃に、当初はJōdanだったはずのヒロコ・グレースファンクラブを本当に設立。翌年4月には、ミニ会報『リトル・レモン』を発行するに至った。
興味深いのは、北海みちおも美少女通信社も、元々子役ファンだったわけではないという点だ。他の同人誌メンバーと同様、彼らも普通の漫画ファンだった。
『吾妻ひでおに花束を』によれば、北海は高校時代に吾妻の「ゴタゴタ・マンション」(1974年発表)を読んだことがきっかけで吾妻ファンになったという。また、美少女通信社は『吾妻ひでお大全集』の中で「あなたもロリコンになれる!?かもしれない…」という記事を寄稿しており、そこでTVドラマの子役を否定し、「やっぱりアニメが一番、CF二番」と述べている。
ところで、文明の利器、テレヴィジョンで、少女に会うためには、アニメかCFしかありません。TVドラマの少女は大体ダメです。SFマインドがないからです。(中略)
それでも、やっぱりアニメが一番、CF二番なのです。「ムーの白鯨」のマドーラの人気はすさまじいですね。「機動戦士ガンダム」だって、美少女キャラで持ってるようなものだし。(本気にしないで~~)CFにもかわいい女の子が結構出てくるなあ。
ヒロコファン活動の終焉と文化的拡散
1982年に入ると、ヒロコ・グレースは芸能界で活動の場を広げていく。3月には雑誌『月刊セブンティーン』の専属モデルとなり、12月にはたのきんトリオの田原俊彦との共演映画『ウィーン物語 ジェミニ・YとS』に出演した。
反対に、北海らのヒロコファン活動は次第に終息へと向かった。彼らの関心は、ヒロコ個人から「美少女CM」全般へと移行していったのである。
この頃から、彼らは休刊した『シベール』に代わって『東京おとなクラブ』において、美少女CMのカタログ記事を執筆するようになっていった。『東京おとなクラブ』はミニコミながらも全国的に知られた半ミニコミ誌であり、のちの1980年代後半の子役マニアにも少なからぬ影響を与えただろう。
その後も、北海は雑誌『アリスくらぶ』(大洋書房)に美少女CMのカタログ記事を連載していたが、同誌の休刊後はメディアから姿を消していった。
結び
小杉あや氏によると、同人誌界が実在美少女から二次元へと関心を移行させるのは1983年前後と言われるが、北海みちおと美少女通信社の活動に限っては、活動の場を変えながらも1984年いっぱいまで継続された。
彼らの活動が同時期の中崎至による『ぺぴ』(もとおみ數史氏による記事が詳しい)や、のちの雑誌『CM NOW』等のCMアイドル雑誌の流行とどのように連関していったのかは、今後さらなる調査を要する課題である。
ヒロコファン活動年表
1979年4月8日 - 『シベール Vol.1』発行。(未確認)
7月27日 - 『シベール Vol.2』発行。
12月31日 - 『シベール Vol.3』発行。T.ルナ「ヒロコ・グレース非公認FC会報 もぎたて新聞」収録。
1980年3月15日 - 『はぁど・しゅ~る新聞 VOL.1』発行。(未確認)
5月1日 - 『はぁど・しゅ~る新聞 VOL.2』発行。
5月 - 『シベール Vol.4』発行。
8月2日 - 『はぁど・しゅ~る新聞 VOL.3』発行。「美少女通信」収録。(未確認)
9月 - 『シベール Vol.5』発行。シベール編集部内美少女通信社「HIROKO GRACE FAN CLUB」収録。
12月 - 『シベール Vol.6』発行。マイナースペース「美少女通信氏からのおたより」掲載。
1981年4月5日 - 『はぁど・しゅ~る新聞 VOL.4』発行。(未確認)
4月 - ヒロコ・グレースミニ会報「リトル・レモン」発行? (未確認)
5月15日 - 『吾妻ひでお大全集』発行。美少女通信社「あなたもロリコンになれる!?かもしれない…」収録。
7月 - 『シベール Vol.7』発行。「びしょーじょつーしん」収録。
不明 - 『はぁど・しゅ~る新聞 VOL.5』発行。「HCFC ひろこぐれーすふぁんくらぶ」収録。
12月8日 - 『はぁど・しゅ~る新聞 VOL.6』発行。(未確認)
1982年7月27日 - 『東京おとなクラブ Vol.1』発行。「はあどしゅうるのなんだかんだと」収録。(未確認)
12月16日 - 『はぁど・しゅ~る新聞 VOL.8』発行。北海みちお「CMデコレーション」収録。
不明 - NO ANGLE PHOTO CLUB『ヒロコ・グレース エクストラ』発行。(未確認) 北海らとは別グループか?
1983年3月23日 - 『東京おとなクラブ Vol.2』発行。「はあどしゅうるのなんだかんだと」収録。(未確認)
8月23日 - 『東京おとなクラブ Vol.3』発行。はぁどしゅーる新聞社&美少女通信社「輝け!?82年テレビCMグランプリ!」収録。
12月25日 - 『はぁど・しゅ~る新聞 VOL.10』発行。(未確認)
1984年4月15日 - 『東京おとなクラブ Vol.4』発行。「はぁーど・しゅーるのCMベスト100」収録。
6月 - 『アリスくらぶ』発行。(未確認)
7月 - 『アリスくらぶ』発行。北海みちお「CM少女が最高よ♡」収録。
8月 - 『アリスくらぶ』発行。北海みちお「CM・少女を並べてみれば」収録。
9月 - 『アリスくらぶ』発行。北海みちお「CM美少女の捜索法」収録。
10月 - 『アリスくらぶ』発行。(未確認)
11月 - 『アリスくらぶ』発行。北海みちお「正しいCMマニアは裸を求めないもん」収録。
12月 - 『アリスくらぶ』発行。北海みちお「なまいきそうな間下このみと工藤夕貴のヌードが好き♡」収録。
12月 - 『はぁど・しゅ~る新聞 VOL.11』発行。(未確認)


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