パチンコ遊技「全面的禁止“案”」浮上も、警察があえて選ばなかったワケ…約70年前の“マル秘”資料が示す経緯
遊技人口の減少や新型コロナ、新紙幣導入などの影響でホールの倒産傾向が続くパチンコ業界。 しかし、かつては庶民の娯楽として多くの人の心をつかみ、巨大産業にまで発展した。本記事では、そんな戦後・昭和のパチンコの歴史を紹介する。 今回の舞台は昭和29年(1954年)。未曽有のパチンコブームにより、パチンコ店が国内に5万軒以上も立ち並び、大衆の数少ない娯楽として隆盛を誇っていたが、そこに警察や公安からの“規制の波”が押し寄せた。 パチンコ「全面的禁止」も議論される中、なぜ今日まで生き残ることとなったのか――。(第1回/全4回) ※ この記事は溝上憲文氏の書籍『パチンコの歴史』(論創社)より一部抜粋・構成。
「善良な風俗を害するようになってきた」
東京都公安委員会の連発式(編注:連発式ぱちんこ機のこと。それまでの一玉ずつ玉を台に入れはじいていた単発式と比べ、速く多くの玉を打ち出すことができたため、ブームとなった)禁止令から一か月後の昭和29年12月18日、警察庁刑事部長から警視庁および各道府県警本部長あてに一通の書類が送付された。 マル秘扱いとされたその文書のタイトルは「ぱちんこ遊技に関する事務上の参考資料」となっている。実は、この中に警察庁がとった連発式禁止の経過が記されている。まず、連発機について以下のような認識を述べている。 「ぱちんこ遊技においては、連発式ぱちんこ機の出現により、遊技玉の発射速度が著しく速くなり、従って技倆(ぎりょう)介入の余地なく得喪(とくそう)の差甚だしく、短時間に高額の金銭を消費され、著しく射幸心をそそり、善良な風俗を害するようになってきたと見られる」 「技倆介入の余地なく得喪の差甚だしく」とは刑法の賭博罪から援用したものである。単発式の機械であれば、玉を弾く指の力を調整することによって、ある程度本人の技術で入賞が可能だが、連発式パチンコ機では客の技術が介入する余地がないということだろう。 しかし、電動式連発機(編注:機械が自動で玉を打ち続ける仕組みのぱちんこ機で、客はハンドルで玉をはじく必要がなかった)はともかく、警察庁が連発式とひとくくりに禁止している循環式連発機(編注:出玉が発射位置に集まる仕組みのぱちんこ機)は技術の介入が可能であり、解釈は分かれるところだ。