東大100人→一桁台へ。名門校・桐蔭学園が20年で凋落した本当の理由
桐蔭学園の栄光と凋落 — 東大100人輩出校で学んだ「偏差値の呪い」
丘の上の夢
1990年代初頭、横浜市青葉区の閑静な丘の上。バスは最寄り駅から揺られること15分、広大な敷地が姿を現した。それが桐蔭学園だった。
「桐蔭で青春の全てを注ぎ込む覚悟はあるか」
入学式で学園長が放った言葉は、14歳の僕の背筋を凍らせた。周囲の新入生たちの目が一様に輝いている。彼らは皆、この学校が持つ魔法の言葉を知っていた。
「東大100人」
当時の桐蔭学園は、創立からわずか数十年で都内の名門校を凌駕する進学実績を誇っていた。在学中、毎年東大に送り込む合格者は100人程度。さらに一橋、東工大、横国、千葉大などの難関国立大学や医学部、早慶上智への合格者も多数輩出し、早慶上智への合格者は数えるのも面倒なほどだった。そして、甲子園優勝、サッカー全国大会出場、柔道の名門としても知られ、「文武両道」を地で行く学校だった。
なぜ、こんな立地条件の悪い場所に、こんな素晴らしい学校が?
その疑問は、入学したての僕らの間でしばしば囁かれていた。
桐蔭帝国の真実
桐蔭学園が「新興勢力」として台頭できた秘密は、実は単純だった。
理事長の卓越した先見の明だ。1964年に横浜市の外れ、当時はほとんど田畑だった場所に安価で広大な土地を確保。そこに「新しい教育の場」として桐蔭学園を創立した。地価の安さと広さを活かし、他校には真似できない施設と環境を整備したのだ。
そして「文」と「部」の二つの柱を立てた。
「文」は徹底的な進学指導。難関大学合格のための特別クラスを設置し、放課後の補習や進学対策講座も充実していた。東大・医学部志望者向けの特別指導や、夏期講習、冬期講習も充実していた。
一方の「部」は、全国から優秀なスポーツ選手を特待生として集めた。野球、サッカー、柔道などの強豪校として名を馳せ、一般入試では到底入れないような生徒たちを獲得した。
しかし実態は、同じ制服を着ていても、校内には明確な階層が存在していた。
「あいつは特待だから」 「文系特進の連中は別格だよ」 「普通クラスじゃ東大や医学部は無理」
入学して数ヶ月で、こうした言葉が日常会話に紛れ込んでいた。
偏差値の重圧
野球部員だった幼馴染の健太(仮名)は、高校1年の夏、こう言った。
「俺は野球の特待だからさ、勉強は二の次なんだよ。でも甲子園に行けなかったら、学校に居場所がなくなる気がする。まあ、推薦枠もあるから進学は一般生徒とは違うけどね」
彼らにとって野球は単なる部活ではなく、大学進学の切符でもあったのだ。
一方、文系の普通クラスに在籍していた僕は、別の重圧に押しつぶされそうになっていた。
始業式。学園長の話は毎回、こんな調子だった。
「諸君、桐蔭の名に恥じぬよう、高みを目指せ。官僚になりたければ東大文Ⅰに行け。医師を目指すなら医学部へ。一流企業に入りたければ、最低でも一橋・東工大・横国・千葉大か、早慶の上位学部を目指せ。それが桐蔭生の使命だ」
これが毎回、生徒の心に深く刻み込まれていった。父母会でも同様の話がされ、親たちも「東大・医学部・難関国立か早慶以上」という空気に染まっていった。
しかし現実は厳しかった。全盛期でも、この「桐蔭スタンダード」をクリアできたのは全体の約3分の1。中央値はMARCH(明治・青山・立教・中央・法政)レベル。そして残りの3分の1は、さらにその下の大学か、場合によっては浪人や就職の道を選んでいた。
模試の成績が返ってくるたび、僕の順位は学年の真ん中あたりを彷徨っていた。学園長の言う「桐蔭生の使命」からは程遠い場所にいる自分。
「俺はダメなんだ」
そう思い始めた高校2年生の冬、進路相談で担任の先生に告げた。
「先生、僕、早稲田の政経学部を目指したいんです」
「ふむ、悪くない。だが現状の成績では厳しい。特に君は英語が弱い。一浪覚悟でやれるか?」
「はい」
その瞬間、何かが吹っ切れた気がした。確かに学園長の言う「最低ライン」ではあるが、自分なりの目標ができた。そこから勉強に打ち込む日々が始まった。
凋落の始まり
しかし桐蔭学園全体に、その後変化の兆しが見え始めていった。
在学中は東大への合格者数が100人程度で安定していたが、その後は年々減少。今から遡ること20年ほど前から、桐蔭の東大合格者数は急激に減少し始め、ついには一桁台にまで落ち込んでしまった。
なぜこんなことが起きたのか。
僕が考える理由は大きく3つある。
1. 二極化教育の限界
「文」と「部」の二本柱で名声を築いた桐蔭だが、その二極化が内部分断を生んだ。特に「文武両道」を掲げながら、実際には「文か武か」の選択を迫られる状況が、多くの中間層の生徒たちの居場所を奪っていった。
2. 偏差値至上主義の弊害
「東大・医学部・難関国立か早慶以上でなければ価値がない」という空気は、多くの生徒に「自分はダメだ」という自己否定感を植え付けた。全体の3分の2は「桐蔭スタンダード」に達しないことを考えれば、これは深刻な問題だった。
3. 教育モデルの模倣と立地のハンデ
桐蔭の成功を見た他校が同様のプログラムを取り入れ始めた。とりわけアクセスの良い都心の学校が桐蔭のノウハウを模倣したことで、「最寄り駅からバス15分」という立地の悪さが際立つようになった。他校で同様の教育が受けられるなら、わざわざ不便な場所に通う理由はない。広大な敷地という強みも、施設の老朽化とともに魅力を失っていった。
一浪の決断
僕自身は高校卒業時、早稲田政経には届かず、MARCH上位学部に合格。しかし迷わず浪人を選んだ。
浪人生活は孤独だった。桐蔭では「普通」だった僕の学力は、予備校では「やや上位」。環境が変わると自己評価も変わる。そんな発見もあった。
浪人時代、ある卒業生の集まりで驚くべき会話を耳にした。
「桐蔭なんて行かせなきゃよかった。子供が自信をなくしちゃって」 「うちの子も『自分はダメだ』って言うようになっちゃって」
かつての桐蔭の親たちだ。彼らの子供は「東大100人」「文武両道」の看板に引かれたものの、結局は偏差値の荒波に飲み込まれたのだろう。
一年間の勉強の末、僕は念願の早稲田政経に合格した。桐蔭の基準では「ぎりぎり合格点」の進学先だ。でも、心のどこかでまだ「自分は二流なんだ」という気持ちが残っていた。
凋落の遠因
時は流れ、社会人になった僕は同窓会で旧友たちと再会した。様々な道に進んだ彼らと話すうちに、桐蔭学園の凋落についての興味深い意見を聞くことができた。
「桐蔭の教育は、結局『偏差値で測れる能力』しか評価しなかったんだよ」と、現在ITベンチャーを経営している旧友。彼は桐蔭では「落ちこぼれ」と見なされていた。
「特待で入った連中と、一般入試組の間に埋めがたい溝があった。あれじゃ健全な学校文化は育たない」と、スポーツ特待だった別の友人。
そして、大手証券会社の幹部になっている元クラスメイトはこう付け加えた。
「卒業生が母校を悪く言う学校に未来はない。でも桐蔭出身者の多くは『あそこはダメだ』と言うでしょ?それも凋落の遠因だと思うよ」
確かにその通りだった。桐蔭出身者の多くが母校に対して複雑な感情を抱いている。「東大・医学部・難関国立か早慶以上でなければ失敗」という価値観を植え付けられた結果、多くの卒業生が「自分は桐蔭の期待に応えられなかった失敗者だ」と感じ、母校への愛着が薄れてしまったのだ。
偏差値の呪いを超えて
今、40代になった僕は、桐蔭学園での6年間を改めて振り返る。
あの頃、僕たちは偏差値という一元的な価値観に縛られていた。「東大100人」の看板を掲げた学校は、皮肉にも多くの生徒から自信を奪っていた。
石油業界、ホテル業界、産業用保護具メーカーと、様々な業界で働いてきた僕は、学歴や偏差値では測れない「キャリアレジリエンス」こそが、人生では重要だと実感している。
桐蔭学園が再び輝きを取り戻すためには、生徒一人ひとりの多様な可能性を認め、偏差値だけでない成功の物語を提示する必要があるだろう。しかし残念ながら、長年培われた「東大至上主義」の文化を変えることは容易ではない。過去の栄光に執着する限り、真の変革は難しいのかもしれない。
「東大100人」時代の桐蔭学園は確かに輝いていた。しかしその光は、多くの生徒を照らすには狭すぎたのかもしれない。
今もあの丘の上で学ぶ生徒たちが、僕たちのような「偏差値の呪い」から解放され、もっと広い世界で自分の価値を見出せることを願っている。
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