クライストチャーチ
はて、あれはいったい何年のことだったのだろう、とおもう。
初めてニュージーランドに来たのは、記憶のなかでは、1989年のことで、そうすると、6歳か7歳だが、かーちゃんの話によると、その前にも二三度来たことがあるそーで、三島由紀夫のように産湯をつかったときから記憶があるわけではないが、ひとよりもかなり早くから幼少期のことを憶えているはずでも、どう記憶の薄闇をつつきまわしても、なにも出てこない。
爾来、北海にある国と、南極海に面した国を一年に一回往復して暮らしていた。
わしが生まれて育った国では、よくあるライフスタイルで、ジェット機以前は、旅行が大仰(おおぎょう)で、仕度もたいへんなら、移動も船と馬車で、そのころは、わし国のひとびとはイタリアに出かけていたもののよーだがジェット旅客機が出来てからは、それまでのプロペラ機時代には、例えばシャーリー・マクレーンは渋谷の松濤に瀟洒な別荘を持っていたりして、ごく限られた人間だけの秘かな鑰しみだったが、最近では、そーだなー、飛行機嫌いだと言いふらしていたデイヴィッド・ボウイも、死ぬ間際に、実はシドニーに別荘を持っていて、ストップオーバーで東京にもよく来ていたことを打ち明けている。
シャーリーさんはアメリカ人だが、他は、ひとえに、わし祖国の天気が、ひどい、というよりデタラメだからで、どのくらい想像を超えてひどいかというと、国民を挙げて越冬隊になる冬期は、陰鬱を通り越してイジメで、日本の文学では薫風とともに語られる春は、いちどなど、オープンロードの脇の「見晴らし所」にクルマを駐めて丘の上から地平線まで続く道を見下ろしたら、手前はたしかに春だったが、丘の麓は夏の陽光とおぼしき光の溜まりが出来ていて、その向こうは、なんと、雪が降っている。
世界最悪、の呼び声が高い国民性が、どうやって出来たか、よく判ります。
かーちゃんととーちゃんの発想が、どうやって出来たか、想像に難(かた)くない。
もともと歴史上の縁故のあるニュージーランドまで、遙々やってきて、南島の、スコットランドそっくりの風土と、欧州には存在しない、「手つかずの自然」にぶっくらこいて、なんだか故国の、文明のせいで、ひねこびて、ダメになった人間たちの誰彼の顔を思い浮かべて、子供たち(←わしと妹のことです)に、「やさしい自然」というような根本から人間のわがまま勝手で、のっけから誤った世界への認識を身に付けさせないために、正真正銘、まだ誰も手をつけていない「自然」が充満した土地で育てるほうがよい、という決心で、そのことは、いまでも感謝している。
往還ルートが、ロサンゼルス経由、東京経由、シンガポール経由のどれかだったのは、後年、おもしろがってひとりで行き来してみて、それまでずっと思い込んでいたように「その三つしかない」わけではなくて、単に航空機の内装やなんかの好みで、三つに限定されていたようです。
ストップオーバーで数日滞在する土地の好みは、一にシンガポール、二に東京だったのは、ロサンゼルス経由のときは、わずかに一度、ハリウッドの丘に用事があって、数日滞在したことがあるだけで、残りはそそくさと、という言葉そのまま、空港のトランジットラウンジで、次の飛行機を待って、搭乗してオークランドへ向かうのを常とした。
とーちゃんは、いま考えると、少なくとも英語では、ひどい表現だが、その当時の表現をそのまま使うと「東洋趣味」の人で、日本文化についても「根付け」のかなりおおきなコレクションを持っていて、いまに続いているばかりか、病膏肓に入って、ついにはかーちゃんの反対を説得して、東京勤務を希望してしまうという人で、とーちゃんの意見が通れば、成田に下りて、数日、東京で過ごす事になっていた。
かーちゃんはシンガポール乗り換えが好みだったようです。
あとで妹とふたりで、何度も書いたように、シャトルの冷たい濡れた窓に鼻を豚さんの形にくっつけて、箱崎の、「高速道路の峠」から見える、文字通り「宝石箱を覆したような」夜景で、東京への圧倒的な好印象を持つが、そのころは頓着しないガキ感性と、小さい声でいうと、とーちゃんの仕事の関係のひとびとが差し回したクルマでホテルに直行していたのとで、印象も記憶も、ほとんどない。
そのころは、旧型ジェットが残っていて、航続距離の問題があったのでしょう、成田からクライストチャーチに向かうのにフィジーのナンディに着陸して向かうことが多かった。
むかしのことで、日本からやってきたエコノミークラスの人たちは、半強制的に土産物屋を通過させられたもののようでした。
子供の観察でも、JALとAirNZの共同運航便に乗ると、国情の違いが判って、例えば、中継地ナンディでの、この土産物屋への強制連行はJALのチケットを持っている日本の人たちだけで、キィウィたち(←ド近眼の鳥たちが乗っていたわけではなくて、ニュージーランド人を、こう呼びます)は、ラウンジで、「あなたは、どこに行かれましたか?」
「銀座は、よい街でございますねえ」
と、いまでも残っている、例の、ニュージーランド特有の、数世代古い、馬鹿丁寧な英語で、暇つぶしの会話を交わして出発便を待っていた。
後では、東京からはすべての便がクライストチャーチ(当時は、たしか月曜日と木曜日)か、オークランドに直行するようになって、日系キィウィの晩秋が知っていて、驚いたが、
クライストチャーチなら果樹園が、オークランドならば馬さんたちが駆け回る牧場が、ランドマークで、だんだんニュージーランドという国が好きになってくると、
文明の、人間には急テンポすぎるペースのせいで、壊れてしまった人間が蔓延る社会を離れて、
「ああ、ニュージーランドに帰ってきた」と、故郷に帰ったひとのような、安堵に包まれるようになっていった。
面白いことがたくさんあるが、やや騒々しい、「息せき切った」印象がある東京のコーフンとは異なって、クライストチャーチの空港に着くと、空港全体にウールの良い匂いが溢れていて、
これでほんとうに同じ地球の上だろうか、とおもうくらい時間がゆっくりと流れている。
空港を出ると、まるで一分の一縮尺のプラモデルです、とでもいうような、スタンドに載って飛行中を気取ったスピットファイア LF Mk.XVIEが、お出迎えしてくれるが、このころは、もう、
だれかの放火(日本人だ、という専らの噂だったが、多分、近所に「ジャポンヘッド」と陰口を利かれるエーボンヘッドという日本人が寄り集まって住んでいる地区があることからおもいついた、人種偏見のある愚かな人びとが流したデマだとおもう)でオリジナルの実機が燃えてしまっていて、わしが初めて見たときは、すでにレプリカだった。
メモリアル・アベニューという空港からフェンダルトンにあるかーちゃんととーちゃんのNZ別荘第一号、「町の家」までの一本道は、誰も歩いていなくて、いつかフィリピンからやってきた若い人が、大通りにひとっこひとり見あたらないことに驚いて、これはきっと、中国かどこかと戦争が始まったのに違いない、と考えて、そのまま空港に引き返そうとおもった、とマジメに述べていたが、聞いていたNZ人たちは笑いはしたものの、人がおおい都市からくれば、建物だけは都市のものなのに、無人で、なるほどなあ、と納得できる感想だった。
人口が、ちょうどバルセロナと同じくらいの150万であるオークランドや、人口は近郊を含めても40万人ちょっとしかないが、ニュージーランドではゆいいつの都会らしい都会であるウェリントンではなくて、クライストチャーチを選んだのは、追々、書いていこうとおもうが、人口は首都ウエリントンよりおおきくても、田舎町だからで、常々、
「ひとつの国を知ろうとおもったら都会に住んではいけない」と誰しもがいうとおり、
ニューヨークに長く住んでも、ニューヨークが判るだけで、アメリカという野放図な宗教国家、
子供のときの、わし先生によれば荒野に放り出された「ピューリタン・カルトの国」であるアメリカが判ったことには、少しもならない。
日本語でも地方の人は、よく東京イコール日本のような論調を聞きとがめて、
「あれを日本だと思わないでくれ」と憤るが、その通りでも、シンガポールのように極端ではないが、印象が東京への集約度が高い国で、英語国は、ほとんどの場合、地方が主体で、「イナカモノ」という語彙が主要な単語のひとつで、平安期の昔ならば、地方に国司となって物理的に出向くと、それだけで「娘がキズモノになる」という恐れ入谷の鬼子母神な理由で、国司の職をリモートでやってのけるのが普通だった「洛中がわたしの宇宙なの」の日本とは、ちょうど対極的な世界認識で、
したがって、フランスやイタリアやスペインとおなじく、都会にいても、さっぱりどこの社会のどんな文化にいるのか認識が育たないことになる。
広く世に知られた、欧州では片田舎であるイギリスの、シャーウッドの森ですら、殺風景で陰鬱な沼沢地に、人間が手で一本一本樹を植えることによって出来た、欧州の、つまりはどこもかしこも実物大盆栽の「自然」とはまるで異なる、
人間を寄せつけない広大な森が大部分で、ひとが踏み入ることが出来ず、モアがいまでも棲息していると信じる研究者たちがいるくらいで、鬱蒼とした森と、残りはハイランダーたちが住む土地に似て、荒野でしかない南島で、「マ、マクドナルドのビックマックが食べたい」と呻く息子をシカトして子供たちを巨大で圧倒的な自然のなかで育てたい、と考えた両親の考えは、繰り返しになるが、やはり、良いアイデアだった。
「なぜカナダやオーストラリアではダメなの?」という人もいそうだが、あのですね、
オーストラリアの自然は悪意に満ちていて、毒蛇もいれば毒クラゲもいて、そのうえとっておきの粗暴な動物たちもいて、
たとえばクロコダイルは有名ですね、キャンピングカーでピクニック旅行に行くことひとつを考えても、危なくて、下の子は聡明なので用心するに違いなくて心配なくても、特に好奇心ばかり強くて思慮というものに決定的に欠ける上の子供(←わしです)は、危なくてオーストラリアなんかに置いておけるものではない。
わし年齢で、子供のとき、ワシントン州の田舎で育って、子供のときから散歩するのにライフルを抱えていた女の友達が
「銃砲反対なんて、あんなの、都会のドクサレインテリのタワゴトよ。
森を散歩していて、グリズリーに出遭って、銃を持っていなかったら、どうすればいいというのよ、バカバカしい」と吐き捨てるように述べていたが、欧州人や日本の人や、アメリカでも都会人は勘違いしているが、アメリカ人が銃を捨てない背景のいちばんは、要するにそういう「生活感覚」で、個人の独立と自由を保障する云々は、どうせ、どっかの都会のヒネ者インテリが、保守の、リベラルの言うことはなんでも反対、の立場から、頭だけでデッチアゲた珍説で、
珍説弓張銃にしか過ぎないようにおもわれる。
念のためにいうと、これは、曲亭馬琴作・葛飾北斎画の傑作読本「椿説弓張月」のダジャレなんだけど。
成田からクライストチャーチへの直行便は、非常に楽ちんな便で、あとで、というのは2002年頃から1時間早くなったが、夜の9時に出て、朝の9時に着く。
いまのボーイング777よりも当時の運航機747ジャンボは鈍足で、11時間半だったかのフライトで、フルフラットではなくて、シートがでかいだけのファーストクラス(←早くに消滅した)/ビジネスクラスで、席に着いて暫くすると、フルコースの夕飯が振る舞われて、ガキわしの肉体は便利なもので、眼をつぶるとあっというまに眠って、ぐっすり眠りこけて、眼が覚めるころに朝食が出て、のんびりしていると、ワイマカリリリバーが見えてくる。
20代と30代は旅行ばかりしていて、むかしむかし、ノーマッド日記というのを日本語で書いてみたら、「ノーマッドって、なんですか?そんな日本語は聞いたことがありません。ちゃんと判る日本語で書けるようになるまではチラシの裏にでも書いておけばいいのではないですか?」と、よく嫌味を言われたりしたが、まだ誰も日本語人がノーマッドという言葉を知らないころから、
文字通りのノーマッド暮らしで、旅から旅、あちこちで、数週間〜数ヶ月いてしまったりするので、通算してみたことはないが、やってみれば、いったい世界を何周しただろう、というようなウロウロぶりだったが、そのなかでも、最も快適なフライトは、この便で、いま思い出してもなつかしい。
長じては、毎年、定例行事のようになって、成田のヒルトンに着くと、無料循環バスルートAに乗って、出来たばかりだった成田のイオンに行く。
なにをしにいくのかというと、ゲウチャイというタイ料理屋に滅法旨いクン・オブ・ウンセン
(KUN OBU UNSEN)があって、成田出立前に食べるのが毎年の習慣になっていた。
特に後半は、ヒルトンが指定ホテルになっていたUNITEDの乗務員に顔見知りの人も出来て、顔をあわせると、また会ったねで、ホテルのなかのアメリカ英語が響き渡るパブで一緒に各国のビールの違いの話を肴にビールを飲んだりして楽しい出発行事になっていました。
部屋にチェックインすると、テンプターズの「エメラルドの伝説」を聴く。
中国書家の墨痕を価値が判らないが眺めて、クリスマスの前週、やあ、今年も一年が過ぎたなあ、とおもう。
食事、ぐっすり、眼が覚めれば眼下の果樹園。
何度も繰り返して、自分という人間はシアワセな人なので、だいたいなにをやっていても幸せだが、このころのことを思い出すと、日本人にも悪意がある人がいること、嘘を平気でついて、それが嘘だとばれても謝罪するどころかほんとうだと言い張ること、嫌な点があることもいまでは知っているが、そのころは、世界の人間は遍く日本人を手本にすべきなのではないかと考えていたくらいで、そういう毎日が「はてな」の人々にオンラインで出遭うまで、続いて、いま考えるとウソみたいだが、マジメに日本人になればどうかと考えたことすらあった。
名古屋のN大学などは、「うちでよければ喜んで雇いますよ」と言ってもらったりして、いつもは忘れているが、けっこう真剣に日本に住むことを考えたことがあったようです。
クライストチャーチにはすぐそばにハグリーパークという広大な、というか、フランス人友に「え?これ公園なの?なんで街のどまんなかに野原があるのかとおもった」と言われた公園がすぐそばのフェンダルトンという地区にある「町の家」が用意されていたが、自然が嫌いだと述べていたはずの息子がニュージーランドの自然にだけは仄かな好意を感じていると看て取るや、
翌年には「農場の家」と呼ばれることになった牧場(といっても32エーカー=13万㎡=4万坪弱の、NZでは「ライフスタイル」と呼ぶ小さなホビーファームだが)が息子と娘へのプレゼントとして用意されていて、いま思い出してみると、どうもこの農場暮らしがニュージーランドをいまのように大好きになるきっかけであったようです。
特に十代の終わりから二十代の前半にかけて、この農場があるクライストチャーチの近郊とニューヨークのマンハッタンは、精神形成というか崩壊というかの時期で、おおきな役割を持っていた。
ひとりでやってきた農場で、いつもニュージーランドに不在のあいだ世話をしてもらっている隣の農場から馬さん友のジョンを請け出してきて、ジョンは途方もなく賢い馬さんなので、本来は回り道しかない、高い丘を、馬がやっと歩いて行けるような、横から見ると、転落したクルマの残骸が点々とある細い尾根道を通って、山向こうの友達の農場へ出かけて、泥酔して、酔い潰れたまま、ジョンの背に乗って帰ってくる。
夜空を見上げれば、一面の星で、なかでも天の川は、まるで宇宙の瀑布のように煙って、
なにも特別に悲しいことも、嬉しいこともあったわけではないのに、涙が止まらなくなって、そーか人間はこういうときにも涙が出るのか、と学習したりしていた。
生まれてからずっと、ひと言でいえば「下品」なので自分が育った英語社会を好きだったことは一度もなかったが、ニュージーランドは英語社会でも、広大な自然のなかに、ちょっぴり人間がいるだけの、人間存在の心許なさを国土で表現しているような国で、その自然が好きになっていった。
ニュージーランドはインターネット普及前夜だった当時は特にそうだったが、イギリスやアメリカからやってくると、タイムマシンで3世代くらいむかしのイギリスに来たようで、噴きだしてしまったり、呆然としてしまうイギリス人が多かった。
なにしろ、バルセロナのOOMのような世界の流行の最先端のバーにいても少しも違和感がない、クールな格好の若い女のひとびとが、
「御機嫌よろしゅう。今夜は、たいへんに快適な夜で御座いました。
どうか皆様にもよろしく。
わたしはここで失礼させていただきます」と述べていて、
ほっぺたをいくらつねってみても、現実の光景とは到底おもえませんでした。
礼儀正しさも、かつてはdisciplineの国そのままで、見てくれの「マナー」だけではなくて、心からの礼儀正しさ、では言い方がヘンだが、魂にまで及ぶような礼儀正しさで、
ミラベルという地区のマクドナルドで、ハンバーガーを食べながら、ふと窓の外を見ると、窓拭きの、いかにも態度も風体も悪いにーちゃんが、椅子から半分ずっこけそうになりながら、半ケツ座りで、絵に描いたような態度の悪さで、空を見上げるように仰向いて煙草をふかしている。
ちょうど裏口の前で、駐車場への近道で、行き交う人が、舌打ちしそうな顔で見ていくのに知らん顔です。
ところが
ところーが
そこにステーションワゴンが現れて、よく見るとハンティキャップマークが付いていて、
そこから杖をついて立ち上がるのがやっとのばーちゃんがクルマのドアを開けた…とおもった瞬間、脱兎のごとく、光よりも早く、は、そりゃウソだが、瞬きするあいだのスピードで、さっきの煙草にーちゃんが、でっかいばーちゃんを、若いとはいえ、ちっこい痩せ細ったにーちゃんの腕で支えて、さっとクルマの後ろからクルマ椅子を出して、ばーちゃんを座らせて、そおっと、と言いたくなる押し方でドアを開けて、ドア止めをして、静々と入ってきた。
いくらそのころのイギリスでも、よく有る風景だと言っても、ぶっくらこいたのは、その一瞬も躊躇しない決断の早さと、手際の良さ、まるで「人を助けるために生まれてきました」とでもいうような善意を発揮する際のためらいのなさで、ちょっと見たひとは、ばーちゃん子の孫が、家からずっと付き添ってきたのだと思ったでしょう。
裏口からドアを開けて休憩に戻る彼に親指を立てて見せると、
「仕事の一部だよ」とオオウソをついて、勤めてクールを装って戻っていった。
ニュージーランド人には、いまでも、親切の瞬発力に優れたところがあって、オークランドの目抜き通り、クイーンストリートのスクランブル交差点で、日本の人か中国の人か、アジア系の女のひとが見事なくらい派手に転んで、交叉点一面にペンや化粧道具、その他ハンドバッグの中身を洗い浚いぶちまけてしまった。
あれは多分日本から輸入したカウントダウン付きの交通信号で、あと二十秒、と表示が出ている。
女の人が転んだ瞬間、スクランブル交差点を渡っていた人全員が、ひとりは女の人を助け起こし、残りの数十人かのひとびとは、文字通り瞬くまに交叉点じゅうに散らばった細々した所持品を拾い集めて女の人に渡している。
まさか、そこまで短時間のはずはないが、その間、5秒もかからなかったのではないか。
女の人は動転していたのでしょう、ありがとうも言えないでいたが、そういうことには構いもしないで、またみんな四方に散っていく。
「むかしはロンドンは良い街だった」と祖父や曾祖父がなつかしむ通りの光景で、
何世代も古くて、格調が滑稽なほど高いのは、なにも言語だけに限ったものではないようでした。
生まれて始めて日本語で書いた随筆、「ゴドレーヘッド」にも書いたが、
クライストチャーチの若い人は、大好きだった恋人が去ってしまったとき、あるいは孤独に耐えられそうもなくなったとき、ゴドレーヘッドという南極海に面した岬の突端に、大声で泣きに行く。
社会文化の力、というものがあるので、自殺するひとは少ないが、若いということは、誰でも知っているようにつらいことで、嵐のなかを大洋を渡るようなもので、誰にとっても、もうダメだ、こんな人生を乗り切っていけるわけがない、とおもう瞬間にあふれている。
そういうとき、15万円のローンを組んで買った、ドアの一枚が車体と異なる色だったりする、オンボロのクルマを運転して、ニュージーランド人の若者たちはゴドレーヘッドに行く。
南極にまで広がる、海に落ちれば15分も生きてはいられない冷たい水の鈍色の広がりを岬の丘の上から見渡して、自分の小ささを殆ど物理的に感じることによって、若いキィウィたちは自分を立て直す。
振り返って、クライストチャーチという還る場所を持っていたことが、十代と二十代という最も厳しい天候の海を渡るうえで、どれほど助けになったことか。
他人にいうことではないので、ひとつひとつ具体的に説明する愚かな人間はいないので、
書かないが、よくあの衝迫を生き延びてこられたものだ、と考えるたびに、
ゴドレーヘッドとクライスチャーチを思い出す。
英語国の田舎のひとびとは、トランプサポーターを見れば想像はつくとおもうが、
荒っぽくて、考えが足りず、野蛮といってもいいくらいだが、それでも自分がどこから来たか、自分の心の体成分がなにから出来ているのか、知るためには、とてもよかった。
コロナパンデミックで、しばらく出かけない街になってしまっているが、そろそろ落ち着いてきたので、また来月にも出かけようかとおもっています。


コメント
1「ピューリタン・カルトの国」
という表現は、J.D.Vanceの『善きサマリア人のたとえ』の解釈に関して、communicationという日本語には訳しにくい言葉の語源であるラテン語のcommunicatioを旧約聖書の世界や中世欧州の世界観を想像しながら、スピノザBaruch De Spinoza がdiscommunicatioを経て思索したものや彼の生き方と比較しながら、Vanceに少しでも分があるならばと考えながらPerplexityや Grokと一日がかりで仮説や推論を投げかけてみて、ようやくわかりました
communicatioという意識のまま内外の「悪」がもたらすものに脅威を感じて、古代や中世と同じように闘っているんだと
それならば福音派保守系も含めて「わかる」となるんです
『キリスト教団体がバンス米副大統領を猛批判...「イエスに背いた」とされる発言とは?』
https://news.infoseek.co.jp/article/newsweek_E537423/#