北村邦夫著「ピル」(集英社新書 2002年出版より)
(雑な要約はネットスラング多い瑞谷語として頑張って読んで(゚⊿゚))
(カッコは私のモノローグで北村先生の意図ではない)
(余談・1950年、芳香園製薬よりメスコン発売。事実上の経口中絶薬だったが後に成分変更。)
1955年頃の家族計画周辺 家族計画連盟の座談会より
・国際家族計画会会議(日本開催)でピルの発信がされ、ピルの実用が認知される
・奈良林祥「意識高い系が高い意識とRINRIを持って初めて受胎制限は成り立つ、それが飲み薬で解決できると高い意識が保てない」
・高口保明「我々婦人科医の考えがぶち壊されないか不安」
・樋上貞男「(無害ならば)むっちゃイケてるやん」
などなど、意見色々。
その後それを受けて当時の日医大医師の元、エナビット(ノルエチノドレル+EE)を輸入し臨床研究
しかし高用量と薬剤単価の問題で経口避妊薬としては難しいと
1957年、シオノギがノルエチステロンを輸入してノアルテン錠を販売、ただし治療薬認可
1960年、大日本製薬がエナビット(当時高用量の方)を治療薬認可
同年アメリカでエナビット10(エナビットから低用量化)が発売されると大日本製薬もエナビット10を避妊薬として厚生省に認可申請、臨床試験開始
シオノギも後を追う
申請を受け厚生省、調査委員会設置、ピル認可申請の時にはこんだけ情報出してねガイドラインを作る
大日本製薬もシオノギも「オーケー」と合わせて申請
でもぶっちゃけ厚生省は家族計画連盟とかの関係もアレコレだったから手前だけでオーケーとするわけにもいかず?
その他諸々(要するに民意みたいな)のもあっただろうと(当時はまだ高用量長期服用の問題点がわからなかった時代ではあった)
1961年、産婦人科学会、調査研究が目的の委員会発足
方々医院から多数周期データを集め有効性有り、その他医師も特別な悪影響なしと
1964年、厚生省 2年間の使用期限と検査、添付文書配布等の対応にて6月には承認する意向
この段階では当時厚生省が非常に積極的だったことが伺える
しかし反対姿勢の家族計画連盟は当時の古屋会長名義で「時期尚早」、承認延期。
1964年5月、日本シエーリングが「アノブラール」を困難症治療に加えて「排卵抑制剤」として認可申請・承認。
(゚⊿゚)<なんという盲点
うちもうちもと言わんばかりに他製薬会社も追随。
1965年2月、新薬特別部会で再び経口避妊薬承認の審議が予定されていたが、当時他の感冒アンプル(ってなんだと思ったら風邪感冒薬の飲むやつね)での死亡事故が大きな問題になっていて特別部会自体を中止
1965年3月27日、産婦人科学会の内分泌委員会(先の61年発足のやつ)は、3年間の調査結果として「使用を慎重に、医師の指示監視の下だったら十分イケるんじゃね」
厚生省「よっしゃ、7月にでも、中止してた特別部会やったるで」
でも前日になって急遽中止にされる。理由はいまだ不明。噂はあるけど……(後にDr.北村自身が個別に聞き込むと「いや副作用の問題」と言われたらしいが)
その後新薬特別部会は一切開催されず。道閉ざされる(Dr.北村談)
ちなみに承認される気満々だった製薬会社は既に準備万端で発送パッキングまでやってたくらい。(製薬会社ちょっとかわいそうやな)
1971年、厚生省は1965年から認可してきた「排卵抑制」に対して、「排卵抑制って言うのやめーや」と禁止。
ここで田中角栄の例の言「承認された効用以外を言うのはアレだけど、使う人がアレするにはまあアレできんしなw」
いうなれば暗黙として国は避妊効果を認めはするけど公言じゃないし、医師個人服用者個人が判断してや、国は知らんけどな姿勢。
1980年代、低用量ピルが海外で主流になっていく。
その頃日本では治療認可の混合ピル類が避妊転用されるという時期が続く。
Dr.北村いわく「特に検査もなされず」「ほしいと行けば婦人科で誰でも処方してもらえた」
(ここは北村先生の立場の巧妙な嘘のような。いや嘘は書いていないんだがな…)
(特別検査は不要だと思うが細やかな問診は必要だと思う)
1982年、家族計画連盟は委員会設置、低用量ピルの臨床研究開始(随分とご一転だこと)
結果良好、関係各所に働きかける
1985年、日本母性保護医協会(現日本産婦人科医会)、産婦人科学会、低用量ピル臨床試験の必要性についての要望書を提出
1986年、家族計画連盟も低用量ピル許可促進書提出
同年、厚生省臨床評価ガイドライン作成
1987年、各製薬会社、ガイドラインに基づき一斉に臨床試験開始
北村おじさん曰く< 女性が最も気にする体重の増加もわずかでした(そんなことはすこぶるどうでもいいと思うんだが)
製薬会社7社から承認申請、1992年夏には承認される見通しだった が……
1992年3月、世界のAIDS状況に影響され先送り。(まーた製薬会社かわいそうやな)
Dr.北村<僕はメディアで「そんなの関係ねえ」って言ったやで(要約)
1995年、厚生省、エイズとピルとの関連性の薄さを認める。承認進むかと思いきや
同年、第三世代混合ピルの副作用問題が上がる(のちにマーベロン認可先送りの原因でもある)
1996年、菅直人厚生大臣ちょー人気。ピルについても前向きかと思われた。
Dr.北村も直接やりとりし「今年は無理かわからんけど来年にもイケるで。ピル使うかは個人が決めることで国がどうこうってやつじゃねーべ(要約)」とのこと。
(この頃は海外から「日本はちょー遅れてるやべー国」と認知されていて、ぶっちゃけ日本をあざけるネタもあったくらい。)
1997年、一転「やっぱ国民の声聞いた方がよくね?」
当時薬害エイズ問題、エイズ感染問題諸々、そして後に「環境ホルモン」という意味不明ワードをぶち込まれ、再び苦境に。
1999年11月、ようやく承認。
承認判を押したのは宮下厚生大臣
承認に至った理由は様々だが、当時の外圧(海外からの)も無視できない
総論としてDr.北村は、厚生省内部の長い意見不一致が問題ではあったとするも、方々の結論として終盤そこはクリアだったと。
それよりも感染症研究家、特に国側の研究機関所属の学者はピル反対として強かったと、厚生省内部の人間から聞いたとのこと。
以降、北村先生の回想。
Dr.北村は内心色々あったものの、現場の自分としてはピル云々よりも性教育的観点の不足を強く感じており、ピル認可の遅れにはぶっちゃけ当時そこまで関心がなかった。実際彼のクリニックではティーンの診療が多く、何より「特にセックスしたくなかったのに彼に嫌われたくなかったゆえに」というような女の子を散見し「性教育よな~」と思ってた、とのこと(雑な要約)。
しかし実際に海外の諸々に触れ、リプロダクティブヘルスのスタンスに触れ、そしてマーガレット・サンガーの孫に会い、自分自身の立ち位置自体がそもそも軟弱だったことに気付く。
そして日本に帰り、思い切って東京の「カイロ会議報告会」に飛び込んだ。
(※国連が1994年9月にエジプトのカイロで開催した、世界の人口と開発に関する大規模な国際会議……に参加した人らが日本で報告をするという会。女性活動家多数参加)
そこでピルの邦ちゃん、少ない男性参加者の中で勇気を出して切り込んだ。
「日本の女性のが、ピル認可だって結局されんかったしリプロ的にアレやんか、お前らどう思うねん(雑な要約)」
(日本有数のフェミニストの集まりで、これはなかなか勇気ある。邦ちゃんやるやん)
日フェミ「日本の女にそんな副作用あるもの飲ますな」
日フェミ「製薬会社と結託してんのか」
Dr.北村、明言しています。以下引用。
「それまでピルの承認に対して、非常に消極的だったのは、実は女性の活動家たちだったのです。日本では、ピルは副作用の代名詞のようにいわれ、大半の女性が「私は選ばない」を繰り返してきました。(中略)女性活動家たちの中に家族計画や避妊に関する専門家が少なく、ピルについての正確な情報を得ることができなかったこともその理由の一つだったと思います」