なぜこの10年で「中道左派」ぽい論客や政治家が次々と「右旋回」してしまったのか?
もう10年以上前になるが福島瑞穂さんたちと「リベラル再生会議」という連続イベントを開催していた。当時僕は石破茂さんと対談本を出したばかりだったので節操がない、と怒られたのだが、よいシリーズだったと思う。と、いうかいろいろな立場の人と議論することの何が問題なのか、まったく分からない。
あれから10年以上経って、今僕はリベラルの側から「あいつは敵だ」と言われ、嫌がらせを受けている。僕はマイペースで政治と付き合って、いち市民として考えているだけなのだけどこの10年くらいで、リベラルの側から罵倒されることが本当に増えた。
僕のほうはむしろ、政治的には安倍晋三政権に批判的だったために保守の側を批判するケースが増え、森友問題やアパホテルの歴史修正主義問題を追求したことでテレビの仕事も失ったりもした。しかし、同じくらい、あるいはそれ以上に「リベラル」から疎まれるようになった。
理由は単純で、この10年でSNSで積極的に活動する「リベラル」の多くが、少しでも歩調を合わせない人間や、問題ごとに是々非々で、支持したり、しなかったりの立場を取る人間を「敵」と認定して攻撃するようになったからだ。
たとえば僕は、それほど積極的な支持ではないが国政選挙では立憲、国民の両民主党の候補に(選挙区の情勢を読み)入れることが多いし、先の都知事選では消去法で蓮舫に投票している。こういう線引きに意味があるとは思わないが、無理矢理引けば「半分よりやや左」だと思う。選択的夫婦別姓は賛成、天皇制は反対、大阪万博にも反対だ。しかし自衛隊は改憲して国軍化すべきだと思うし、マイナ保険証やライドシェアにも基本的に賛成だ……と意見を表明すると、たちまち「リベラル」の側から特に「敵」認定される。いや、一般論として現代社会の複雑性を考えると、左右にパッキリ分けることが難しいことくらい、中学生でも分かると思うのだけど、いつの間にか彼ら彼女らの脳内にある「リベラルのパッケージ」に8割くらい合致していないと「敵」認定されるようになってしまったのだ。
「音喜多の友人の宇野はリベラルの敵」
しかし「政策パッケージがリベラルの基準を満たしてない」という理由でパージされるのは(十分幼稚だが)まだマシなほうで、最近多いのは(そして僕がこの半月嫌がらせを受けている大きな理由が)「人間関係」だ。
つまり過去に石破茂と対談本を出し、音喜多駿の友人である宇野はリベラルの「敵」認定されてしまうのだ。
本を読んでくれた人は分かると思うが、僕と石破さんは意見が一致するところよりは、しないところが多かった。だからこそ議論する意味があったと僕は思うし、こうした議論の場を大事にしてくれる石破茂は少なくとも安倍晋三よりははるかに次の首相に相応しいと考えたのだ(だからこそ、僕は今の石破さんに「あなたはこんなことのために総理になったんですか?」と問いたい)。
音喜多については、何度も言うが僕は彼の維新入りを止めた友人の一人だった。いまでも僕は維新に批判的な立場から、彼と議論している。しかし「リベラル」な人の多くは「音喜多と絡んでいる宇野は敵」であると、その「絡み」の内容を問わず「こいつを攻撃するべき理由」に掲げてくるのだ。
暇空茜というミソジニー系陰謀論者が「対話罪」という言葉を用いて、自分が敵視する相手と「やり取りした」という理由で、そのやり取りの内容を問わずその人も「敵」として認定して攻撃しているが、「リベラル」な人たちにもこの「対話罪」を適用する人が多い。僕はこれがよくないと思う。
「敵」に対しては「何をやってもOK」と考える人たち
実際、半月前に僕がTBSラジオの日本を代表する「リベラルな」番組に出演したところ、番組ハッシュタグには僕の出演が前週に予告された時点で「音喜多の友人」として嫌悪する投稿が現れ、「こいつは叩いてOK」という空気が醸成されていった。しかし出演後半月も、(つまり今も)しつこく攻撃されている。要するにこの人たちはまるで暇空のように僕に「対話罪」を適用したのだ。
そしてこれが最大のポイントなのだが、この「攻撃」はもはや「議論」ではないのだ。そもそも番組で話した内容に対しての批判的な意見なら、いくら言われても仕方ないと思う。しかし、違うのだ。今回の件でいえば、「リベラルな」人たちはよってたかって僕の容姿や、喋りかたを「気持ち悪い」と罵倒し、「友達いなそう」と(彼等が想像した僕の)私生活を貶し、僕が一言も言ってもないような意見を捏造して批難してきたのだ。これはどう考えも「議論」でもなんでもなく、ただの「嫌がらせ」だ。番組ハッシュタグのタイムラインでは、とても気持ち良さそうに「みんなが叩いている対象を自分も叩く一体感」(集団リンチ参加によるマジョリティとなる快楽)を貪る「リベラル」の姿が観察された。
仮にも「平和」とか「自由」とか「平等」を掲げる人たちが、「敵」認定しているゲストが番組に出た瞬間に議論と無関係な中傷を重ねてリンチで盛り上がる……。さすがに、この国の「リベラル」ってなんだろう、と思わざるを得なかった。
そして僕は必要な問題提起だと考えて、ことの顛末をnoteにまとめた。
これが「リベラル」な人たちには相当気に食わなかったらしく、今度は「いいじめられるお前のほうが悪い」と言わんばかりの罵倒が押し寄せてきた(この人たちの考える「リベラル」って一体……?)
「人類の1/3〜1/4の利己的で排他的で非科学主義的な人たち」を「どうするか」と(なぜか自分は除外して)「上から目線」で「どうするか」と論じる傲慢さ
特にびっくりしたのがリベラルを批判する僕は「ネトウヨと変わらない」とFacebookで罵倒してきたこの人だ。この理屈だと「リベラル」側は何をやらかしても批判してはいけない(ヒトラーに利するからスターリンは何をやっても無罪)ことになってしまうのだが、行き着くところまで来たな……とか思いながら彼の他の投稿をどんな人だろうと思って見てみたところ、ちょっとギョッとするような投稿があった。
「自分たち」以外は本質的に「利己的」「排他的」「非科学的」で(だから自分たちが)「どうするか」というナチスばりの選民思想を得意気に開陳しているのに愕然とした。と、いうかこういった傲慢さや差別意識への反発がトランプを産んだことが、2025年にもなってまだ理解されていないんだなあ、と辛くなった。
自分とは政治的な見解が違う人間に対して、このような差別的な言説で「分離」して「どうするか」なんて言っていたら、民主主義なんて成り立つわけがない。なんでこの程度のことが分からないのだろうか……?
みんな「これをやられて」右旋回したのではないか……?
そして問題はこのレベルの人がそれなりにいて、リベラル系のメディアに毛色の違う論者が出た瞬間に実際に番組で話した内容とか関係なく、「保守系政治家と対談した」みたいな理由を掲げて(いや、対談くらいするだろ。どの党の人とも……)議論と無関係なこと(容姿など)を攻撃してくる状態になっていることなのだ。
しかし、みんなこれをやられて「右旋回」したんだろうなあと思った。
さすがに具体名は挙げないが、この10年で、かつては僕よりも明らかに左寄りだった中道左派的な政治家や論客が、気がついたら僕よりも随分と右寄りになって、僕からするといわゆる「冷笑」ムーブに加担するようになってしまった。僕はそのことをたびたび批判してきて、そのせいで嫌われてしまった人もいるけれど彼等を「右旋回」させてしまった理由の一つが、この「リベラル」の自分たちのマジョリティの路線に合致しない人間や、その路線に疑問を呈する人間を「ネトウヨと変わらない」と敵認定して攻撃する文化や、その攻撃時にもはや議論と無関係な容姿や話し方への「気持ち悪い」といった罵倒をためらわない文化にあると思う。
特に悪質なのは「切り抜き」による印象操作だ。
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u-note(宇野常寛の個人的なノートブック)
宇野常寛がこっそりはじめたひとりマガジン。社会時評と文化批評、あと個人的に日々のことを綴ったエッセイを書いていきます。いま書いている本の草…
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