“PR不足” “チケット価格” ハノーバー万博から教訓を探る

“PR不足” “チケット価格” ハノーバー万博から教訓を探る
大阪・関西万博は準備が大詰めを迎えていますが、開幕まで1か月を迎えても会場外での機運の盛り上がりは今ひとつ。

それが前売りチケット販売の伸び悩みにも表れ、課題の1つとなっています。

来場者が想定の2820万人を大きく下回れば、チケット収入は減り、赤字の可能性も指摘されています。

いまから25年前、来場者数が伸び悩み、大きな赤字を出した万博がドイツ北部ハノーバーでありました。

現地で取材してみると、今回の万博が教訓とするべき点がいくつか見えてきました。

(大阪放送局記者 蜘手美鶴)
ハノーバー万博とは

2000年6月から5か月間、ドイツ北部ハノーバーで開かれた万博。東西ドイツ統一10周年を記念して開催され、当初4000万人の来場を見込んでいたが、最終的に半分以下の1810万人にとどまった。

チケット収入が大幅に減少したことで、約1200億円の赤字を出したことでも知られる。関係者によると、赤字内訳の7割がチケット収入減によるものだったという。

莫大な赤字は、連邦政府と地元の州が税金で補填し、ドイツ国内で激しい万博批判が起こった。

25年後の万博会場

ドイツ北部ニーダーザクセン州の州都ハノーバー。

人口50万人ほどのこの街は、世界的に有名な「見本市」の街として知られています。
現地を取材に訪れたのは1月下旬。

こぢんまりとした街の中心部をトラム(路面電車)が走り、駅前の広場では野菜や魚のマーケットが並んでいました。

今からおよそ25年前、ここで東西ドイツ統一後初めてとなる万博が開かれました。

万博跡地は市中心部から車でおよそ20分の郊外にあります。
東京ドーム約35個分にあたる総面積163ヘクタールの会場のうち、およそ半分の88ヘクタールは既存の見本市会場を活用。

残りは、閉幕後に再利用することを念頭に、新たに整備されました。

建設したパビリオンを生かしたまま、ITパークなどとして再利用していく計画があったといいます。
会場跡地を訪れると、広い敷地の中には、当時パビリオンとして使われていた建物のいくつかが、ほぼ同じ姿で残っていました。

そのうち、イベントホールだった「エキスポ・プラザ」は、現在は多目的アリーナとして活用されています。

この日はコンサートが開かれ多くの人がいました。

企業オフィスや幼稚園、大学などとして活用されているパビリオンもあったほか、オランダパビリオンは学生寮やオフィスとして再利用が決まり、改築工事の真っ最中でした。
しかし、フェンスで囲まれ草に覆われた空き地も目立ちました。

土地の売却先は決まったものの、具体的な再利用の計画は進んでいないといいます。

売却手続きが複雑で時間がかかったり、パビリオンに企業が事務所を構えたものの数年で撤退したりするなど、さまざまな要因から再利用が当初想定のようには進んでいないといいます。

再利用の遅れは万博後の大きな課題の1つだといいます。

どんな万博だった?

ハノーバー万博は2000年、東西ドイツ統一10周年を記念して開催されました。

「人間-自然-技術」をテーマに掲げて、各パビリオンでは地球温暖化や環境問題を前面に打ち出した展示が行われました。
テーマ性が強かった分、一部では「エンターテイメント性に欠ける」「お金を払って勉強に来ているようだ」との声もあったといいます。

チケットの値段が高めだったことや、事前のPR不足などが原因で、開幕後の1、2か月は来場者が少なかったといいます。

その様子を実際に目にした人がいます。

当時、会場でガイドとして働いていたペーター・シュトルックさん。
「世界がハノーバーに集まる場に立ち会いたい」と万博会場で働くことにしましたが、「最初の2か月間はほとんど何も仕事がなかった」と振り返ります。

ガイドをするにも来場者が少なく、同僚たちと会場内で待機する日が続きました。

土産物店でもスタッフが余り気味。

シュトルックさんの同僚の中には、7月に入って解雇された人もいたといいます。

「最初は来場者が少なくて、明らかにスタッフの数が多すぎでした。予想された来場者と実際の人員配置のバランスが取れていませんでした」と説明します。

ただ、博覧会公社がテレビCMを増やしたり、チケットを値下げしたりした頃からは来場者が増え始めたといいます。
ドイツパビリオンには数時間待ちの行列もでましたが、開幕直後のスタートダッシュの遅れが響き、最終的な来場者は1810万人。

当初目標の4000万人にははるかに及ばず、結果として赤字を生みました。

要因についてシュトルックさんはこう指摘します。
当時ガイドとして働いていたペーター・シュトルックさん
「そもそも万博とは何なのかを最初から人々に十分に説明するべきだった。ドイツ人には初めての万博で、来場者も『これは一体何なのか?テーマパークなの?』と戸惑いながら来ていた」

ハノーバーからの教訓

なぜ開幕直後の来場者が伸び悩み、大きな赤字を出したのでしょうか。

その事情を知る人がいます。

博覧会公社元経営委員のラインハルト・フォルクさん。
民間会社の経営部門を渡り歩き、万博には開幕前から携わってきました。

会期中は会場内の事務所で日々の運営の指揮を執っていたといいます。

来場者の伸び悩みと莫大な赤字が生じたことについて、その理由を尋ねてみました。

フォルクさんが挙げたのは主に4点です。
▽事前PRの不足

▽万博のテーマが伝わりにくかったこと

▽チケット価格が高すぎたこと

▽過大な想定来場者を元に収支計画を立てたこと

事前PRの不足

まず、事前のPR不足について。

フォルクさんによると、博覧会公社の中では開幕前、「見本市会場はもともと知られた場所だし、万博のPRをしなくても人は来るだろう」といった雰囲気があったといいます。

加えて、各パビリオンの完成が開幕直前になったため、事前にPRしたくても発信できる中身がなかったそうです。

「すべてのパビリオンが完成したのは開幕の数日前で、万博で何が見られるのか、事前に示すのがとても難しかった。そのことを甘く見ていました」と振り返ります。

万博のテーマ「人間ー自然ー技術」も一般への浸透が進まず、「万博とは何なのか」一般に理解してもらうのに時間がかかったと言います。

また、チケット価格は開幕時、1日券は約4100円で、当時のドイツの経済状況から考えると、やや高額だったといいます。
来場者が伸びなかったため、利益率が下がることを覚悟の上で、開幕わずか1か月で500円値下げ。

その後、お得な夜間チケットを導入したり、電車代込みのチケットを販売したり、あの手この手で来場者獲得に奔走しました。
さらに、過大な想定来場者を元に収支計画を立てたことも、赤字が生まれた大きな要因の1つといいます。

万博は東西ドイツ統一10周年を記念して行われましたが、当時の経済状況は低迷していて、万博開催には世論が賛成と反対でほぼ拮抗していました。

そんな中、東西統一を世界に印象づけたい連邦政府は、「税金を使わない」という条件の下、万博開催を決定。

民間のコンサルティング会社が試算した「想定来場者4000万人」を元に、収支計画が組まれたといいます。

1200億円という巨額の赤字となったことについてフォルクさんはいま、こう振り返ります。
博覧会公社 元経営委員 ラインハルト・フォルクさん
「万博は利益を上げるために行うべきではありませんが、納税者に痛みを強いてまで行うべきものではありません。理想としては均衡が取れること、バランスが取れることなんです」

万博がもたらしたもの

赤字となった万博ですが、ハノーバー市にもたらしたものもありました。

誘致段階から万博に関わったヘルベルト・シュマルシュティーク元市長は、27歳で市長になり、その後34年にわたって市政運営を率いてきました。
万博を「天からの贈り物」と振り返ります。

シュマルシュティーク元市長が強調したのは、「万博による市の発展」です。

万博開催に合わせて、道路や鉄道、トラムなど路上電車の整備が進んだといいます。

市の呼び物である見本市を万博会場に使ったことで、見本市の中のインフラも強化されました。
ヘルベルト・シュマルシュティーク元市長
「これらの投資は万博がなかったならば決して得られなかったでしょう。ハノーバーの開発は万博開催という運に恵まれました。さらに、万博はハノーバーの国際的知名度も上げてくれました」
シュマルシュティーク元市長は会期中、毎日日記を付けていました。

ノートは3冊にのぼり、最終日の10月31日にはこう記されていました。
「Expo2000(万博)は街として成功した。私にとっても、だ。(事前PRの強化など)もっと何かできることがあったとも考える」
そして、万博に合わせて会場近くに整備された住宅地「クロンスベルグ」周辺は、今も新たなアパートが建てられ、拡大を続けています。

レンガ造りのアパートは特に若い世代に人気といいます。
当時はアパート3000戸と新駅が整備され、万博会場で働く人たちが住んでいました。

閉幕後は若者や家族連れが移り住み、学校や幼稚園、銀行やクリニックなども整備されました。

ハノーバー市内や周辺市へのアクセスもよく、新たな「街」が誕生したといいます。

クロンスベルグを取材で訪れたのは、日曜日の朝。

近所の教会から鐘の音が響く中、広々とした公園の遊具では親子連れが遊んでいました。

博覧会公社の元職員でマーケティングも担当していたトーマス・ボルホルテさんは、この地域の住民の1人です。
万博跡地の再利用などに携わる トーマス・ボルホルテさん
「このエリアの開発のきっかけは万博でした。必要なものは全てここあり、全部用が済みます」

次世代へ「レガシー」

ハノーバーで万博を開催したことの意義など、形のない「レガシー」(遺産)を受け継ぐ若い世代もいます。

マウリス・ゼメラさんです。

万博に出展された品々の収集や展示などを行っているボランティア団体「Exposeeum(エクスポゼウム)」のメンバーです。
インタビューを申し込むと、「Hannover 2000」という万博トレーナーを着て、エクスポゼウムの倉庫の前で出迎えてくれました。

万博当時、ゼメラさんは3歳。

万博の記憶はありませんでしたが、大学生時代にハノーバー万博の展示品を見て、「万博は『生きた歴史』だ」と感じたといいます。

万博閉幕後の2001年、万博に感動した市民約400人が「ハノーバーで開かれた万博の意義を残していこう」と結成したのがエクスポゼウムです。

これまでに集めた収蔵品は2000点以上。

各国から寄贈された展示品やパンフレット、写真やビデオなど多岐にわたります。
ゼメラさんは若い世代向けにビデオテープなどをデジタル化して、SNSなどで発信しています。

今年は万博から25周年。

博物館として収蔵品を展示していくことを目指し、現在は展示スペースを探しているといいます。

ゼメラさんにとって、万博とは何なのでしょうか。
Exposeeumの収集品を管理 マウリス・ゼメラさん
「これは歴史の一部です。展示品を残して、一般に広く万博の考えやアイデアを伝えていきます。例えば持続可能性の話などですね。現代社会で問題になっていることの答えが、ハノーバー万博で示されているなどするからです」

教訓を糧に

現在、ドイツでは、次の次の万博として、2035年のベルリン万博の誘致を目指す動きがあります。
ハノーバー万博は巨額の赤字を出した一方で、市民にレガシーも残し、それは次世代へと受け継がれています。

当時の博覧会公社元幹部のフォルクさんは、大阪・関西万博がハノーバーのさまざまな教訓も参考にして、成功することを願っていました。
博覧会公社 元経営委員 ラインハルト・フォルクさん
「大阪・関西万博を開催することを、心から誇りに思うことが非常に大事です。来場者が家に帰り、『これは忘れられない思い出になった!一生忘れない!』と言ってくれたら、それはまさに成功といえるでしょう。大阪・関西万博の成功を祈ります」
ハノーバー万博の教訓を生かし、うまく来場者を呼び込み、訪れた人の心にレガシーを残すことができるか。

大阪・関西万博の開幕まで残された時間は1か月です。

(3月7日 ほっと関西で放送)
大阪放送局 記者
蜘手美鶴
新聞社を経て2024年入局
国際関係や多文化共生などについて取材
“PR不足” “チケット価格” ハノーバー万博から教訓を探る

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“PR不足” “チケット価格” ハノーバー万博から教訓を探る

大阪・関西万博は準備が大詰めを迎えていますが、開幕まで1か月を迎えても会場外での機運の盛り上がりは今ひとつ。

それが前売りチケット販売の伸び悩みにも表れ、課題の1つとなっています。

来場者が想定の2820万人を大きく下回れば、チケット収入は減り、赤字の可能性も指摘されています。

いまから25年前、来場者数が伸び悩み、大きな赤字を出した万博がドイツ北部ハノーバーでありました。

現地で取材してみると、今回の万博が教訓とするべき点がいくつか見えてきました。

(大阪放送局記者 蜘手美鶴)

ハノーバー万博とは

2000年6月から5か月間、ドイツ北部ハノーバーで開かれた万博。東西ドイツ統一10周年を記念して開催され、当初4000万人の来場を見込んでいたが、最終的に半分以下の1810万人にとどまった。

チケット収入が大幅に減少したことで、約1200億円の赤字を出したことでも知られる。関係者によると、赤字内訳の7割がチケット収入減によるものだったという。

莫大な赤字は、連邦政府と地元の州が税金で補填し、ドイツ国内で激しい万博批判が起こった。

25年後の万博会場

ドイツ北部ニーダーザクセン州の州都ハノーバー。

人口50万人ほどのこの街は、世界的に有名な「見本市」の街として知られています。
ハノーバー市内
現地を取材に訪れたのは1月下旬。

こぢんまりとした街の中心部をトラム(路面電車)が走り、駅前の広場では野菜や魚のマーケットが並んでいました。

今からおよそ25年前、ここで東西ドイツ統一後初めてとなる万博が開かれました。

万博跡地は市中心部から車でおよそ20分の郊外にあります。
万博会場跡地
東京ドーム約35個分にあたる総面積163ヘクタールの会場のうち、およそ半分の88ヘクタールは既存の見本市会場を活用。

残りは、閉幕後に再利用することを念頭に、新たに整備されました。

建設したパビリオンを生かしたまま、ITパークなどとして再利用していく計画があったといいます。
会場跡地を訪れると、広い敷地の中には、当時パビリオンとして使われていた建物のいくつかが、ほぼ同じ姿で残っていました。

そのうち、イベントホールだった「エキスポ・プラザ」は、現在は多目的アリーナとして活用されています。

この日はコンサートが開かれ多くの人がいました。

企業オフィスや幼稚園、大学などとして活用されているパビリオンもあったほか、オランダパビリオンは学生寮やオフィスとして再利用が決まり、改築工事の真っ最中でした。
学生寮やオフィスとして再利用されるオランダパビリオン
しかし、フェンスで囲まれ草に覆われた空き地も目立ちました。

土地の売却先は決まったものの、具体的な再利用の計画は進んでいないといいます。

売却手続きが複雑で時間がかかったり、パビリオンに企業が事務所を構えたものの数年で撤退したりするなど、さまざまな要因から再利用が当初想定のようには進んでいないといいます。

再利用の遅れは万博後の大きな課題の1つだといいます。

どんな万博だった?

ハノーバー万博は2000年、東西ドイツ統一10周年を記念して開催されました。

「人間-自然-技術」をテーマに掲げて、各パビリオンでは地球温暖化や環境問題を前面に打ち出した展示が行われました。
テーマ性が強かった分、一部では「エンターテイメント性に欠ける」「お金を払って勉強に来ているようだ」との声もあったといいます。

チケットの値段が高めだったことや、事前のPR不足などが原因で、開幕後の1、2か月は来場者が少なかったといいます。

その様子を実際に目にした人がいます。

当時、会場でガイドとして働いていたペーター・シュトルックさん。
ペーター・シュトルックさん
「世界がハノーバーに集まる場に立ち会いたい」と万博会場で働くことにしましたが、「最初の2か月間はほとんど何も仕事がなかった」と振り返ります。

ガイドをするにも来場者が少なく、同僚たちと会場内で待機する日が続きました。

土産物店でもスタッフが余り気味。

シュトルックさんの同僚の中には、7月に入って解雇された人もいたといいます。

「最初は来場者が少なくて、明らかにスタッフの数が多すぎでした。予想された来場者と実際の人員配置のバランスが取れていませんでした」と説明します。

ただ、博覧会公社がテレビCMを増やしたり、チケットを値下げしたりした頃からは来場者が増え始めたといいます。
ドイツパビリオンには数時間待ちの行列もでましたが、開幕直後のスタートダッシュの遅れが響き、最終的な来場者は1810万人。

当初目標の4000万人にははるかに及ばず、結果として赤字を生みました。

要因についてシュトルックさんはこう指摘します。
当時ガイドとして働いていたペーター・シュトルックさん
「そもそも万博とは何なのかを最初から人々に十分に説明するべきだった。ドイツ人には初めての万博で、来場者も『これは一体何なのか?テーマパークなの?』と戸惑いながら来ていた」

ハノーバーからの教訓

なぜ開幕直後の来場者が伸び悩み、大きな赤字を出したのでしょうか。

その事情を知る人がいます。

博覧会公社元経営委員のラインハルト・フォルクさん。
ラインハルト・フォルクさん
民間会社の経営部門を渡り歩き、万博には開幕前から携わってきました。

会期中は会場内の事務所で日々の運営の指揮を執っていたといいます。

来場者の伸び悩みと莫大な赤字が生じたことについて、その理由を尋ねてみました。

フォルクさんが挙げたのは主に4点です。
▽事前PRの不足

▽万博のテーマが伝わりにくかったこと

▽チケット価格が高すぎたこと

▽過大な想定来場者を元に収支計画を立てたこと

事前PRの不足

まず、事前のPR不足について。

フォルクさんによると、博覧会公社の中では開幕前、「見本市会場はもともと知られた場所だし、万博のPRをしなくても人は来るだろう」といった雰囲気があったといいます。

加えて、各パビリオンの完成が開幕直前になったため、事前にPRしたくても発信できる中身がなかったそうです。

「すべてのパビリオンが完成したのは開幕の数日前で、万博で何が見られるのか、事前に示すのがとても難しかった。そのことを甘く見ていました」と振り返ります。

万博のテーマ「人間ー自然ー技術」も一般への浸透が進まず、「万博とは何なのか」一般に理解してもらうのに時間がかかったと言います。

また、チケット価格は開幕時、1日券は約4100円で、当時のドイツの経済状況から考えると、やや高額だったといいます。
来場者が伸びなかったため、利益率が下がることを覚悟の上で、開幕わずか1か月で500円値下げ。

その後、お得な夜間チケットを導入したり、電車代込みのチケットを販売したり、あの手この手で来場者獲得に奔走しました。
さらに、過大な想定来場者を元に収支計画を立てたことも、赤字が生まれた大きな要因の1つといいます。

万博は東西ドイツ統一10周年を記念して行われましたが、当時の経済状況は低迷していて、万博開催には世論が賛成と反対でほぼ拮抗していました。

そんな中、東西統一を世界に印象づけたい連邦政府は、「税金を使わない」という条件の下、万博開催を決定。

民間のコンサルティング会社が試算した「想定来場者4000万人」を元に、収支計画が組まれたといいます。

1200億円という巨額の赤字となったことについてフォルクさんはいま、こう振り返ります。
博覧会公社 元経営委員 ラインハルト・フォルクさん
「万博は利益を上げるために行うべきではありませんが、納税者に痛みを強いてまで行うべきものではありません。理想としては均衡が取れること、バランスが取れることなんです」

万博がもたらしたもの

赤字となった万博ですが、ハノーバー市にもたらしたものもありました。

誘致段階から万博に関わったヘルベルト・シュマルシュティーク元市長は、27歳で市長になり、その後34年にわたって市政運営を率いてきました。
ヘルベルト・シュマルシュティーク元市長
万博を「天からの贈り物」と振り返ります。

シュマルシュティーク元市長が強調したのは、「万博による市の発展」です。

万博開催に合わせて、道路や鉄道、トラムなど路上電車の整備が進んだといいます。

市の呼び物である見本市を万博会場に使ったことで、見本市の中のインフラも強化されました。
ヘルベルト・シュマルシュティーク元市長
「これらの投資は万博がなかったならば決して得られなかったでしょう。ハノーバーの開発は万博開催という運に恵まれました。さらに、万博はハノーバーの国際的知名度も上げてくれました」
シュマルシュティーク元市長は会期中、毎日日記を付けていました。

ノートは3冊にのぼり、最終日の10月31日にはこう記されていました。
「万博は成功だった」と書かれた日記
「Expo2000(万博)は街として成功した。私にとっても、だ。(事前PRの強化など)もっと何かできることがあったとも考える」
そして、万博に合わせて会場近くに整備された住宅地「クロンスベルグ」周辺は、今も新たなアパートが建てられ、拡大を続けています。

レンガ造りのアパートは特に若い世代に人気といいます。
当時はアパート3000戸と新駅が整備され、万博会場で働く人たちが住んでいました。

閉幕後は若者や家族連れが移り住み、学校や幼稚園、銀行やクリニックなども整備されました。

ハノーバー市内や周辺市へのアクセスもよく、新たな「街」が誕生したといいます。

クロンスベルグを取材で訪れたのは、日曜日の朝。

近所の教会から鐘の音が響く中、広々とした公園の遊具では親子連れが遊んでいました。

博覧会公社の元職員でマーケティングも担当していたトーマス・ボルホルテさんは、この地域の住民の1人です。
トーマス・ボルホルテさん
万博跡地の再利用などに携わる トーマス・ボルホルテさん
「このエリアの開発のきっかけは万博でした。必要なものは全てここあり、全部用が済みます」

次世代へ「レガシー」

ハノーバーで万博を開催したことの意義など、形のない「レガシー」(遺産)を受け継ぐ若い世代もいます。

マウリス・ゼメラさんです。

万博に出展された品々の収集や展示などを行っているボランティア団体「Exposeeum(エクスポゼウム)」のメンバーです。
マウリス・ゼメラさん
インタビューを申し込むと、「Hannover 2000」という万博トレーナーを着て、エクスポゼウムの倉庫の前で出迎えてくれました。

万博当時、ゼメラさんは3歳。

万博の記憶はありませんでしたが、大学生時代にハノーバー万博の展示品を見て、「万博は『生きた歴史』だ」と感じたといいます。

万博閉幕後の2001年、万博に感動した市民約400人が「ハノーバーで開かれた万博の意義を残していこう」と結成したのがエクスポゼウムです。

これまでに集めた収蔵品は2000点以上。

各国から寄贈された展示品やパンフレット、写真やビデオなど多岐にわたります。
収蔵品の棚
ゼメラさんは若い世代向けにビデオテープなどをデジタル化して、SNSなどで発信しています。

今年は万博から25周年。

博物館として収蔵品を展示していくことを目指し、現在は展示スペースを探しているといいます。

ゼメラさんにとって、万博とは何なのでしょうか。
Exposeeumの収集品を管理 マウリス・ゼメラさん
「これは歴史の一部です。展示品を残して、一般に広く万博の考えやアイデアを伝えていきます。例えば持続可能性の話などですね。現代社会で問題になっていることの答えが、ハノーバー万博で示されているなどするからです」

教訓を糧に

現在、ドイツでは、次の次の万博として、2035年のベルリン万博の誘致を目指す動きがあります。
ハノーバー万博は巨額の赤字を出した一方で、市民にレガシーも残し、それは次世代へと受け継がれています。

当時の博覧会公社元幹部のフォルクさんは、大阪・関西万博がハノーバーのさまざまな教訓も参考にして、成功することを願っていました。
博覧会公社 元経営委員 ラインハルト・フォルクさん
「大阪・関西万博を開催することを、心から誇りに思うことが非常に大事です。来場者が家に帰り、『これは忘れられない思い出になった!一生忘れない!』と言ってくれたら、それはまさに成功といえるでしょう。大阪・関西万博の成功を祈ります」
ハノーバー万博の教訓を生かし、うまく来場者を呼び込み、訪れた人の心にレガシーを残すことができるか。

大阪・関西万博の開幕まで残された時間は1か月です。

(3月7日 ほっと関西で放送)
大阪放送局 記者
蜘手美鶴
新聞社を経て2024年入局
国際関係や多文化共生などについて取材

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