「死んだんだよ!」慟哭が今も耳に…事件に直面した地下鉄職員が後世に語り継ぐあの日の混乱と決断【地下鉄サリン事件30年】
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通勤ラッシュの時間帯の朝8時ごろ。そのフロアは活気に溢れていた。 帝都高速度交通営団(営団地下鉄、現東京メトロ)の運行を管理する「運輸指令所」。 壁面に幅約5メートルの大型モニターが横一列にずらりと並び、それぞれ全6路線の地下鉄の運行状況が路線図に映し出されている。その画面を路線ごとに2人一組になった指令員が見つめている。 【画像】サリン事件直後の地下鉄駅構内の様子…倒れた乗客を介抱する営団地下鉄職員の姿も 1995年3月20日の朝、東京の地下鉄日比谷線、丸ノ内線、千代田線の計5車両で「オウム真理教」の信者らが猛毒の神経ガス「サリン」を散布した。乗客や駅員ら14人が死亡し、約6300人が負傷した。
指令室に響いた「爆発!?」
指令員の小田猛(当時31・仮名)は点呼を終えると、その日ペアを組む50代の先輩と一緒に、千代田線の指令席へと向かった。前日から当直に就いていた同僚と交代し、席に腰掛けた。 モニターには、千代田線がおおむね順調に運行していることが映し出されていた。 指令員の勤務は、仮眠をはさんで翌朝8時までの長丁場だ。「よし」と小さくつぶやいた時、指令所に大きな声が響いた。 「え、何?爆発?!」 声の主は、二つ隣のブースに座る日比谷線の指令員だった。電話の受話器のような無線機を耳に押し当て、立ち上がり、モニターを凝視している。 「何か起きたんですかね?」 先輩と話していると、目の前の無線機が鳴った。手に取り、耳に当てた。 「はい、指令所小田です」。 無線は、千代田線霞ケ関駅にいる車両番号「25K」の電車の運転士からだった。 「車内で何かこぼれているみたいなんですよ」 いつも通りのよくある報告だ…そのときはまだ、そう思っていた。
若手司令員が遭遇した「あの日」
幼い頃から鉄道が好きで、将来の夢はもちろん、電車の運転士だった。 その夢を高校卒業後まもなく、営団地下鉄で叶えた。担当は東西線。千葉県出身として、なじみが深い路線だった。かつて乗客として乗っていた電車を、自ら運転するのは誇らしかった。 約7年間、運転士を務めたのち、しばらくして最年少の30歳で指令所の指令員に抜擢された。自分の判断ひとつで運行が滞る可能性がある。強い責任感が必要な仕事だった。 そんな中で1995年3月20日を迎えた。当時、まだ指令員2年目の若手だった。
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