――風が変わった。
長い旅路の果て、目の前にそびえ立つ城壁。
その向こうにあるのは、世界の中心と呼ばれる迷宮都市オラリオ。
背中を押すように吹いた潮風は、すぐに土と鉄と、獣の匂いへと変わっていく。
わたしはマントのフードを深くかぶり直した。
港町で手に入れた、薄汚れた安物。
だが、十分だった。
あの国を出た日から、ずっとまとっていたその布地は、あの海を閉ざす壁でもあったから。
所持しているのは、わずかな路銀と、小さな革袋に入れた乾いたパンだけ。
それでも、イニスの足取りは迷いがない。
――ここでなら、力を得られる。
誰もが力を求め、戦い、死に、そして英雄となる街。
オラリオ。
その名が、どれほど遠くにあっても、イニスの心を燃やし続けてきた。
(必ず、力を手に入れる。あの神を殺すために)
口に出さずとも、その誓いは胸の奥で燃え続ける。
イニスは門をくぐる。
オラリオの巨大な門をくぐり抜けた瞬間、世界が変わった。
耳に飛び込んできたのは、喧騒。
それは、これまで耳を澄ませなければ聞こえなかったような静かな水音とは、まるで違う。
荒々しく、濁流のように押し寄せてくる。
わたしは思わず立ち止まり、フードの奥でそっと目を閉じた。
今までの稽古で鍛えられた耳が、勝手にそのざわめきを拾い上げる。
聞きたくなくても、聞こえてくる。
「いらっしゃい!今日は魚が安いよー!」
「おい、またあの坊主がゼウス・ファミリアに挑みに行ったみてぇだぞ」
「はやく見に行こうぜ!」
「ほらほら、散った散った!お前らにはこの武器は高すぎて買えねぇよ!」
「あのマントを被ってるロリちゃん、可愛いな……」
「ちょ、ここで戦いを始めないでください!」
「今日もダンジョンに行ってお金を稼ぐぞ!」
「あの勢いに乗っている3人組、またダンジョンで喧嘩してたらしいぞ」
「薬草の値段、上がったってマジかよ!」
「最近じゃヘラ様の眷属がまたレベルアップしたらしいぜ……」
「なぁ、酒場に寄ってかねぇか?」
「俺はガネーシャだ!!!!」
「どんなに難しい依頼でも、ギルドのかわい子ちゃんからならいつでも受け付けるぜっ……!」
言葉が波のように、怒涛の勢いで耳を打つ。
わたしは、そっと眉をひそめた。
あまりの情報量に、少し目が回る。
若干後悔した。
ところどころ可笑しいのが混ざっていないか?
けれども、確かに自分の胸は小さく震えた。
ここまで来て引き返す選択肢は、最初からない。
わたしは深く息を吸った。
鼻腔をくすぐるのは、潮の香りではなく、汗と血と鉄のにおい。
それでも、この場所でしか手に入らないものがある。
(わたしは、あの神を殺すために来たんだ)
その思いだけが、彼女を支えていた。
人の波を抜けると、視界が開けた。
どこまでも続く石畳の道と、その先にそびえ立つ巨大な白い塔。
イニスはそれを見上げる。
(……あれが、バベル)
師匠が昔話してくれた名前だ。
その地下に、果てのないお宝と冒険が眠る――
「あそこに行けば、力が手に入る」
その言葉を信じて、わたしは走り出した。
すべてを奪ったあの神を倒すために、強さが必要だった。
それだけはわかっている。
だけど、どうすればその力が手に入るのかは……知らなかった。
オラリオに来るのを決めたのは、あの夜。
港の商人に紛れてこの街に着いたときから、何も考える余裕はなかった。
装備もない。
武器もない。
それがどれだけ危険なことなのかさえ、イニスはよくわかっていなかった。
(きっと、ダンジョンに潜れば強くなれる)
誰に教わったわけでもない。
ただ、そう思い込んでいるだけだった。
バベルの根元にある、黒い口。
そこから、人が次々と吸い込まれていく。
身体に鎧を着け、鋼のような武器を携えた冒険者たち。
彼らは整然と、時に冗談を交わしながら、中へと消えていく。
誰もイニスに声をかける者はいなかった。
それを幸いと、彼女はその流れに紛れ、地下へと足を踏み入れた。
ひんやりとした空気。
石造りの通路。
湿った匂いと、時折どこからか聞こえる、何かが這いずるような音。
(これが……ダンジョン)
わたしは静かに呼吸を整えた。
だけど、手には何も持っていない。
薙刀はない。
武器はおろか、防具すらない。
そして、何より彼女は知らなかった――
「ファミリアに入って、神の恩恵(ファルナ)を得なければダンジョンでは戦えない」ということを。
「ギルドに登録していなければ、冒険者としての権利も義務も持たない」ということを。
それでも、イニスは歩き出す。
その先に、手に入れるべき「力」があると信じて。
――それが、彼女にとっての始まりだった。
と、格好つけたが、普通にモンスターは倒せなかった。
地上の光が見えた瞬間、わたしは全力で駆け上がった。
薄汚れたマントの裾が跳ね上がり、足はもつれ、膝が震える。
それでも、必死だった。
ようやくダンジョンの入口を飛び出した時には、呼吸はもう荒れ果てていて、肺が悲鳴を上げていた。
「っは、っ……ぁ、く……」
膝をついた瞬間、額から汗と血が垂れた。
肩を押さえた手は、温かく湿っている。
痛い。
でも、それより何より……
心が痛かった。
(なんで……こんな、はずじゃ……)
目の奥に焼きついている。
あの瞬間を。
―――
階段を降りた先、薄暗い通路の向こう。
すっと、あれは現れた。
ちんまりとした影、鈍い黄色の双眸。
ゴブリン。
迷宮に巣食う最弱の魔物。
誰でも倒せる。そう聞いていた。
(これなら……私にも、できる……)
そう思った。
けれど―――
「くっ!」
飛び込んでくる獣じみたスピードに、体がすくんだ。
いつもの稽古で覚えた型をなぞろうとするが、手には何もない。
そうだ。私は丸腰だった。
薙刀の柄が、そこには無かった。
脇をかすめた短剣の切っ先が、肩に浅く食い込む。
鋭い痛みと共に、世界が真っ白になった。
――怖い。
痛い。
何これ、全然、勝てない。
次の瞬間には背を向け、全力で走っていた。
息が苦しい。
足がもつれそうになる。
でも、止まったら死ぬと思った。
それだけが、頭にあった。
―――
「はぁ、は……ぁ……」
やっと、逃げ帰ってきたのだ。
この街のどこかで見た、勇ましい冒険者たちのように格好よく、華麗に、なんて思っていたのに。
全然、無理だった。
肩にじわじわと熱い痛みが広がる。
マントをずらし、裂けた袖の奥を見る。
血が滲んでいる。
でも、かすり傷だ。
それでも、生きた心地がしなかった。
このままだと、いずれもっと深く斬られて、動けなくなるだろう。
「……はは」
乾いた笑いが漏れた。
現実は、残酷だった。
(まず、武器だ)
素手では、どうにもならない。
あのゴブリンでさえ、倒せなかった。
本来、初心者冒険者が最初に倒すモンスターだと言われているのに。
わたしには無理だった。
「武器……それを手に入れるには……」
小さく呟いた。
――お金が必要だ。
そう、何かを得るには、まず金だ。
この街では、それが絶対。
「……稼がなきゃ」
イニスはゆっくりと立ち上がった。
よろめく膝を押さえつけて、呼吸を整える。
血を拭って、マントのフードを深くかぶる。
傷は浅い。
まだ動ける。
そう言い聞かせ、街の喧騒の中へと歩き出した。
⸻
ダンジョンでの失敗から数日。
わたしは、ある居酒屋の前で座っていた。
「お嬢ちゃん、まさかホントにやるとはねぇ」
女将が苦笑いを浮かべながら、彼女の前に置いたのは、使い古された木桶と、亀裂の入った洗濯棒だった。
「いいんです。やります」
イニスは真剣な目で女将を見上げると、マントの袖をまくり、裸足になった。
足を入れた桶は乾いている。
けれど、もう怖くはなかった。
これが生きるための戦いなら、舞台はどこでもいい。
イニスはゆっくりと立ち上がる。
桶の中に沈められた、男たちの汚れたシャツ、血の染みついた冒険者のマント、女将が溜めておいたテーブルクロス……。
すべてを重ね、両手で押さえ、そして一歩踏み出す。
とたんに、木桶の中の衣類が濡れ始める。
桶の中で擬似的な水を作り出したのだ。
舞のステップを踏むたび、水が波紋を広げていく。
(あの時と、同じ……)
心の中で唱える唄が自然に口をついて出る。
「――海の乙女よ、我らの狩場に舞い降りし……」
彼女の小さな足が布地を踏みしめると、水が澄んでいく。
汚れが浮かび上がり、渦となって流れていく。
舞台は、ただの木桶と石畳なのに、その光景はまるで海の祭壇のようだった。
「すごいねぇ……こりゃ、客も集まるわけだわ」
気がつけば、女将だけでなく、隣の屋台の主人や、道行く子供たちが立ち止まっていた。
子供のフリをした水妖精だとか、特殊な吟遊詩人だとか、
そんな噂話が広がり始めたのは、その日からだった。
⸻
イニスは、毎朝この石畳の上で舞を踏む。
大きな桶は女将がいらなくなった漬物樽をくれたもの。
服を入れ、音楽のように軽やかに踊るたび、洗われた布は新品のように蘇る。
「お嬢ちゃん、これも頼むよ」
「へいへい、今日も頼むぜ。今夜の宴会に使うやつだ」
最初は哀れに思った者たちが、次第に「効率が良い」「綺麗になる」「見ていて癒される」と評判になり、洗濯代行の仕事は忙しくなっていった。
とくに、妙に目の肥えた神様たちの間で話題になったのが、
「あの美幼女が足で洗う」という行為だった。
「普段はマントで隠れている顔が、舞っている時にチラりと見えるのが良い!!」だの「これは仕事に対する給金だからお布施にはならない」だの、もっともらしい理由を並べながら、彼らは汚れた衣を持って列を作った。
イニスはそれを知ってか知らずか、ただ黙々と舞を踏む。
⸻
洗濯代行の稼ぎは、決して大金ではなかった。
それでも、今日の分を合わせれば、やっと武器が買える。
石畳の上で最後の一枚を洗い終えたとき、イニスは静かに息を吐いた。
「……よし」
日が落ちかけている。
急がないと、店が閉まってしまうかもしれない。
イニスはマントのフードを深くかぶり、集めたコインを小さな布袋に詰めると、街を駆け出した。
⸻
目指したのは、昼間お客たちが話していた鍛冶屋だ。
ちょっとひ弱そうな冒険者が、「あそこは信用できる」と噂する店だった。
頑丈で、初心者にも扱いやすく、なにより“安い”。
イニスの手持ちで買える唯一の選択肢。
木造の看板に大きく掘られた「鍛冶屋」の文字。
鍛冶の音が、扉越しにも響いてくる。
イニスは、ぎゅっと布袋を握りしめた。
「……大丈夫、きっと大丈夫」
扉を開けると、焼けた鉄と油の匂いが一気に押し寄せた。
奥で金槌を振るう男がこちらに気づき、手を止める。
「おー、いらっしゃ……」
その目が、イニスの姿を捉えた瞬間、微妙な空気になる。
「……嬢ちゃん、ここは遊び場じゃないぞ」
イニスは、静かにフードを外した。
金のように輝く瞳が、真っすぐ鍛冶師を見返す。
「武器を買いに来ました」
鍛冶師は眉をひそめる。
小柄な身体、幼い顔立ち。
どう見ても「子供」だった。
「そりゃ、無理だ。ウチはオモチャは置いてない」
「……わたしは、
その言葉を口にした瞬間、喉の奥がきゅっと締まる。
嘘だ、と分かっている。
本当は、違う。
自分は
ただの――ただの嘘つきな
(でも……)
武器がなければ、戦えない。
戦えなければ、力を得られない。
力がなければ、守れない。
あの時の誓い――「もう二度と、何も奪わせない」というあの誓いが、ただの夢で終わってしまう。
(……ここで、立ち止まっている暇はない)
イニスはゆっくりと目を上げた。
目の前の鍛冶師の視線は鋭い。
彼の目は、イニスの小さな身体も、幼い顔も、一瞬で見透かそうとしている。
それでも――彼女はその目を正面から受け止めた。
「わたしは、
二度目の言葉は、さっきよりも少しだけ強くなった。
自分の心に言い聞かせるように。
嘘であっても、後ろめたくても、今はそれでいい。
今はまだ、武器を手に入れていない。
力を得るために――嘘も、飲み込んでやる。
胸の奥が、熱くなる。
それは恥の熱なのか、恐れの熱なのか。
いや、それ以上に。
これを乗り越えた先にある「力」を思えば、わずかに、震えるほどの高揚が込み上げてくる。
鍛冶師は黙った。
鋭い目でイニスを見つめる時間が、やけに長く感じられた。
「……そうか」
やがて、鍛冶師は棚の奥から一本の剣を取り出した。
それは、短く細身で、明らかに
「初心者用だ。刃は甘いが、軽くて頑丈だ。……お前さんの腕なら、振れるだろう」
「……ありがとう、ございます」
わたしは深く頭を下げた。
次に渡されたのは、ライトアーマーだった。
革と金属が組み合わさったそれは、動きやすく、最低限の防御は期待できる代物だ。
「武器だけじゃなくこれも必要だろう。安くしといてやる。」
「……」
イニスはしばし、その言葉の意味を考えた。
けれど何も言わずに、また頭を下げる。
代金を支払うと、鍛冶師は無骨な声で最後に言った。
「……お前さんの事情は聞かねぇ。だが、無茶はするな。死ぬなよ」
「……はい」
イニスは剣と防具を受け取ると、再びフードを深くかぶり、鍛冶屋を後にした。
街の喧騒の中、武器と防具の重さが、これほど心強く感じられたのは初めてだった。
(これで……また、ダンジョンに行ける)
手に入れた剣が、イニスの小さな手の中で微かに震えた。
それは、恐れか、期待か――まだ、誰にもわからなかった。