潮風に乗って、かすかな塩の匂いが漂う朝だった。
日差しは柔らかく、波打つ水面を照らし、穏やかな光の粒が石畳の上で踊っている。
こんなにも平和な朝だというのに、私の足取りは重かった。
神殿の裏手、誰も近寄らない静かな入り江。
そこに奴は、悠然と腰を下ろしていた。
海原のような髪は濡れたように艶やかで、肩越しに振り返るその瞳は、あくまで呑気だ。
「ポセイドン様――」
名を呼ぶと同時に、私は大股で距離を詰めた。
そしてそのまま、力いっぱい砂利の上に膝を突き、頭を垂れる――わけがない。
「昨日のこと、説明してもらいます」
睨みつける私に、海神は唇の端を上げた。
まるで子どもが悪戯を見つかった時のように、気まずさのかけらもない顔だ。
「はいはい、ごめんって。……でもあの子、才能あるよ。このままこの国で祈ってるだけじゃ、もったいないだろ?」
謝りながら舌を出し、額に手を添えてみせる。
その動作は、限りなく不真面目だ。
私は思わず奥歯を噛んだ。
本気でふざけているのか、それともこれが本性なのか。
昔から、彼はこの調子だ。
その軽さに、心の奥が冷たくなる。
かつて、自分も同じように言われた。
気づいた時には、女だったはずの体は、
刃を振るうための筋肉と力を持つ男になっていた。
「――だからって、あの子に同じ道を歩ませるつもりですか」
「違うさ」
彼は肩をすくめる。
「お前は“力を望んだ”。だから俺は与えた。
あの子も“力を欲しがった”。それなら、俺は与えるだけだ」
「その“望み”を引き出したのは、誰ですか」
思わず、噛みつくように言葉が出た。
けれど、彼はそれすら楽しむように笑ってみせる。
「……まぁ、俺が誘導したって言えば、そうなるのかもね」
あの日、あの時、自分も“そう”だった。
力が欲しかった。
守りたかった。
誰にも奪わせないために。
だが、その代償はあまりに大きかった。
ケイナは、女としての自分を失った。
もはや、誰かに愛されることは望まない。
戦う者であり、守る者であり続けるだけ。
「――いまみたいな軽薄な顔をしていれば、貴方は初対面の人にも恐れられることはないのに」
私は溜息をつき、ポセイドン様に向き直る。
「貴方は、背後から刺されても知りませんよ。」
その言葉に、ポセイドン様は肩をすくめた。
その横顔は無邪気で、どこか少年のようだ。
それが、なおさら腹立たしい。
「……それに、これからの時代はより過酷になる」
そう呟くと、海神はようやく目を細めた。
海を睨むように、まるでその奥に眠る“何か”を見つめるように。
「そうだね。お前たちの時代は、まだ“嵐の前”だったから」
「三大冒険者依頼のひとつ――“
「うん。あれは、そろそろ誰かが討伐しないといけない頃だ」
ポセイドンの声には、珍しく張り詰めた色があった。
あの
「イニスたちの世代でその依頼は動き出す。
あの子たちは、必ずその運命に巻き込まれる」
「……
「うーん、無理無理。
あいつは“俺の寵魚”だったけど、もう俺の声じゃ届かない。人の時代には、人の手で倒さなきゃならないんだよ」
そう言って、彼は肩をすくめる。
その仕草は軽いが、言葉は重かった。
「……それでも、私達ポセイドン・ファミリアは力を貸す。海神がそう言うなら」
「うん。彼女たちが本気で“倒す”気なら、俺たちも出すよ。俺の眷属たちは、特にアイツからの被害が大きい」
ふと、彼が振り返る。
その瞳には、ほんの少しだけ悲しみが宿っているように見えた。
「なぁケイナ。イニスはその火を燃やしてくれるだろうさ。だから、俺は手を出したんだ。……悪いとは思ってるよ」
「――今さら、謝られても遅いですよ」
私は冷たく言い放ち、そして立ち上がった。
この海は美しく、でも時に残酷だ。
それでも私は、この海で生きる。
「いつか、
……貴方には“責任”を、取ってもらいます」
彼は静かに頷いた。
その仕草は、いつもの飄々としたものとは違い、どこか神々しかった。
「もちろんだよ。俺も、俺の子たちも――その時は、戦う」
潮の匂いが濃くなる。
波間に潜む“覇王”の気配が、遠くから微かに聞こえた気がした。