the pillowsとフリクリが見せた夢、米津玄師とガンダムの今
※米津玄師 2025 TOUR/JUNKの若干のネタバレがあります
ガンダムにほぼ触れていない私としても先日鑑賞した『機動戦士Gundam GQuuuuuuX -Beginning-』は高揚した。色々と興奮した箇所はあったが、やはり"発進"に際したアニメーションの躍動感、それを強調する米津玄師「Plasma」の威力は特筆したい。やはり何かが動き出す瞬間にアッパーな楽曲は欠かせない。特に、飛びあがる瞬間は絶対に流れなきゃいけない。
こんな風に思うのは『フリクリ』の記憶があるからだろう。ジークアクスの監督である鶴巻和哉が2000年に発表したアニメ作品であり、the pillowsが全編に渡って挿入歌として起用された作品だ。ここぞ!のシーンでピロウズの楽曲が流れ、シーンを更に躍動させる。「Sleepy Head」のインストver、「LITTLE BUSTERS」の丸使い。ガンダムの米津はそれらを思い出すのだ。
そんなことを考えていた年明け、2/1に前日でthe pillowsが解散していたという驚愕の報が届いた。結成から35年。バンドを末期と自嘲しつつ、新曲リリースはここ数年ほぼ無いながらも、過去作の再現ツアーでバンドを現役として維持し続ける。そんなことを信じ切っていた。もしや今回のガンダムを機に、再びフリクリとピロウズにも注目が集まるのでは?と思っていた折だった。
受け入れられない状況の中、2/8に米津玄師のライブをみずほPayPayドーム福岡で観た。絶対に居続けるだろうと信じられるロックバンドがこの世界から去った日々の先で観るにはあまりにも頼もしく眩しい2時間だった。寂しさを抱えながら、しかし真正面から堪能しながら、様々な想いが去来してきた。この記事には、胸に芽生えたあれこれを丸ごと書きつけておこうと思う。
欲望と弱さのバンド・ピロウズ
「フリクリ」はガイナックスが手がけた「新世紀エヴァンゲリオン」に続く原作なしのオリジナルアニメ作品である。監督の鶴巻に加え、脚本の榎戸洋司、キャラクターデザインの貞本義行などエヴァとスタッフも共通している。物語は主人公ナンバダ・ナオ太が謎の宇宙捜査官ハルハラ・ハル子にある日突然、ベースギターで頭部を殴打されたことで特殊能力を発現。これを機に壮大な物語に巻き込まれていく、というもの。筋書からも分かる通り突飛でシュールな展開が持ち味でもある。
ナオ太は頭部が隆起することで能力に気づくという点からも性欲の発露と闘争の始まりが重ねられているだろうし、母のいないナオ太が父親とハル子を取り合うイメージなど精神分析的にはエディプス・コンプレックスや大人になっていくイニシエーションを描いた作品であろうと理屈を連ねて解釈することも可能だが、本作で最も重要に思えるのは“出会ったことの衝撃”である。劇中、物理的な殴打で表現されるその衝撃は不可逆で運命的な何かとの出会いからの逃れ難さの象徴である。
そんな「フリクリ」の駆動力となっていたのがthe pillowsの楽曲たちだ。ピロウズの姿勢そのものに迸っている、ロックと出会ったことの衝撃と表現への欲望。そのインパクトとリビドーはまさに本作のエネルギーに変換され得るものだ。またピロウズは言葉遊びやユーモラスな語彙を歌詞に織り込み、楽曲のハチャメチャな高揚感を体現する作風が特徴的だ。この持ち味を全開で活用したのが「フリクリ」で劇中に歌入りの挿入歌が流れるアニメ作品のフォーマットの源流と言えるだろう。
またピロウズのもう1つの大きな特徴として、弱さとの対峙がある。今でこそ強固な立ち位置でシーンで支持されるバンドであるが、デビューの近いミスチル、スピッツらと比較すればその芽はなかなか開花しなかった。その鬱屈感と折れそうな心は90年代後半〜ゼロ年代の初頭の作品群を聴けば明白である。弱さを包み隠すことなく、むしろ繊細かつ脆いままでアウトサイダーとしての存在証明を叫ぶ。この表現形は日本のロックバンドの1つの流れに脈々と受け継がれるものとなった。
2000年代半ばから「フリクリ」の海外人気に伴うアメリカツアー、トリビュートアルバムで顕在化した支持、また潜在的にあったポップセンスの炸裂などが結びつき、正当に評価されるようになったピロウズ。自分を曲げることなく、周囲の側を一変させてしまう驚異的な存在だった。普段は歌詞に勇気づけられることの少ない私も、傍若無人なはみだし者が高らかに生きることを歌う言葉にはいつも昂っていた。大学受験の面接で「New Animal」の歌詞について語ろうとしたりした。
時は流れ、ガイナックスがなくなり「フリクリ」の権利が他社に譲渡されて作られた2018年の映画版はいまいちだった。その後アメリカでCGによる新作も作られたが日本に渡ってくる気配はない。どんどん変わっていくフリクリだが変わらないのがピロウズによる劇中歌の存在だった。強く結びつき、意地でも曲げない美学を貫いた夢のような相互作用。その夢はピロウズが去った今、一つの偉大な過去として収められることになった。しかし、夢の輝きは今もまだ継承されている。
夢を継ぐ米津玄師
『機動戦士Gundam GQuuuuuuX』はガイナックスの流れを汲んだ株式会社カラーによる制作である、代表取締役であり創始者である庵野秀明が脚本協力に名を連ねており、物語上の大きな展開を着想している。”動く人型の巨大機械と少年“という物語枠組の大きな系譜の代表格であるガンダムとエヴァの創造性が交わるという大きな文脈の合流もある一方、ジークアクスのスタッフは監督の鶴巻やはじめ「フリクリ」と共通点も多い。
ジークアクスにおいて主題歌(兼挿入歌)となり、物語のエネルギーを担う中心的存在は米津玄師だ。米津とピロウズの間に一見すると文脈は見出しづらいが、ここに米津が最も影響を受けたというBUMP OF CHICKENを挟むと一気に解像度があがる。先述のピロウズトリビュートにも参加しているBUMPは、エヴァンゲリオンの綾波レイをモチーフにした「アルエ」という楽曲を制作するなどこの周辺との親和性は深い。ピロウズ→BUMP→米津という系譜がここには息づいているのだ。
「Plazma」は大部分が電子音で構成されたダンサブルなアッパーチューンで、ピロウズの質感とは大きく異なるが、この曲で歌われるのはまさに“出会ったことの衝撃”である。主人公マチュが不可逆な運命に導かれてガンダムと邂逅したその瞬間。そしてガンダムの中で感じた眩い“キラキラ”。瑞々しくも野性的な言語可困難な高揚感、出撃を煽る爆発的なエネルギーはまさに「フリクリ」とピロウズの継承である。あの夢の続きがガンダムと米津玄師という今へと接続されたのだ。
私が行った米津玄師の「2025 TOUR/JUNK」の福岡公演初日は米津にとって初めてのドームでのライブだった。クールで引き締まった映像と舞台の演出が印象的な中、タイアップ先のアニメ映像をそのまま用いた演出が本編中に組み込まれていたのは特に新鮮だった。音楽とアニメが交差することの高揚感をリアルタイムで感じてきた世代ゆえ、こうした演出もある種のアイデンティティとしての違和感なく取り入れることを選べるのだろう。米津だからこそ出来るアプローチである。
ライブでの「Plazma」はこうした映像演出は控えめだったが、ジークアクスを観た身としては自ずとあの高揚を想起せざるを得ない。アニメと一体化した昂りが現場でも浮かび上がってくるのだ。米津はインタビューでフリクリの”ケレン味“に影響を受け、ハル子のキャラクター像はボカロ曲を作る上での1つの土台/人格形成の大きな礎の1つだと語る。こうしたイメージを引き継ぎながら、現代に響く音楽として練り上げた「Plazma」にフリクリの存在感は色濃く継承されている。
ジークアクスはあり得たかもしれない未来を描くことで語り直されていく物語だ。しかし本作においては正史が語られることは(少なくとも劇場版においては)なかった。作中に映し出される世界こそが唯一の現実なのだ。我々が生きる宇宙にも同じようにどこかにはピロウズが解散しなかった世界線もあるかもしれないが今ここにあるのは、ピロウズが解散し、米津がガンダムを鳴らす世界だ。そこには当然寂しさや悲しみがある。しかし同時にここでしか継承されなかった想いもある。ならばここにある今に目を向け、新たな夢を見始めよう。ありがとうピロウズ、これからを頼むぞ米津玄師。そんな風にして、飛び立っていこう。



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