さようなら、山田花子(漫画家)
漫画家の山田花子にハマるのって、サブカルの世界では、一種の通過儀礼みたいなもんだった。特に、90年代に思春期を過ごしたサブカル人間なら、あの毒気と狂気に惹かれないほうがおかしい。彼女の作品は、一部の人にとっては神のように崇められ、一方で、直視するのが辛い呪詛の塊でもあった。
しかし、彼女の享年を超え、社会に順応するほど、「キレイは汚い、汚いはキレイ」という発想が、10代特有の陳腐な思考に思えてくる。現実はそんなに単純ではないし、善悪がひっくり返ることで真理が見えるわけでもない。気づけば彼女の作品は馴染めなくなっていった。山田花子がぼくを裏切ったわけじゃない。ぼくが山田花子を裏切ったのだ。そしてこれは、彼女を読み続けた人ならいずれ感じることだと思う。
彼女の作品の根っこには「私が不幸なのは社会のせい」という図式がある。適応できない自分への怒りが渦巻いて、全方位に絶望をばら撒いてる感じ。ああ、青臭い。でも、10代なら誰でもそういうの感じるし、社会への反発心ってむしろ健全なくらいだ。ただ、彼女はそれをうまく相対化できなかった。怒りも絶望もどうにもできなくて、ただただ自分を追い詰めていった。
彼女がどこまでも自分を追い込んでいったのは、たぶん純粋すぎたせいだ。隠された「露悪」とか「本音」をさらけ出すことを、自由とか真理みたいに思っちゃった。でも、根本敬や蛭子能収みたいな人たちがやってた露悪の本質――つまり、そこにある遊び心とかバカバカしさには気づけなかった。ただただ「救いのなさ」だけを描き続けた。その誤読こそが、彼女の性格をさらにねじ曲げ、行き場のない怒りや絶望を募らせた原因だったのかもしれない。
根本敬の作品って、どれだけドロドロしてても「他人事」の距離感があるし、どこか笑える部分がある。でも山田花子にはそれがなかった。全部が「自分事」だから、読者との間にワンクッションがない。常にガチの緊張感があって、読んでるこっちがしんどくなる。
これは「まんが」としては致命的な欠陥だ。「アウトサイダー・アート」としてならアリなのかもしれないけど。だからこそ、長井勝一が山田花子を即デビューさせなかったのも、なんとなく納得できる。
ぼくが永田カビを批判するのも、同じ理由だ。自己を相対化できなくて、なんでもかんでもシリアスになっちゃうところ。ぼくは「自分を客観視できない人」にイラつく傾向があるんだけど、それをそのまま世に出しちゃう作家とか、それをありがたがって受け入れる盲目的な読者にもモヤモヤする。だから「山田花子の愛読者です!」みたいな人には、なんかヤバい人が多い気がする。自分の問題を解決しようともせず、「これが真実なんだ」みたいな顔して居直ってるように見える。でも山田花子って、そうやって信奉するんじゃなくて、人生をかけて乗り越えるべき存在じゃないか。もちろん、山田花子は作品から憐憫を排除しようと努力したけど、それをやればやるほど、むしろ作品全体に「悲しみの匂い」が染みついてくるのは見てのとおり。
だから「ああなるしかなかったのか?」という問いに対して、ぼくは「たぶん、そうだったのだろう」としか言えない。彼女にとって、あの世界観を捨てることは、自分を捨てるのと同じだったんだろうし。それに、近視眼的な他責思考は、突き詰めれば統合失調症的な妄想へと行きつく。他者への猜疑心が膨れ上がって、気づいたら世界の全部が敵に見える。その先に、救いなんてあるわけがない。純粋すぎたせいで、彼女はその袋小路から抜け出せなかったのかもしれない。
だから、はっきり言おう。彼女の人生は「失敗」だった。
異論は認めない。もちろん、彼女の作品や日記が、青二才であることを極めたからこそ生まれた異形の文学だったことは確かだ。でも、それでもなお、失敗は失敗なのだ。むしろ、その異形っぷりこそが、彼女が抜け出せなかった袋小路の証明でもある。確かに、その表現には強烈な個性がある。だけど、独りよがりな青臭さも同じくらい強烈だ。
今読むとかなりキツい。未熟だし、痛々しくて、視野も狭い。だからこそ、没後30年が過ぎた今も、ふとした瞬間に頭をよぎり、しつこくまとわりついてくる。その執念深さこそが、彼女の遺したものの強さなのかもしれない。
だから、この記事を書いた。彼女への決別と、自分なりのケジメとして。
ぼくが山田花子について語ることは、もう二度とないだろう。
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