044

0221

ブログを書くのは俺にとって事実上の降参に近い。ろくでもないにしても確かにあった時間や想いを残しておきたくて、それにふさわしいものがいくつもあるというのに、安易なこの形式を選んでしまっている時点でお察しだと思ってる。

もちろん、ごく素朴な意味合いでブログを書く人は素敵だし、内容だって癒される。もう俺は神社に行っても絵馬を読ませてもらうだけで義務祈りすらしなくなったのがその説明に足るはずだ。足りてほしい。

話は逸れるけど、『パーティーが終わって中年が始まる』みたいな本を一年前くらいに皆様式(流行に乗る)で読んだ。中年になった筆者が中年的視点から若さを振り返る形式なのだが、「あの頃ブログを書いていても別に見てほしいわけではないというフリをしていたが、実際は多くの人に見てほしかったんだ。そうでなければ、インターネットなどという開かれた場所に書きつけることはなく、日記帳にでも書きこんでいただろう」といったような文章があった。たぶんこんな感じだった。

でも俺たちは、少なくともここで、俺は、思う。

本当にそう言い切ってしまっていいのか?と。

なぜその話を今さらするのかというと、今さらになってきたからだ。

俺たちはまだあの時の教室に居残っていて、机の裏に書いたしょうもない落書きが誰かに発見されることを待ち望んでいる。その人はクラスの誰かかもしれないし、違うクラスの誰かかもしれないし、ずっと先に学生になるキッズかもしれないし、最後に机を机として葬ってくれる作業員のおっちゃんかもしれない。少なくとも、みんなでも多くの人でもない。偶然としかいえない、些細なものによってのみ媒介される誰かに向けて。それ以外心底どうでもよかった。俺が言いたいのはそういうことだ。

本当に、なんでこんなことを書いたのかというと、今さらだからというのもあるし、強いうねりにあったはずの想いが簡単に負けていくのを最近でもないがよく見るからだ。いや、理由なんてなんとなくでいいと先に言えないのが俺の限界だけど、よく思う。誰もが誰かの言葉に納得して、言葉にならず、正しくもない、わりと惨めな感情を忘れることを許してしまうのが辛いんだ。だから俺だけは、ずっと惨めで、恥ずかしくて、シンプルに「たはは…」と失笑される言葉を言い続けていたい。終った話をずっとしていたい。

まだまだ惨めになれることが、負けられることが、少しだけ嬉しい。

×××

こんなことをここで書いているのは、アホほど酔っ払っているからだ。
寝れず、何かをすることもできず、無限に涙が出てくる。

×××

 

十二月から一月はよく晴れた日が多くて、なんかずっと青くねと空を見上げる度に思っていた。午前中にベランダに出て、その当たり前の景色に当たり前のありふれた感動をしていると、よくヒロインが言ったものだ。「たぶんまた今日もなくしちゃうんだね」その通りに一日をなくし続けるしかない俺はもちろん一日をその通りにふいにした。し続けてここまできた。去年から今年にかけて年末も正月もなかった気がする。その理由はダビングでしかない日々で、わずかにある差異を見つけてみようとすれば、目を凝らしてようやくわかる映像のブレ、耳を澄まさないとわからない音声の一瞬の乱れ程度としか言えない、極めて限定された範囲での、俺の力でどうにかなったちっぽけなものが少しだけあるくらいだ。

その一月が終わって二月が終わる。春めいた空でいい加減に限界ではあるけれど、こんな風に何もなく、流されるまま、この一年を終えてしまうことが確信めいていてうんざりしている。しかしだ…。そうでなければリアリティが感じられないんだ。突然のようにすべてを一変させる救済めいた出来事が起きたとする。でもそれはあまりに嘘くさすぎて、嘘だとしか思えない。死にたがっている人間が、希死念慮を思うがままに書き散らす。しかし彼らは必ず救われる。救われるためとでも言わんばかりの苦悩は実にしんどい。俺は、自分の地平を越えられず、疑い、不幸になる人間が好きだ。きっと彼らはマジなんだろうということが、よくわかるからだ。

×××

彼女は車道と歩道を分ける縁石の上で、どうでもいいようにバランスを取る。落ちてもいい、落ちなくてもいい、右は夏で、左は冬で、その危うさと、それを実感できないことを楽しんですらいる。そんな彼女に何か言えたらなと思っている。