今日は、特別な日だった。
海の果てから、海神ポセイドンとその眷属たちがこの国に降り立つ日。
国中ざわめきに包まれ、潮風に乗って運ばれるのは、花の香と、塩の匂い。そしてどこまでも続く歓声だった。
わたしは胸の奥がわずかに痛むほど緊張していた。
それでも顔には笑みを浮かべ、師匠が何度も結び直してくれた巫女の衣を整えながら、深く息を吸い込む。
この日のために、何度も何度も唄と舞を練習してきた。
「海の神に、捧げる唄と舞――失敗は許されないぞ」
そう言って微笑んだ師匠の顔が、まだ目の奥に焼きついている。
やがて、夜が深く沈み込む頃。
浜辺に設けられた祭壇に、イニスは立った。
潮騒が止まり、海は静寂に包まれている。
月の光が、水面に長く、白い道を作っていた。
わたしは両手を胸の前で合わせ、ひとつだけ短く祈る。
そして、ゆっくりと足を踏み出した。
白い砂を踏みしめるたび、波のさざめきが聞こえる。風が衣の裾を持ち上げ、彼女の細い腕と首筋を撫でていく。
舞は、柔らかく流れる水のように。
唄は、静かな入り江に響く波の調べのように。
その声は幼く、けれど澄んでいて、遠く沖の彼方にまで届くようだった。
人々は息を呑み、祈るようにその姿を見守る。
やがて、舞が終わり、わたしはゆっくりと跪き、両手を掲げた。
海神への捧げものとして、歌と舞を終えたことを告げる、古からの礼法だった。
そして――
それは、見事に成功した。
神殿の上席に座していたポセイドン様も、どこか愉快そうにその姿を見ていた。
その瞳が、まるで波打つ水面の奥からこちらを覗くようで、イニスは思わず視線を落とす。
胸が高鳴ったのは、畏敬によるものだと、そう思い込むしかなかった。
その夜、国中が祭りに湧いた。
供物はふんだんに用意され、海の幸が溢れる宴が続く。
酒は甘く、果実は香り高く、どこからか音楽と踊りの輪が絶えず響いてくる。
わたしもその輪の中に招かれた。
幾人もの
「綺麗だったわよ、イニス!」
「海神様もご覧になってたわ!」
誰もが彼女を称えた。
それは、ほんの一瞬――わたしの胸に、暖かな誇らしさを灯した。
この夜が、永遠に続けばいいのに――
そんな淡い思いが、ひとときだけ、心を満たしていた。
そのときだ。
「イニス」
名を呼ばれ、顔を上げる。
いつの間に近づいていたのか、海神ポセイドン様がそこにいた。夜の闇の中でも、その声ははっきりと聞こえる。
「少し、話をしようか」
微笑みながら、彼は手を差し伸べた。
わたしは一瞬迷ったが、すぐに小さく頷く。
神が自分に声をかけるなんて、他の誰にもない光栄だ。
それが当然のように思えたのは、祝祭の熱と、彼が纏う圧倒的な威光のせいだったかもしれない。
連れて行かれたのは、祭壇の奥にある小さな部屋だった。海に向かって開けた場所で、波の音が心地よく響いてくる。
そこに座るよう促され、わたしは素直に腰を下ろす。目の前には、また甘いジュースが用意されていた。
「……今日は、よく頑張ったな」
ポセイドンが、ゆっくりと声をかける。
その言葉に、わたしは顔を赤くしてうつむいた。
「まだまだ未熟です。もっと唄も舞も上手くなりたいんです」
「ふむ。何のために?」
「いつか……この国をもっと良くしたくて。
わたしがちゃんと、神様に祈りを届けられるようになれば、きっとこの国も豊かになって、みんなも幸せになれるから」
恥ずかしそうに、それでも真剣に言葉を紡ぐ。
ポセイドン様は目を細め、その瞳の奥に何か別の光を宿しながら、頷いた。
「それだけか?」
「……それだけじゃないです」
イニスは、ほんの少しだけ口元を引き結ぶ。
「武器の稽古もしてます。薙刀を。
モンスターが攻めてきても、師匠みたいにちゃんと戦えるようになりたい。......誰かを守れるようになりたいんです」
その言葉には幼さと真剣さが混じっていた。
小さな拳を握る仕草も、まだ未熟な力しか感じさせなかったけれど、それでも瞳はまっすぐだった。
ポセイドンは、それを楽しげに見つめる。
まるで興味深い玩具を見るように。
「……力が欲しいか?」
彼は、唐突に言った。
一瞬だけ戸惑う。けれど、わたしはすぐに頷いた。
「はい」
答えはあまりにも真っ直ぐで、純粋で。その言葉に偽りはなかった。
ポセイドンは微笑んだ。
そして、わたしの頬に手を伸ばす。
長い指先が、優しく髪を撫で、耳の後ろをなぞる。
「そうか……、やはりお前は、あいつの弟子だな」
その声音は変わらず穏やかだった。
けれど、次の瞬間、その手はイニスの顎を強く掴み、顔を上に向かせる。
「なら、相応しい贄になれ」
囁くような言葉と共に、彼は無造作にイニスの唇を奪った。
冷たく、けれど圧倒的で逃れられない力。
イニスは目を見開いたまま、何も理解できない。
抵抗する暇すら与えられず、柔らかな身体は容易く捕らえられ、祭壇の奥深くへと引きずり込まれる。
海の加護――それは、神の気まぐれによって、乱暴に与えられるものだった。
「この加護がある限り、お前は海に愛される」
男の声が耳元で低く囁かれ、背筋に粟が立つ。
次の瞬間、私の体が光り出した。
海の力だと、直感した。
それが「祝福」なのか「呪い」なのかは、わからない。
けれど、あの男がわたしのために与えたはずがないことだけは、はっきりしている。
その後、あいつは静かに立ち上がると、何も言わずに背を向けた。
まるで、すべてが終わったとでもいうように。
そして、ゆっくりと遠ざかっていき、霧が晴れるようにその気配ごと消えた。
その場に残されたイニスは、ひとり、硬く地面を握りしめた。
それでも、彼女の心はどこまでも静かだった。
冷たく、けれど決して消えない炎が、その胸の奥底に宿っている。
あいつを、いつか殺してやる。
そのためならば、どんな力でも使う。
たとえ、それがあの男の与えた加護だとしても。
イニスは、ふらつく足で立ち上がった。
視線の先に転がっている、巫女服。
かつて、師匠から与えられた唯一の正装。
“それは、神に仕える者の衣”――そう教えられた。
けれど今は、違う意味を持つ。
穢された身に纏うには、あまりにも皮肉な衣装だった。
わたしは無言で手を伸ばし、一つひとつ身につけていく。
まず、黒いノースリーブの衣を、頭から被る。
冷たい布地が肩を撫で、胸元を滑り落ちて、下腹をなぞる。
腰まで深くスリットの入ったスカートが揺れる。
その上に、肘よりも長い手袋を通すと、細い腕はすっぽりと黒布に覆われた。
指先が震えるたび、布の質感がわずかに軋む。
ポンチョのように肩にかける羽織を首元で留めると、その裾がふわりと揺れた。風に舞う布の感触が、かすかに冷たい。
脚にニーハイを引き上げ、爪先からひざ上までを覆い隠すと、ようやく潮の匂いが遠のいた気がした。
そのまま、重さのあるブーツを履く。
ひざまで覆う革の感触は、歩くための鎧だと、今は思える。
鏡はない。
けれど、イニスは自分がどんな顔をしているか、知っている。
まだ幼い顔に、似合わぬ冷たさが宿っていることも。
その瞳が、夜の海に沈む月よりも、なお暗い怒りを湛えていることも。
「……これでいい」
小さく息を吐き、立ち上がる。
まだ震える膝を押さえつけながら、巫女の衣を纏った少女は、静かに走り出した。
脚は重く、けれど一歩ずつ、確かに地を踏む。
どれほど走ったのか、夜の港が目の前に広がっていた。
ひとつだけ灯りを灯した商船が、桟橋に繋がれている。
あの帆に描かれた紋章――
「オラリオに行けば、誰でも力を手に入れられる。
あとは、それをどう使うかだ。」
足を止めた瞬間、不意に思い出す。
師匠の顔を。優しく、けれど厳しい声を。
あの手が、何度もイニスの手を握り、武器の持ち方を教えてくれたことを。
大切な唄と舞を教えてくれたことを。
あの人にひと言の別れも告げずに、こんな場所まで来てしまった。
「ごめんなさい」
誰に向けてでもない、小さな声がこぼれる。
夜の風にさらわれるように、その言葉はすぐに消えた。
でも、心のどこかでそれを聞いた誰かが、必ずいると信じた。
振り返らない。
後戻りはできない。
師匠にさえ、知られたくない姿だ。
イニスは、商船の荷の隙間に滑り込む。
冷たい木箱の中、膝を抱え込んで身を潜めた。
傷口が痛み、体の奥に宿った力が静かにうねる。
「わたしは、あいつを殺す。」
この加護を、奴に突き返すその日まで。
そのために、生き延びる。
たとえ、誰の愛を捨てることになっても。
やがて、船は静かに港を離れた。
水面に揺れる月だけが、イニスを見送っていた。
何度も膝をつき、泥と血にまみれながら、それでも彼女は走った。
気がつけば、目の前に港が広がっている。
夜の海は静かで、波の音は穏やかだ。
けれど、イニスの耳には、その音すら憎しみを囁く声のように聞こえた。