水が落ちる音。波紋。広がっていく円形。
少女は今日も舞い、唄を歌い続ける。
海に浮かぶこの国には、はるか昔から語り継がれる物語がある。
曰く、初代の王が神の怒りに触れたため、年がら年中、豪雨や津波に見舞われる呪いを受けたという。
曰く、国でいちばん美しい娘を生贄に差し出せば、その呪いは解けるのだという。
曰く、神が愛した精霊が人間と恋に落ちたせいで、神は嫉妬に狂い、海を荒らしたのだという。
曰く、その精霊と人間の間に生まれた血が、今もなお、舞と唄を神に捧げ続けているのだと。
……けれど、そんな話は今ではすっかり古いおとぎ話になっている。
国は豊かで、港はいつだってにぎやかだし、神々の怒りや嫉妬も、みんな遠い昔に忘れ去られたかのようだ。
だけど、それでも。
「お師匠さま……じゃあ、なんで私たちは今日も歌うの?」
そう問いかけたのは、純粋な疑問からだった。
師匠は、わたしの額に落ちかかる髪をそっと払いながら、静かに微笑む。
「それはね、私たち
海が穏やかであるように、豊かであるように、舞と唄を絶やさないこと。
それが、私たちに流れる血の役目だよ。
さあ――雑談はおしまい。稽古を始めるよ」
わたしにそう告げた師匠は、まるで海の底でゆらめく光そのものだった。
青い髪が、陽の光に濡れた水草のようにきらめき、
瞳は、水面に浮かぶ月をそのまま閉じ込めたように、美しく静かだった。
男性の身でありながら、女神でさえ裸足で逃げ出すような端正な顔。どこか、この世の人ではないような――そんな現実離れした美しさを宿している人だ。
わたしたち
青の髪と銀の瞳を持って生まれた、潮の子。
この国が再び水の怒りに呑まれぬよう、唄い、舞い、祈ることで、国と海の均衡を守るのが役目とされている。
けれど、所詮わたし達は
そんな水精霊のような権威は持っていない。
石畳の練習場は、昼の光を反射して白く輝いている。まるで海辺に打ち寄せる波が乾いた砂を濡らす、その刹那のように。
わたしは、その中心に静かに立っていた。
「始めなさい」
ただ一言。
それだけで、呼吸が深くなる。
右足を踏み出す。
踵が石を打ち、鈍い音が小さく響いた。
次いで左足を滑らせるように出し、両腕をゆっくりと広げていく。
――その瞬間、空気が変わった。
石畳の表面に、淡い光が走る。
やがて、足元から薄い水膜が滲み出すように広がり始めた。
それはまるで、波のような弧を描いて、舞台の全体に満ちていく。
一歩、また一歩。
決まった舞の型に沿って踏み込むたび、波紋が生まれ、幾重にも重なってゆく。
白い石は、次第に透き通る水鏡と化し、そこにわたしの影が、まるで水底の魚のように揺らいだ。
「……綺麗に波を保ちなさい」
師匠の穏やかな声が、潮騒のように響く。
「はい……」
わたしは静かに息を整え、さらに一歩を踏む。
すると、波紋が丸く均等に広がり、透明なリングとなって、足元から遠くへと伸びていく。
波紋は決してぶつかり合うことなく、規則正しく広がり続ける。
それはまるで、わたしが海の表面そのものを踏んでいるかのようだった。
わたしは唄い始める。
低く、ゆっくりと。
最初は囁くように、そして徐々に力強く。
声が、波紋に命を吹き込んでいく。
その度に、足元の水面は柔らかく揺れ、光を孕んだ小さな泡が音に合わせて浮かび上がる。
「神様は、こういう時の唄を聴いているんだ」
師匠が、後ろで静かに呟く。
「舞も唄もどちらも祈り。それを忘れないように」
「……はい」
わたしは頷き、さらに腕を伸ばした。
指先が緩やかに風を裂き、その軌跡に淡い水の光が瞬く。
長く続けてきたこの稽古は、ただの舞踊ではない。
海と語らうためのもの。海を愛し、同時に恐れる者たちの、太古から続く祈りだ。
波紋はまだ続く。
踏み込むたびに、水面は静かに震え、やがて――
練習場そのものが、限りなく静かな入り江のように思えた。
「……よし、そこで止めて」
師匠の声で、わたしは最後の一歩を踏み、そっと息を吐いた。
波紋が、静かに止まる。
足元の水鏡は、石畳に戻りつつも、その表面には薄く光が宿っている。
師匠はそんなわたしを見つめ、わずかに頷いた。
稽古が終わり、師匠がふいに、遠くの水平線を見やりながら言った。
「イニス。あとひと月で、海神様がこの国においでになる」
「……!」
わたしは顔を上げる。
それは、この国にとって久しぶりな事だ。
「その時に、わたしたちネレウスの唄と舞を奉納するよ。本番だ。……失敗は許されない」
海の神がこの国に降りる。
わたしはその重さを、子供ながらに感じていた。
けれど、それでも……
「はい。がんばります」
きっと、今までよりもっと長い時間、師匠と稽古ができる。それがわたしは、少しだけ嬉しかった。
本番までのある日。
その日も、練習場の石畳は朝露に濡れていた。
まだ陽が登り切らぬ薄明のなか、わたしは一人で薙刀を構えている。
両の手に、柄の冷たさが馴染んでいく感覚。
師匠から譲り受けた稽古用の薙刀は、わたしの背丈よりも長く、扱うのはまだ難しい。
けれど、今はこの重みが心地よかった。
「もう来ていたのかい」
背後から、穏やかな声。
振り返ると、師匠が水色の羽織を風にたなびかせながら、静かにこちらを見ていた。
「もっと寝ていてもよかったのに」
「……練習したくて」
わたしは短く答え、また正面を向く。
構えを正し、両手の位置を直す。
薙刀の切っ先が、わずかに揺れる。
まだまだ不安定だと、自分でも分かっていた。
「唄や舞だけでは……足りないと思うんです」
わたしはそのまま、ぽつりと呟いた。
「神様に唄を届けても、誰かを助けるだけの力がなければ、この国は守れない……」
師匠はしばらく何も言わなかった。
けれど、その足音は静かに近づき、気づけばわたしの正面に立っていた。
「イニス」
呼ばれた名前に、わたしは顔を上げる。
「お前がその薙刀を手にする理由は、誰にも強制されるものじゃない。けれど……本当にその覚悟があるのなら」
師匠は静かに手を伸ばし、わたしの構えを直した。
肘を少し引き、重心を低く。
「……なら、私が教えよう」
わたしは無言で頷いた。
胸の奥で、潮騒のようなざわめきが強くなる。
それは、唄でも舞でもない、自分自身の「願い」から生まれた音だった。
師匠はわたしの後ろに回り、背に手を添える。
「風を切りなさい。薙刀は水のように、流れるように振るうものだよ」
「……はい」
わたしは薙刀を振るう。
その重さはまだ、わたしには大きすぎたけれど――
振り下ろした瞬間、風が切り裂かれた感触が手に伝わる。
「今のは良かったよ」
師匠の声に、少しだけ胸が熱くなる。
わたしはもう一度、構えを取る。
海神がこの国に来るまで、あと一月。
その時までに、わたしはもっと強くならなければならない。
唄うだけでは守れないものがあると知っているから。舞うだけでは届かない祈りがあると、感じているから。
わたしは唄う。
そして、薙刀を振るう。
それがわたしの「祈り」の形だと、そう信じていた。
そして、時は流れた。
その一か月のあいだに、この国にはひとつの大きな祝福が訪れる。
王家に、待望の姫が生まれたのだ。
わたしたち
真珠貝を思わせる白い大理石の広間に、薄青の帷がゆるやかに風に揺れている。
香草の煙がたちのぼり、祝福の儀式は静かに進められていった。
「……今日の唄は、特別だよ。
この子のために、最初の祈りを捧げよう」
師匠はそう言うと、わたしに目を向けた。
「イニス、お前が先に唄いなさい」
「わ、わたしが……?」
驚いて言葉が詰まる。
でも、師匠は優しくうなずいた。
「そう。この国の未来に唄を捧げるのは、お前の声であるべきだ」
わたしは深く息を吸い込んだ。
そして、両手を胸の前に合わせると、そっと目を閉じる。
――わたしの声が、静かに広間に満ちていった。
それは、小さな波紋のように、やわらかく空気を震わせ、光の粒を運んでいく。
師匠達が後に続き、やがて二重、三重に重なる旋律が、祝福の空間を満たしていった。
揺籃の上には、まだ小さな王女様――アスフィ・アル・アンドロメダ。
その小さな命が、やわらかな光に包まれるのを、わたしは夢見るように見つめた。
この国の未来を、この子が担っていくのだろう。
わたしは、ふいにそんなことを思った。
やがて唄い終わったわたしは、そっと目を開ける。
静かな広間に、海風が吹き抜けるような静寂が訪れる。
ふと、視線が祭壇の上の揺り籠へと向かう。
まだ目も開いていない、小さなその赤子は、けれど、不思議と安らかな寝息を立てていた。
「……よく似合っていたよ、イニス」
師匠が、柔らかく言った。
「この子は、きっとお前の声を忘れない」
その言葉の意味が、このときはよくわからなかった。