18階層までたどり着いてから数日。
僕はとある些細なことで悩んでいた。
「ベル君、今日はどうするの?」
隣に座るアイズさんが僕に問いかける。
単に隣と言っても色々あると思う。単に横にいるというだけなら特に言うことはないが、しかし肩が触れ合うほど密着して座っていれば少し困りもする。
ただでさえ彼女は美少女と言うべき容貌なのだ。
密着されて何も感じないほど、僕の感性は死んでいるわけではなかった。
遠征に行ってから、アイズさんの僕への距離感は妙に近い。
しかもそれでいて何となく不快感や気まずさがない気がする。
まるで行動のリズムを把握した家族のように、絶妙な距離感を保っていた。
更には。
「ベル君、今日のご飯ができたんだって。食べに行く?」
単に距離感が近いだけでなく、行動自体も共にしようとする。そのできたご飯はロキファミリアの食事なのだが、僕らが食べていいのだろうか。
既に何度もご相伴に預かっているが、その度に同じことを悩んでいる気がする。
一応幹部であるリヴェリアさんは良いと言ってくれているが……。
社交辞令ではないと思いたい。もしそうだったら失礼にも程がある。
「早く行こう」
微笑むアイズさんが僕の手を取って歩き出す。……結局今回も流されてしまった。
――まぁいいか。
僕は深く考えることなく、高い上にさして美味しくもないリヴィラの食事をしなくて済むことを喜んだ。
***
「神さまを、どこにやった」
僕は煮えたぎるような怒りを抑えて、静かに言葉を紡いだ。
ロキファミリアの皆が、先に地上に帰るのを見送ったあと、僕へ向けて手紙が届いた。
――主神は預かった。無事に返して欲しければ、指定の場所に一人で来い。
そんなふざけた内容の手紙が。
そして現在、僕はその手紙の内容通り指定の場所へと一人で来ていた。
……わざわざ書かれていないことまで従うつもりはなかったが。
待ち受けていた冒険者とその仲間たちは嘯いた。
”今から1対1で決闘をしてやる。お前が勝ったら主神を返してやる”
どの口で。
内心で強く苛立ち――ほんの少しだけその苛立ちを解放することにした。
右手を挙げて、照準。
「――ファイアボルト!」
白い閃光が後衛と思しき冒険者に着弾し、後ろへと吹き飛ばした。
その姿は森の奥へと消えていき、見えなくなった。
「神様にかすり傷でもつけてみろ。お前たちを全員皆殺しにしてやる」
内心の激しい苛立ちを露わに、激高した素振りを見せれば、一瞬ざわめいた冒険者たちは沈黙した。
自分がやっていることが少しくらいはわかっただろうか。
もう遅いが。
少し離れたところから感じていた視線が森の奥へと向く。
呆れたような視線を一瞬だけもらいながら――僕のアドリブに付き合ってくれたらしい――気配は森の奥へ消えていった。
「――さぁ、一騎打ちをするんでしょう」
移動していく気配を悟られないように――彼女がそんなミスをするとは思えないが――殺気を膨れ上がらせる。
「かかってこい、卑怯者ども」
襲い掛かるただのならずものを、殺しても構わない敵として見做しながら、僕は短剣を振るった。
姿を消す魔道具なんていう隠し玉はあったものの、僕は最初に一騎打ちとして襲い掛かってきた冒険者を返り討ちにした。
そもそも殺気は駄々洩れで、今から剣を振りますとばかりに攻撃の前に膨れ上がる始末。
草の動きや地面の沈み込みといった足元の動きも隠せていないし、玩具の使い方をわからず振り回しているのようなものだった。
”これを仮にリューさん辺りが手にすると手が付けられなくなりそうだな”なんて考え事をする余裕があるくらい、相手には技術が伴っていなかった。
――ちょうどその瞬間。
少し離れた位置から火柱が立ち昇る。
それは僕がリューさんやパーティの仲間たちにお願いしていたことが達成された合図だった。
恐らくは僕が最初にファイアボルトで吹き飛ばした冒険者から神様のいる場所の情報を聞き出したのだろうが、それを加味しても恐ろしく早い仕事ぶりだった。
「さあ、お前たちが頼みにしていた人質は解放された」
「もう僕が躊躇う理由はない。投降しろ」
彼らに投降を呼びかけてみるが、応える様子はない。
変わらず目をギラギラと輝かせている。
少しくらい脅しておこうか。
そう思った。
足元に転がっている男を眺める。
さっきまで斬り合っていたはずだが、名前は何だっただろうか。確かモルドとか言っていた気はする。まぁリーダーみたいだし、ちょうど良いか。
僕はゆっくりとその男に近づき――肩口に刺さった投擲用のナイフを思いっきり力を込めて踏み抜いた。
「ぎぃぃゃゃゃぁぁぁ!!!」
形容し難い獣のような断末魔が周囲一体に鳴り響く。男はしばらくのたうち回った挙句、口から泡を吹いて再び気絶した。
冷たい目で見下ろしていた視線を、温度をそのままに周りを囲んだクズどもに向ければ、先ほどの断末魔とともに周囲一体の空気が凍りついたのがわかった。
さっきまでへらへらと笑っていた連中の顔には、はっきりと怯えが混じっている。どうやら見せしめにはなったらしい。
下げていた短剣を再び構える。それだけで襲撃者たちの足が一歩後退りする。
とはいえ、この場を逃げ出すつもりはないらしい。それならば――
「……なんだ、まだ続けるのか。まぁ、いいか。それならそれで遠慮なく――皆殺しにしてあげますよ?」
迷宮内で襲ってきた非は相手にあり、ここで奴らを殺してしまっても罪になることはない。
ならば――後顧の憂いごとここで
「双方、それまで!!!」
神ヘルメスの神威とともに。
それは始まった。
安全階層であるはずの18階層。
神ヘルメスの神威に反応して、その天井に亀裂が走る。迷宮が歓喜するようにその身を揺らす。
巨大な亀裂の奥から、一対の赤い瞳が覗く。
蠢く影はまるで待ちきれないというように、亀裂に手をかけ、強引にそれをこじ開けた。
――巨大な黒い巨人が、地に降りたった。
”逃げなさい”
僕はあの後合流したリューさんにそう言われた。
最低レベル4以上の能力を持ったあのゴライアスと戦うには、僕たちは力不足。
そう諭された僕たちは、その言葉を素直に受け入れて、リヴィラの人々とともに避難を始めた。
リューさんやアスフィという女性は高レベル冒険者としてゴライアスの足止めを行うという。
目指すのは17階層へと続く洞窟。
洞窟まで行けば、あのゴライアスは追ってはこれない。
僕らの撤退が済めば、リューさんたちも引くことができる。
そう信じていた。
「やっと着きましたね、ベル様」
17階層への洞窟へと続く人の列に並びながら。
リリが疲れた顔でそう言う。
無理もない。
洞窟の周囲はリヴィラの街から避難する人でごった返していた。こんな人ごみの中を歩けば疲れもする。
何より――。
「――っ!」
僕たちより少し後ろの方で、怒声と悲鳴が上がる。
僕はいい加減うんざりしていた。
「みんなは先に行ってて」
リリとヴェルフ、神様を置いて来た道を引き返す。
リヴィラまで来るのは基本的に冒険者だ。
そして冒険者というのは基本的に素行が悪い。
商売道具をすべて持ち帰ることができないことに苛立った者たちがこれだけ多くいれば、トラブルだって頻発する。
そして、トラブルが何度も起きれば避難は遅れて、リューさんたちが逃げるのも遅くなる。
どれほどうんざりしていても見逃すことはできなかった。
それほど先には進んでいないはずだ。
「べるさまー!」
先に見つけてくれたリリが僕を呼ぶ。
どうやら洞窟に入ったところで待っていてくれたらしい。合流しようと人波をかきわけていく。
ようやく開けた視界の中、視線の先でリリが見つけてもらおうと飛び跳ねていた。
僕は苦笑しながら足を速めて――
――迷宮が嘲笑するように揺れた。
その瞬間、僕の視界がゆっくりになる。
洞窟の天井から大きな岩が、落ちてきていた。それはゆっくりと下にいるリリたちに迫っていく。
「――ぁ」
危ないと叫ぼうとした。
だが、全ては遅かった。
――あかいはなが咲く。
そして、それすらも次から次へと落ちてきた洞窟の天井に押し潰された。
周囲の人々から悲鳴が上がる。
だけど、そんなものは僕の意識を揺らすことすらしなかった。
ふらふらと崩落した洞窟へ歩いていく。
逃げていく人々の中、目の前の現実を信じたくなかった僕は、意味もなく崩落した洞窟を掘り返していく。
信じたくない、信じたくない、信じられない。
一心に掘り進める中、どれほどの時が立っただろうか。
――僕の身体に影が差した。
振り返れば。
リューさんたちの死体を握りしめて、ゴライアスが立っていた。
僕はもう、何もかもがどうでもよくなった。
――時が巻き戻る。
リューさんから逃げるように言われたあと。
僕はふと湧いてきた疑問を口に出した。
「リューさん。ダンジョンはあのゴライアスを使って神様たちを殺すつもりなのに」
「このまま17階層まで逃がしてくれるんでしょうか」
その言葉にリューさんが表情を険しくする。
神ヘルメスも苦々しそうに言った。
「……いや、無理だろうね。それこそ――」
まるで僕らの会話を聞いていたように、ダンジョンが揺れて、遠くから土煙が生じる。
「――17階層までの道を崩落させかねない……って遅かったか」
はっきりと周囲に重苦しい空気が満ちた。
「つまり私たちは、この18階層に閉じ込められた。脱出にはゴライアスの討伐が必要となる、ということですか」
その場の誰もが厳しい表情を作る中。
僕はただ一人奇妙な安堵感を感じていた。
状況は即座にリヴィラの人々へと共有された。
すぐに上級冒険者の援軍が結成され、足止めに残ったリューさんたちの元へ派遣される。
リリたちは後方支援の班へと振り分けられた。
階層主クラスのモンスターを相手にするため武器や防具、ポーションといった消耗品を運ぶための部隊だ。
対してパーティの中で唯一のレベル2である僕は、一応の前線部隊――前線予備というべき位置に配置された。
増援が派遣され、前線が構築されてからどれほどの時間が経っただろうか。
然程長い時間ではないのは間違いない。
その短い時間で前線部隊は明確に消耗していた。
ゴライアスは健在。疲労は全く感じられず、その身体に傷はない。
最初期から少人数で戦っていたリューさんたちは、激しい消耗のため一旦後方へと退いていた。
「ファイアボルト!」
ゴライアスの顔に、目くらましの魔法を当てて、接近。
走りながらゴライアスの身体に短剣を打ち付ける。走る勢いをそのまま込めてもゴライアスは固く、その身体へ付けられる傷は僅かだ。
そのままゴライアスに捕まる前にその横を走り抜けた。
「はぁ、はぁ」
目元まで垂れてくる汗をぬぐう。
前線部隊は消耗が激しく離脱者も多い。それこそ前線予備というべき立ち位置であった低レベル冒険者が戦う必要があるほどに。
僕自身、もう既に何度もゴライアスへと攻撃を敢行している。
たった一度の接触にも緊張を強いられ、その分体力の消耗は激しかった。
「まだ……再生するのか」
近くの冒険者が震える声で呟いた。
乱暴に汗を拭って顔を上げると、ゴライアスの身体に赤い粒子がまとわりつくのが見えた。
ゴライアスの身体、主に傷跡から噴き出したソレは僅かな時間で収まる。
赤い粒子が消えたあと、そこに傷跡は残っていなかった。
「ひっ、はぁ、こんなの無理だろう!」
絶望したような顔で冒険者の一人が膝をつく。
だが、それでも生き残るためには戦わなければならなかった。
視界の先でまた一人、重傷を負った冒険者が運ばれていった。
何度目かの攻撃のため、ゴライアスへと接近する。
ゴライアスの正面には囮役として一人の上級冒険者が必死に攻撃を回避している。
囮役に気を取られていることを利用して、ゴライアスの同じ箇所に何度も短剣で切りつける。
やがてゴライアスの注意がこちらへと向きそうになったところで、今まで通りゴライアスの脇を抜けて離脱しようとする。
既に慣れた動作だった。
問題はゴライアスの注意が逸れそうになったことで、一瞬気を抜いてしまった冒険者が攻撃を食らったことだった。
元々前線を張っていた上級冒険者だ。咄嗟に剣を盾にして身を守った。
吹き飛ばされた冒険者はかなりのダメージを食らったため、即座の復帰は難しいだろうが、それでも少し休んで回復すれば戦えるだろう。
だから、最大の問題は。
ゴライアスの拳に向けて盾にされた剣が、折れる。
折れた剣は、その横を通り抜けようとした僕を襲った。
回転する刃が迫る中、僕は無理矢理地を蹴って身を投げ出す。
ギリギリのところで避けた刃が、僕の髪の毛を幾本か切り飛ばしながら去っていく。
そしてその事実に安堵する暇もなく。
僕は追いついたゴライアスに蹴り飛ばされた。
「――はぁっっぁぁ、ごほっ、おえ」
一瞬意識が飛んでいた。
身体は全身痛くて動けない。立ち上がろうにも足に力が入らなかった。
霞む視界で目を凝らせば、足は曲がってはいけない方向へ曲がっているように見えた。
危機感だけが膨らんでいった。
状況の把握のために顔を上げれば、ゴライアスの赤い瞳と目が合う。
ヤツはまるで獲物を見つけたというように口角を吊り上げると、恐怖を煽るようにこちらへとゆっくり歩きだした。
その距離はかなり近い。
生き残るための算段を見つけるために、僕は全力で頭を回す。
だが――
「――ここまで、か」
その可能性はないと僕は気づいてしまった。
既に前線部隊は半壊し、重傷者を運ぶ人員は不足している。
その上、ここまでゴライアスに近いとなると、僕を救出する人員は相当な危険に身を晒すことになる。
そこまでする冒険者がいるとは思えなかった。
――ゴライアスが地を揺らしながら、徐々に近づいてくる。
せめて死ぬその瞬間まで諦めないでいようと、ゴライアスの目を睨みつける。
それで終わる。そのはずだった。
「――ベル様!!!」
だから、聞こえるはずのないその声が聞こえたとき、僕の全身は凍り付いた。
即座に声に向かって振り返る。
リリは手に持っていた巨大な長い包みを投げ捨てると、そのまま僕に向けて走ってくる。
リリは後方支援の部隊に配属された。
その拠点はもっと後方にあるのだから、彼女がこんなところにいるはずがない。こんな前線に荷物を届けに来るはずなんてない。
そのはずなのに、彼女は此処に来ていた。
僕は全身の力を振り絞って深呼吸をした。
ただ、声を出す。それだけのことにも全身に痛みが走り、体力を消耗する。
「リリ、こっちに来るな!!!」
ちゃんと声を出せたのは、その一度だけ。
無理矢理に使用した身体はごほごほと咳き込み始める。
それでも。
声ならぬ声でこちらに来ようとするリリを止めようとする。
――こっちに来たらダメだ。
――リリだけなら何とか逃げられる。
碌に響きもしない声がもどかしい。
リリだってわかっているはずだ。
僕の状況は詰んでいる。リリが来たところで、この状況から僕を連れて逃げられるとは到底思えない。
――それなのに。
変わらずリリは必死な顔で僕へと向かってきて――そしてたどり着いた。
着いて、しまった。
ゴライアスが足を速めてこちらへと向かってくる。
もう間に合わない。僕だけでなく、リリも。
リリ自身もそれがわかっているのか、僕を連れて逃げようとはしなかった。
「どうして、リリ……」
疑問を口にする僕に、リリが柔らかく穏やかな口調で答えた。
「馬鹿ですね、ベル様は。リリが、ベル様を見捨てて逃げるなんて、できるわけがないでしょう」
その言葉は罵倒しているようで、しかし、どこまでも優しげな響きを伴っていた。
言葉を失った僕に、リリは静かに微笑んで続ける。
「ベル様と過ごしたこの1ヶ月は、リリの人生の中で一番幸せでした」
「だから後悔なんてないです」
リリは、ゆっくりと噛み締めるようにそう言った。
「……あぁ、でも。強いて言うなら、もう少しだけベル様と一緒に過ごしたかったなぁ」
大地の震動が止まる。けれど、それは――。
「大丈夫、怖くなんて、ないです。ベル様にはリリがついてますから」
慈しむようで、でも、泣きそうで。
そんな表情で静かに微笑みながら、リリが僕を護るように抱きしめる。リリの胸へと抱え込まれて、真っ暗になった視界の中、彼女の心音が優しく僕を包んでいた。
どうしてだろう。
こんな状況なのに、子供に戻ったように安心している僕がいた。
――どこからか、ヴェルフが悲鳴をあげるように僕らの名前を呼んでいるのが聞こえる。
「」
僕を抱いたまま目を閉じたリリが、声ならぬ声で、密かに囁く。
最期に聞こえたその言葉はひどく耳に残った。
――衝撃。
………………"大好きです、ベル様"
――時計の針が、廻る。
ゴライアスとの戦闘はどれほど続いただろうか。
前線は半壊しつつあった。
僕は冷静にあとどれくらい持つか考える。
結論として。
今すぐ崩壊してもおかしくない、そう思った。
僕はその場を見渡して、前線部隊の指揮官を探した。
「はぁ!?もう一度聞くが、気は確かか?」
「どちらにしてもそれくらいしないと持たない。違いますか」
僕の反論に指揮をしていた冒険者は黙り込んだ。
僕はもう一度同じことを繰り返した。
「いいですか、僕があいつを引き付けます」
「もう前線はもたない。一旦引いて態勢を立て直してください」
一度前線が崩壊すれば、そこにいた冒険者はほぼ全員が死ぬだろう。そうなれば立て直しどころではない。
どちらにしてもそれは誰かがしなければならないことだった。
「お前はレベル2だろうが。あのゴライアスはレベル5相当だ。どれくらい持つかわからん。それにどうやって引き付けるつもりだ」
「あのゴライアスは攻撃速度はともかく、然程走る速度は速くありません。そのレベル評価も規格外の再生能力と外皮の硬さが原因でしょう。それに――」
僕は出来るだけ不敵に見えるように笑った。
「――あるんでしょう、モンスターを引き付けるアイテムが」
その言葉に図星を突かれたように、冒険者が呻く。
「――あるだけ寄越せ。今すぐに」
「こっちだ!ゴライアス!!!」
大声を張り上げた僕に向けてゴライアスが顔を向ける。
単に声を向けられたから見たという反応は、ほんの少しの間をおいて激烈な反応へと変わる。
憎悪の視線が僕へと向けられる。
モンスター用の臭い除けの香。
或る一定レベルまでのモンスターはその匂いを避けるが、それ以上のモンスターは逆にその匂いの原因を排除しようとする。
そんな上級冒険者のみに知られる香の匂いがゴライアスまで届いたのだ。
「――絶対に、この場から引き離す」
僕は、原因不明のまま湧いてくるその決意とともに、走り出した。
指揮官役の冒険者に啖呵を切った僕だが、実際のところトップスピードに乗ったゴライアスと僕では、ゴライアスに軍配が上がる。
だが、それでもある程度時間が稼げると算段はつけていた。
トップスピードで追いつかれるなら、それを出させなければいい。
そう考えてのことだった。
何度も何度も小刻みに走る方向を変える。
特に障害物に遮られて、ゴライアスの視界から僕が消えた瞬間を見計らって。
「――ォォォォ!!!」
見失った僕を見当違いの方向に見つけて、ゴライアスが何度目かの苛立ちの咆哮を上げる。
それを追い風に、僕は走り続けた。
まだなのか。
僕は焦れていた。
ゴライアスとの鬼ごっこを始めてから1時間近くの時間が経っていた。
まだ、前線部隊再編の合図は来ない。
僕の体力は尽き始めていた。
徐々に危機感と焦りが募っていく中、ゴライアスに捕まりそうになるような危ない場面を感じるようになる。
僕はもう一度気合を入れなおすと、残った体力をかき集めて走り出した。
――合図があったのはそれから15分後だった。
無事に再編された前線部隊にゴライアスの相手を任せたあと、僕はリリたちのいる物資の集積場で倒れこむように眠りについた。
どうにかやり遂げたと達成感に浸りながら。
それから2時間後。
僕は指揮官役の冒険者に呼び出された。
彼は開口一番こう言った。
”もう一度同じことができるか”
無理と言えたらどんなに良かったことだろう。
指揮官役の冒険者を含めて、前線の冒険者たちは全員疲労の色が濃かった。
それこそまだ戦えていることが信じられないほどに。
もしここで僕が無理だと言ってしまえば、彼らは納得するだろう。
そして同時に、希望の消えた彼らの張りつめた糸は途切れる。
僕の一言で前線が崩壊しかねない。そんな状況だった。
だから僕は、まだまだいけると、無理矢理に笑って見せた。
「――モンスター寄せは足りますかね?」
濃い疲労の中で。
その場にいた全員が声を上げて笑った。
――再び走り出す。
もう頭は碌に回っていない。
ただ、必死に足を前に動かすことだけを考えて、進み続ける。
危ない場面は数えきれないほどあった。
どれくらいの時間が過ぎたかなんて、全く思い浮かばない。
目の前の出来事をやり過ごすのに必死で、それ以外の思考は全くと言っていいほど、浮かばなかった。
――ただ、それでも僕はやり遂げた。
遠くから火が迷宮の天井に向けて放たれる。それは待ちに待った再編完了の合図だった。
僕は彼らの元へ走り出した。
思うように動かない身体を無理矢理に走らせて、前線部隊の顔が見えるほど近い位置まで、何とかたどり着く。
今まで走った距離から考えれば、もう目前と言ってもいい距離。
決して油断したつもりはない。
だからそう、それは。
単に僕がもう、とっくの昔に限界を迎えていたというだけの話だった。
ゴライアスが何かを投げつけたらしい。
直前の風切り音に僕はそう推測して、頭では避けようと考えた。
確かに僕は避けることはできたのだ。
ただ、力尽きて倒れこむのと、区別がつかなかっただけで。
僕は震える足で何とか再び立ち上がる。
けれど足は全くと言っていいほど、前に進まなかった。
いや、今の今まで動いていたのがむしろ奇跡だったのだ。
一度倒れこんで、その奇跡がなくなれば、限界をとっくに越えたという
それだけの話だ。
ゴライアスの足音が響いてくる。
散々僕に逃げられたゴライアスは怒りの咆哮とともに、僕へと走り続けていた。
もう残された距離はない。こちらに向かってくる前線部隊も間に合わない。
僕の死は確定的だった。
もし仮にそれを覆すとすれば。
「もういいんだよ、ベル君」
それ以上の
「ごめんね、全てはボクたちのせいなんだ」
どこからか神様の声が聞こえた。
そう思った瞬間、今度はすぐ後ろから続く言葉が聞こえた。
――なぜか、周囲の空間が清められたかのように澄んでいた。
「ベル君」
どうしてだろうか。
顔を見なくても神様が微笑んでいるのがわかった。
「身体を大事にするんだよ」
後ろにいたらしい神様は、僕の隣を通り過ぎてもなお、止まることなく進み続ける。
もう、取り返しはつかない。そんな予感がした。
「何を、言って……」
言葉を紡ぐ余裕なんてないほど疲弊した状態で、それでも必死に言葉を絞り出す。
本当は叫びだしたいほどだった。
「ボクはあっちで君を待ってるよ。でも、幾らだって待たせていいから、君はゆっくり来るんだよ」
僕へと声をかける神様の背中が少しずつ小さくなっていく。その背中に、僕は懐かしい誰かを見た気がした。
記憶にないくらい遥か昔の誰か――母の背を。
神様の背中に白い翼が幾枚も顕現する。
顕現した翼は、ゴライアスを打ち据えると、役目を終えたとばかりに光へと還っていった。
塵と化したゴライアスが宙に舞い、反射した光がキラキラと輝いて周囲を照らし出す。
――それは神の力の顕現だった。
故に、結末は決まっている。地上で力を使った神は――。
神様の周囲が光輝き、やがてそれらは天へと昇る柱を作り出す。
僕はただそれを呆然と見つめるしかなかった。
神様の姿が少しずつ強くなる光の中で覆い隠されていく。
「――元気でね」
光の中で、振り返って僕を見る神様の輪郭が、微かに、微笑んだ気がした。
光の柱がゆっくりと僅かな残滓のみを残して消えていく。
先ほどまで光の柱があったところには、もう、誰もいなかった。
”――は”
胸が、どうしようもなく苦しかった。
息を吸っても吸っても、この苦しさはちっともなくならなかった。
ただ、叫びだしたいほどの感情が、胸の内を灼きながら、出口を求めて荒れ狂っていた。
――だが。
感傷に浸ることすら許さないとでも言うように。
迷宮が
まるで、ヘスティア様の献身を無駄だと嘲笑うかのように、迷宮は音を立てて揺れていた。
そして――
――3体のゴライアスが18階層に降り立った。
それぞれ別の箇所に降り立ったゴライアスが暴れだす。
どこか遠くで神ヘルメスが神威を解放したのを感じる。
1体、2体。
3体目には手傷を負わせるに留まった。
神ヘルメスの気配が地上から離れていく。
――そしてそれすらも無駄だというように。
――今度は更に4体のゴライアスが出現した。
合わせて5体となったゴライアス。
再編を終わってこちらへと向かっていた前線部隊が、絶望して力尽きたように動かなくなった。
ああ、僕だって同じだ。
怪我なんてないのに、疲弊とは別の理由で、身体は動かなかった。
やがてそんな僕の身体を、近づいてきた1体のゴライアスが踏みつぶした。
――時が巻き戻る。
目の前のゴライアスを見つめる。
聳え立つ巨人は、難攻不落の要塞のようにも見えた。
それでも。
――押しつぶされた仲間たちを思い出す。
――リリの”大好きです、ベル様”という言葉が、耳に響く。
――最後に、神様の献身を嘲笑う、
荒れ狂う感情が、赤黒いオーラとなって僕の短剣へと宿り、全身を強化する。
「――お前だけは、許さない」
僕は全霊を込めて、それだけを呟くと。
倒すべき敵へ走り出した。
何度も何度も短剣でゴライアスの身体を切りつける。
もう既にゴライアスの動きは見切っている。
オーラを纏った短剣は、ゴライアスの硬い外皮でも十分に切り裂けた。
――だが、それだけだった。
刃渡りの短い短剣では、十分な深手を与えられない。
やがて力尽きた僕は、ゴライアスの拳に当たり、意識を失った。
――時計の針が巻き戻る。
神様の短剣ではゴライアスに十分な傷を与えられない。
そう思った僕は後方支援の部隊がいる物資の集積所へと向かった。
そこではリリがちょうど大剣を持って、前線へ向かおうとしていたところだった。
普段は短剣を使っている僕には、ゴライアスと戦うために何か大きな武器がいると思ったらしい。
”今からベル様に届けに行こうと思ってたんです。入れ違いにならなくて良かったです”
そう笑うリリに。
――彼女が前線へ来た理由がわかった。
ノイズ交じりに思考が過ぎる。
絶対にあのゴライアスを倒さなければならない。
そう決意を新たにして、僕はもう一度前線へと走った。
リリの用意してくれた大剣は、確かに短剣よりゴライアスの身体を深く抉った。
やがて再生するとしても、それは無限ではないと信じて。
僕はゴライアスと戦い続けた。
――それからも何度も何度も時は巻き戻る。
――その度に死んで、致命の状況を覆しながら。
そうして僕は、”詰んだ”。
もうこの状況は覆せない。そんな状況へ追い込まれる。
――ゴライアスとの戦闘開始まで、大きく時間が巻き戻る。
――何度も、何度も、何度も何度も何度も何度も。
どれほど戦っても。
幾千、幾万と剣を叩きつけても。
何も変わらないまま、何もかもが手のひらから零れ落ちていく。
――ふと、足が止まる。
唐突に僕は思い至った。
幾ら諦めが悪くて鈍感な僕でも気づかないはずがない。
僕は――このゴライアスに、勝てない。
地に叩きつけられた身体は、全身の骨が軋んで動かなかった。
――折れた大剣が、地面に転がっていた。
このゴライアスには勝てない。勝てるわけがない。
相手の再生力はその底がまるで見えない。一撃で魔石を破壊する以外の方法はなく、そんな規格外の破壊力を持っている冒険者はこの18階層にいなかった。
いつの間にか、前線の人数も随分と減っていた。
けれど。
”頑張ってね、ベル君”
声が聞こえてるんだ。静かに祈るような、微かな声が。――だから。
「だ、れが……」
「……諦められる、ものかよ」
僕は、再び立ち上がった。
――時計の針がゆっくりと大きく大きく円を描いた。
***
ふと、首の辺りに冷たい感触がして目が覚めた。
いや、意識が蘇っただけで、身体は動かない。不思議な感覚だった。
目の前の誰かが、僕の首に何かをかける。
その慣れた重さから、いつも身に着ける時計だとわかった。
「――がんばってね、ベル君」
声はアイズさんだった。
何の変哲もないはずのその言葉が、何故か、ひどく僕の胸に迫った。
同時に僕の身体が動くようになる。
目を見開くと、アイズさんの儚い笑みが視界に大きく映っていた。
すぐにアイズさんの儚い笑みは消えて、彼女はびっくりしたように目を瞬く。
それからなぜか少しの間、無言で見つめあった。
僕の目の奥から何かを感じ取ったように、アイズさんが悲しそうな顔をする。
まるで無力感を思い知らされたような、ひどく悲痛そうな顔だった。
――彼女がそんなことを感じる必要は全くないと、僕は知っていた。
だからそんな彼女を安心させるように、僕は強がって言った。
「――大丈夫です、アイズさん」
「絶対に僕は――勝ちます」
何に勝つのか。そもそも勝利とは何を指すのか。
何もわかることなんてないのに、僕は何も不思議には思わなかった。
ただ、そうしなければならないと、大切なものを何一つ取りこぼすことなんて許さないと、僕の中で使命感が吠えていた。
アイズさんは無言だった。
何も言うことなく微笑んで――僕の頭を撫でてくれた。
傷を癒すように。強がりをわかっていると言うように。
何度も何度も撫でるその手が心地よくて。
僕の意識はやがて、暗闇の中へと消えていった。
――付きまとうはずの既知感がないことに僕は全く気付かなかった。
***
地に伏したまま、ゴライアスを見上げる。その巨体がどうしようもない絶望を象徴しているように見えた。
何度、こうしてゴライアスを見上げただろうか。脈絡もなくそんな思考が頭の片隅を走る。今、初めてゴライアスを仰ぎ見ているはずなのに。
これは僕の我儘に過ぎないんじゃないか。これ以上皆を苦しめないうちに、もう終わらせるべきなんじゃないか。
諦めを囁く声は苦く――甘かった。
それでも。
それでも、時計を握り締めて立ち上がる。
"がんばってね、ベル君"
聞いた言葉を胸の中で反芻する。諦めない。絶対に諦めるわけにはいかない。
そう思うのに、身体が動こうとしなかった。立っているだけでも限界で、そのなけなしの力でさえ無力感と虚無感が奪い去っていく。
――そんな中、僕は手の中の時計が静かに脈動するように青い光を放っているのに気づいた。
時計を顔の前に持ってくる。それさえも億劫なくらいボロボロな身体に苦い笑いが込み上げた。
――目の前でチク、タクと時を刻む時計から放たれる青い光が、一際大きく脈動する。
誰かが僕の傍に寄り添った気がして。
そしてようやく僕は。自分が知るべきことへたどり着いた。
***
これで、この時計はベル君のもとへと戻る。
私が覆そうとした災禍は、変わらずベル君に降りかかるだろう。
では、私が覆そうとした繰り返しに意味はなかったんだろうか。
そうではないと私は知っていた。
彼の首に掛かった時計を、両の手のひらで包み込む。
そうして、祈りを込めた。
――夢の中で死んでしまった彼への後悔を。
――彼が作る陽だまりの尊さとそれに寄り添えない悲しみを。
――取り返して見せると決めた決意を。
――それが私には不可能だと知った絶望を。
込められるものが多すぎて列挙しきれないけれど。
それがどんなものであっても、結局最後にそれらが繋がる祈りは同じだった。
――どうか、生きて。
もう一度君に会いたいから。
***
莫大な感情の波が僕の心を襲う。
恐怖、後悔、怒り、絶望。守りたかった。ごめんね。後は君に運命を託すよ。
そこには、僕のものではない感情も混じっていて。何故か僕は、その誰かの感情を愛おしく感じた。
受け止める。抱きしめる。
感情の奔流を抗うことなく受け入れて、余すことなく飲み干す。
――僕の為に彼女はここまで戦ったのか。
――ありがとう、■■■さん。
微かに思考にノイズが混じる。
嵐のような感情は止むことなく、やがて感情が極限まで飽和した僕の心は、逆に凪いだように静かになる。
――がんばってね、■■君。
――どうか、生きて。
胸に到来した莫大な感情が心の深くにしっかりと収まった感触を得る。
確かにあった感情の名残は、もう、頬を静かに伝う涙だけだった。
動かなかった体が、今確かに動く。持ち上がらなかった腕が持ち上がっていく。
神様の短剣を離れたゴライアスに向けて構える。
僕の心から流れ出した感情が、腕を伝って短剣に流れ込む。
剣身が伸びる。
剣自体も徐々に大きくなっていく。
やがて完成したのは、神様の短剣を核としてできた、天を貫くような巨大な半透明の大剣だった。
どこまでも透き通った水のような剣身。剣身に封じられるように存在する芯の色は、どこまで昏い黒。だが、その表面には、夜空にオーロラが浮かぶように様々な色のグラデーションが現れては消えていく。
歓喜も恐怖も悲哀も憤怒も、憎悪ですらも。
全てを飲み込んでその身に体現し続ける、その大剣の名は――【無垢なる刃】。
「さぁ、ゴライアス――」
大剣を携える僕の存在に気づき、こちらを向いて構えるゴライアスを見据えて。
「――――――――もう、終わりにしよう ! ! !」
僕は、万感の思いを込めて宣言すると、ボロボロの身体で走り出した。
巨大な大剣を引き連れて、オーロラの尾を引きながらゴライアスに向けて疾駆する。
やがて間合いに届き、勢いのままに大剣を振るう。
ゴライアスも両腕を交差させて防御する。
振るわれた大剣は片腕を切り飛ばし、そのままゴライアスのもう片方の腕に少しだけ食い込んで進行を阻まれる。
僕が握るこの大剣は物理的にはかなり軽い。
片腕だけとはいえ切り飛ばせたことの方が驚きだった。勢いもあるとはいえ恐ろしいほどの切れ味だ。
――この大剣ならば、ゴライアスの再生力を超えて、その命に届く。
そう、確信した。
僕の攻撃を受けて、ゴライアスは驚いたように後ずさる。
だが逃げることなく、即座に失った片腕を再生させると、その凶暴性を遺憾なく発揮した。
ゴライアスの叩きつけにより、大量の土砂、地面に埋まっていた石、生えていた木などの様々なものが宙に舞う。
僕の身体にも幾つもの小石が打ち付けられ、顔のすぐ傍を人の頭ほどの大きさの石が猛スピードで吹き飛んでいく。
当たれば死ぬかもしれない。そんな危険の中に僕はいた。
この
後が無い状況で、それでも僕は無理やり不敵な笑みを浮かべる。
託されたんだ。応援されたんだ。
今の僕が背に負っているのは僕の想いだけじゃないんだ。
だから、今は、せめて、――今だけは!
――どうか、この瞬間だけ、英雄でいさせてくれ。
「――ォ」
全身から力を搾り出す。
「――オォォ」
大剣を握る手に力を込める。
■■■さんの白く細い手が、大剣を握る僕の手に、重ねられた気がした。
――そして。
「オオオオオオオオォォォォォォォォォ!!!」
咆哮。
同時、踏み込んだ足から腰へと力が伝い、肩を経て腕に到達する。
全身の力を限界まで振り絞り、その全てを連動させた大剣が振るわれる。
――18階層で、ゴライアスに膝を屈し、疲れ果てて地に伏した冒険者たちは見た。
――振るわれた大剣の芯。その全てを飲み込む漆黒がほどけて、虹色の極光を放つオーラとなり、剣を包むのを。
異なる色を複数混ぜて圧縮すれば漆黒となる。
様々な種類の
ゴライアスの片腕を切り裂いた鋭い切れ味も、その零れ落ちたオーロラが大剣に纏わりついた結果に過ぎず、その真価は発揮されていなかった。
しかしその力が、ベルの意志に呼応して開放される。
――二人分の想いと力、その全てを載せて振るわれた万色の大剣が、ゴライアスの身体を魔石ごと両断した。
***
夜が明けた。
一睡もすることなく、ホームの自室でひたすらに祈り続けた私は、その光を感じて顔を上げた。
――そっか、越えられたんだ。
――……やっぱりベル君、君は強いよ。
そのままの足でホームを出て迷宮に向かう。
そして祈るような気持ちで迷宮の入り口で彼を待った。
――私はその姿を見た瞬間走り出していた。
走り寄ってベル君を抱きしめる。
ベル君と一緒に戻ってきたらしい冒険者たちから驚きの声があがるけれど、少しも気にならなかった。
「あ、アイズさん?」
ベル君が疑問の声を上げる。けれど私はそれに応えられなかった。
「泣いてるんですか……?」
より一層ベル君を強く抱き締めて、その肩に顔を埋める。
どこか困ったような雰囲気をベル君が出して、でも、そのままゆっくりと彼は両手を私の背中に回す。私の体がしっかりと彼の腕の中に収まった。
「……ただいま、アイズさん」
彼の言葉に思わず泣き笑いが出る。
けれど今度は、涙声で何とか彼の言葉に応えた。
「……っ、おかえり、ベル君」
――おかえり、ベル君。
***
「あれだけの無茶をしたんだからこうなるのも当たり前なのかもね」
神様が一枚の紙をひらひらとさせながら、乾いた笑い声でそう言う。その紙にはいつか見たような乱雑な文字でランクアップ可能!と書かれていた。
そんな神様は一度深い深いため息をついたあと、こちらを見てキッと眉を怒らせた。
「それはまぁ良くないけどいいとして。……なんで僕らのファミリアのホームにいるんだい、金髪!」
そんな神様の声に、朝から僕らのホームを訪れていたアイズさんが、不思議そうな顔をして首を傾げる。
「?ベル君に稽古をつけるために来ました」
「あぁ、結局続けるんですね、あれ」
一度アイズさんが遠征に行ったことで途切れた稽古だったが、まだ続けてくれるらしい。この間のゴライアスとの戦いで力不足を痛感したので、続けてくれるのは非常に助かる。
「うん。もっともっと強くならないと。ベル君も、そして私も」
そう言って謎の意気込みを見せるアイズさん。僕はともかく、アイズさんはレベル6で物凄く強いはずなのに、まだ強くなりたいらしい。何か僕と同じように力不足を感じることがあったんだろうか。
なんだろう、と思って思考を続けていると、不意にアイズさんがこちらを見て微笑んだ。
「それと、ベル君。ランクアップおめでとう。また強くなったね」
「……ありがとうございます」
真っ直ぐに褒めてくるアイズさんに、僕ははにかんだように微笑みを返した。
……そういえば前にランクアップしたときは、理由を聞きたそうだったけど、今はあまりそういう雰囲気を感じない。
何かしら、心境の変化があったのだろうか。
そんなことを考えていると。
「ベル様、アイズ様。せっかくですし、お茶でも飲みながらお話しましょう」
そう言ってリリがお茶を持ってきてくれた。
彼女は僕、アイズさん、神様へとお茶を配ると、自分自身もお茶を持って僕の傍にちょこんと腰掛ける。
「なんですか、ベル様?」
視線が合うと無邪気そうに首を傾げるリリに、どうしてだろうか、奇妙な安心を覚えた。
……ここ数日、何気ない日常の出来事や誰かに仕草に、妙な安心感や懐かしさを感じることがある。
まるで何か大変なことが起きて、そのあといつもの日々が戻ってきたような。
あるいは、大事な何かを成し遂げたあとのような。
そんな不思議な感慨深さを感じながら、僕は微笑んだ。
――いつの間にか手元のお茶はなくなっていた。
ゆったりと伸びをすると、そのまま立ち上がる。
「アイズさん、そろそろ訓練に行きますか」
その言葉を聞いて、アイズさんも立ち上がる。
立ち上がった彼女の瞳は、楽しみで仕方がないというように輝いていた。
「……うん!行こう!」
立ち上がって歩き始める僕らに、なぜかリリと神様も追随した。
――ちょっと金髪!ベル君に怪我させたらただじゃおかないぞ!
――もう、神様。子供じゃないんですから。
――ベル君、今日はいつもの訓練が終わったら迷宮に行こう。モンスターとの戦い方も見てあげる。
――いいですね、是非お願いします。
――えー!ベル様とリリの蜜月が!
――ヴェルフを忘れないであげてね、リリ……。
稽古を見学しに僕らの後に続くリリとヘスティア様。
なんだか賑やかになったなぁ。僕へと話しかけてくるアイズさんとリリに相槌を打ちながら、ふとそう思った。
「……そう言えば前は稽古を毎日してたと言ってたような。もしかしてあの金髪これから毎日来るのかい。嘘だろ……」
そんなしみじみと思う僕の耳に、最後尾に続く神様の独り言が残った。