タクシー業界大手のエムケイ創業者・青木定雄(あおき・さだお)氏が6月8日、死去した。

 10台の車で始めたタクシー会社を一大グループに育てた。1985年には運賃値下げで陸運局と裁判で争い全面勝訴の判決を得る。主張を曲げない執念、それを裏打ちするのは祖国韓国への想いだった。「日本人に尊敬される商売をすれば韓国人も尊敬されるはずだ」。独特の禁欲、合理精神は旅館業を営んでいた母親にはぐくまれた。1998年9月28日「日経ビジネス」より記事を再録する。

※記事に登場する固有名詞や事実、データは、1998年8月28日号時点のものです。

<b>青木 定雄(あおき・さだお)</b>氏<br /> 1928年韓国・慶尚南道生まれ、70歳。43年来日。立命館大学法学部中退。56年ガソリンスタンド経営を開始。60年ミナミタクシーを設立。63年桂タクシーを買収(77年に両社合併でエムケイ設立)。85年、運賃値下げ裁判で勝訴。91年、天皇皇后両陛下随伴の国務大臣送迎車に選ばれる。93年運賃の10%値下げを実現。98年東京に進出。(写真:清水盟貴)
青木 定雄(あおき・さだお)
1928年韓国・慶尚南道生まれ、70歳。43年来日。立命館大学法学部中退。56年ガソリンスタンド経営を開始。60年ミナミタクシーを設立。63年桂タクシーを買収(77年に両社合併でエムケイ設立)。85年、運賃値下げ裁判で勝訴。91年、天皇皇后両陛下随伴の国務大臣送迎車に選ばれる。93年運賃の10%値下げを実現。98年東京に進出。(写真:清水盟貴)

 1998年8月下旬、京都市内の宝ヶ池プリンスホテルで、関西経営管理協会(大阪市)と日本経営開発協会(東京・中央区)が主催する1泊2日のユニークな経営セミナーが開かれた。名称は「MKグループに学ぶ現地特別研修」。エムケイ(MK)グループの経営陣を講師に招いて、MKタクシーの強さの秘密を語ってもらおうという趣向である。

 受講者は二十数人。自腹を切って参加したタクシー会社の経営者や、上司から受講を命じられたアコム東京支社の社員など肩書はさまざまだが、目当ては共通している。MKグループのオーナー、青木定雄の講演である。

 午後2時、青木の痩身が定刻に現れると、受講者たちのざわめきがやみ講演会場が静まり返った。青木は彼らの意表を突く一言で講演の口火を切る。

 「皆さんはMKの成長の秘密を知りたいと思っているのでしょうが、私はごく当たり前のことしかしていませんよ。ただし、どんなことでも始めたら途中でやめないんです。例えば、私はタクシーの無線を使って毎朝、朝礼をしています。午前7時に無線室に入り、運転手とお客さんに向かって話しかけるんです。これを40年間、1日たりとも休まずに続けています。ですから我が家では元日の朝、家族で食卓を囲んだことなど1度もないんですよ」

運賃値下げで陸運局と裁判し勝訴

 青木はいま最も注目されている経営者の1人だろう。1960年、10台の自動車と24人の運転手で始めたタクシー会社を、約40年かけて売上高116億100万円(98年3月期)、車両保有台数約560台の企業に育て上げ、今年3月には東京進出を果たした。現在、都内で稼働しているタクシーは84台だが、遅くても5年後には5000台に増やすという。

 その間、料金設定などの規制に守られてきたタクシー業界の常識と秩序を揺るがす試みを、次々に実現してきた。76年、運転手が「ありがとうございます」「お忘れ物はありませんか」など、4つの挨拶あいさつをきちんと言わなかったら料金を受け取らないというサービスを打ち出し、「青木の売名行為だ」といった論議を巻き起こした。81年にはタクシー運賃の値上げ反対運動を起こし、翌年、運輸省陸運局に対して運賃の値下げを申請。却下されると陸運局を相手取って大阪地裁で争い、85年に全面勝訴の判決を得た。89年には運輸省と和解し、93年に10%の運賃値下げを実施している。

 いわば、青木は規制緩和の時代を先取りしてきた経営者なのである。

 しかし、青木の講演を聞いた受講者たちは、はたして彼のやり方に倣おうと考えただろうか。ほとんどの人が自信なげに頭(かぶり)を振るに違いない。

 青木の主張自体は明快だ。客の立場になってサービスを提供し、運賃を設定すれば、タクシー業界は上向くというものだ。運賃の値下げにしても、それによって実車率(タクシーの走行距離のうち客を乗せて走った割合)が上がれば、「運賃収入が減ることはなく、むしろ増える」という。だが、その主張をどうやって実現したかとなると、“強引に”とか“粘り強く”といった月並みな表現で言い尽くせるものではない。

 青木の主張は、同業者や運輸省との間に幾度となく深刻な軋轢を生んだ。

 運賃値上げ反対運動を起こした81年のことだ。運輸省は当時、「同一地域、同一賃金」を掲げていたため、MKが値上げに賛成しなければ京都のタクシー会社は値上げに踏み切れない。逆恨みした同業他社は、MKに対してあの手この手で嫌がらせをした。MKの車が京都駅のタクシー乗り場に入ろうとすると、強引に割り込んでそれを妨害する。青木が在日韓国人であることから、他社の経営者たちは夜の京都・祇園のクラブで「朝鮮のタクシーに乗ったらあきまへんで」と触れ回ったりもした。

一度言ったことは絶対に貫き通す

 青木のやり方に反発したのは同業者だけではなかった。78年、乗客への挨拶を徹底させるため、運転手を京都市内の繁華街に連れ出し、「ありがとうございます」という例の4つの挨拶を大声で唱和する訓練を始めたが、それを嫌がった運転手が次々に辞めてしまった。乗り手がいなくなり、車庫に置き去りにされた半数近い車には、うっすらと埃が積もっていたという。

 それでも、青木は自分のやり方を曲げなかった。運転手の夫人たちを組織して、運賃値下げを訴えるビラをまかせたりしたのだ。「オーナーは1度言い出したこと、やり始めたことを絶対に途中で変えなかった」と、青木とはほぼ40年の付き合いになるというMKグループ会長の前川靖國は言う。

 四面楚歌になっても主張を曲げなかった執念――それは一体何に裏打ちされているのだろうか。

 MK専務の結城博は、青木のすごさは「相手が首を縦に振るまで主張し続けることだ」と言う。結城が新入社員だったときのことだ。休みなしで働いてきたベテラン社員を休ませるため、青木の発案で、5月の連休は新入社員だけが営業所に出社して、事故処理などをすることになった。

 青木は数人の新入社員を横一列に並ばせて、「できるな?」と一人ひとりに聞いていった。誰もがはじかれたように「できます!」と答える。結城の番がきた。MK石油での研修を終え、MKタクシーに配属されたばかりの結城は青木とは初対面で、彼の性格をよく知らなかった。そこで「できます」と答えたら嘘になると思い、「頑張ります」と当たりさわりのない返答をした。

 青木の顔が険しくなった。「給料をもらってんのやから、頑張るのは当たり前や。できるか?」。

 それでも結城は首を縦に振らなかった。事故の処理などできるわけがない。ほかの新入社員たちがかたずをのんで成り行きを見守っているなかで、青木は結城がこくりとうなずくまで「できるな?」と責め続けたという。

 しかし、青木の執念は「言い出したらきかない」(夫人の青木文子)という性格だけが理由ではあるまい。

 青木は言う。「高い運賃や横柄な運転手の態度などのお客にとっての不合理を改善しないと、タクシー業界はお客にそっぽを向かれると確信していました。長い目でみれば、お客は合理的に行動するからです。私は、不合理な悪弊ゆえに、ビジネスの機会を失するのに耐えられなかったのです」。

 常識外れの行動が目立つ青木だが、実は徹底した合理主義者であり、運賃の値下げは、いわば青木流の合理主義を体現する手段として、何が何でも実現しなければならなかったのである。

 実際、彼の試みは、どれも合理的な計算に裏打ちされている。例えば、運転手の賃金体系。MKでは、運転手にコスト意識を徹底させるため、車の減価償却費や森英恵がデザインした制服代などの経費を運転手の負担としている。運賃収入から経費を差し引いて残った利益の83%を運転手が、17%を会社が受け取るのだ。一方、ほかのタクシー会社では通常、運賃収入の一定の割合を会社に差し引かれ、残りを運転手が受け取る。

 運賃収入の多寡にかかわらず、一定額の経費を徴収するMKのやり方に対しては、会社側に一方的に都合がいい仕組みだと批判する同業他社もいる。MKで2年間運転手をして、いまは京都市内の別のタクシー会社で働くある運転手は言う。「たしかにMKでは頑張ればそれに見合う収入を得られますが、私にはきつすぎました」。

 しかし、一定額を会社に支払えば、残りの83%が運転手の収入となるMKの賃金体系は、やる気のある運転手にとっては他社以上の収入を得られる仕組みでもある。いわば「やれば報われる」合理的な仕掛けで運転手を頑張らせ、運賃の値下げ分を上回る売上高を上げようと考えたのだ。

 青木は質素な暮らしぶりでも知られる。3人の息子が高価な自家用車を持つのを許さず、MKタクシーの“お下がり”を使わせていたこともあった。質素、勤勉を愛する青木らしい挿話だが、背後には合理的な計算もある。「京都の人たちは閉鎖的ですが、質素、勤勉を貴ぶ風土があります。私がそれを実践しておれば、彼らはMKを受け入れてくれるのです」。

 この言葉通り、挨拶の徹底や運賃値下げ運動などの試みは、次第に京都の人々に受け入れられていく。青木のもとには、市民からの励ましの便りが数多く届けられるようになったという。

 それにつれて、青木の心境には、ある変化がみられるようになった。「素晴らしい商売をすれば、お客である日本人に喜ばれ尊敬される。そうなれば、私の同胞である韓国人も日本人から尊敬される」と思うようになったのだ。43年、15歳で韓国から日本に渡ってきた青木にとって、タクシー事業は韓国人としてのプライドを賭けた戦いとなっていったのである。

母親から経営者の本質を学ぶ

 青木は28年、朝鮮半島の南に位置する慶尚南道の南海道に6人兄弟の3男として生まれた。生家は雑貨店だったが、青木が幼いころに倒産し、以後は母親が小さな旅館を建て、6人を養った。

 青木によれば、経営者としての大事なことはこの母親から学んだという。例えば、客の都合で宿泊が取りやめになり食事が余っても、母親はほんの1口も食べさせてくれなかった。次に来る客のために保存したのだ。青木がご馳走にありつけたのは、腐る直前だったという。「子供のころは不満でしたが、長ずるにつれて、お袋の考えがよく分かるようになりました。それは一銭でもカネを稼げる可能性があるのなら、ひとかけらも無駄にしないという徹底した倹約、合理精神です」。

 その母親の勧めで日本に渡り、立命館大学に留学した青木は、京都市内の下宿に寄宿した。学生の面倒を見ていたのはドイツ国籍を持つその家の夫人で、彼女も青木に大きな影響を与えたという。彼女は、どんなに寒い冬の夜でも、湯たんぽ1つを家族で使い回すという具合に、いっさいの無駄、贅沢を許さない人だった。2階に寝泊まりしていた青木が夜、1階の明かりをつけたまま布団に入ると、彼女は青木がたとえ熟睡していようが叩き起こして明かりを消させた。「寝込みを襲われるのだからたまりません。これを3、4度と繰り返されると、どんな人間だって寝る前に明かりを消したかどうか確認するようになります」。この下宿での体験が街頭訓練などの徹底した社員教育につながっているのである。

 51年、授業料を払えなくなった青木は大学を中退し、ひょんなことでガソリンスタンドの経営を引き継ぎ、60年、知人に勧められてタクシー会社の経営にも乗り出すことになる。そして、そこから40年にわたる運輸省や同業他社との戦いが始まるのである。

 「生まれ変わったら、また同じことをするかですって? もう2度とごめんですわ。40年間、それこそ1日も休まず働きづめで、苦労の連続でしたからな。しんどい人生を選んでしまったなと、ほんの少し後悔しておるのです」

=文中敬称略(日経ビジネス1998年9月28日号より転載)

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