広島商が甲子園に出場、と聞けば故畠山圭司さん(2006年逝去)を思い出す方も多いのではなかろうか。戦後、広商野球に長らく携わった功労者である。
広島商で二塁手としてセンバツに出場。大学卒業後は神奈川の武相で5年間高校野球の指導に携わり、その後広島商で33年間にわたり監督、野球部長、校長を歴任。県高野連理事長・会長やセンバツ選考委員も務めた。野球部長時代には1973年夏の甲子園と82年の国体で優勝。88年夏の甲子園優勝時は校長であった。
畠山氏が関わった広商野球は、2ランスクイズや2ストライクと追い込まれてからのスクイズ、一、三塁でのダブルスチール。足を絡めた野球をさらに進化させた。「何か仕掛けてくる」と相手を浮足立たせ、打たずして得点する場面も印象に残る。
次々と相手のスキを突く戦術を編み出し、僅差で勝ち切る。次戦のために最低限の戦術しか出さず、後は温存する。理論にかなった攻撃だが、最も感心させられたのは、特別な選手でなくてもできる全員野球が根底にあることだ。
定年を迎えた畠山氏は、広島会計学院(現在の広島会計学院ビジネス専門学校)の校長に就任する。1年後、野球部を作ろうと提案。当時、全国に300校ほどあった専門学校野球の大会「全国専門学校軟式野球選手権大会」の中国地区大会を勝ち上がり、関東で行われる全国大会で4度優勝した。監督は広島商で甲子園に出場し、母校でも監督をした田代秀康氏。舞台を変え、広商野球を実践した。
私は受験生と野球部員の募集活動をする氏に同行して中四国・九州を毎年回ったが、行く先々の高校で広商野球の戦法を披露していた。「毎年新しい戦術を考えればよい。まねされるのも高校野球発展のため」。畠山氏の考え方である。
ある時は、連敗相手との試合を見てアドバイスがほしいとこわれて観戦。速球が早く、スライダーもシュートも切れの良い相手投手の攻略に畠山氏は「決め球のスライダーを狙え」と指摘。2打席目からスライダーを打つためにベース寄りに立った打線は、見事に決め球を連打した。
野球部長の役割については「高校野球責任教師の手引き」を作り中国地区に配布したが、全国からの要望で増版された。広商野球継承のため、教員になることを積極的に勧め、現在県内で高校野球に携わる教員は2桁に上る。広島商の荒谷忠勝監督もその一人。「広商野球の伝統を守りながらも、時代に合わせて変える」。以前の金属バット時代には「投手中心の守りが未完成なので」と機動力と打力で勝ち進んだ。
新基準の低反発バットになって、再度投手を中心とした守りの野球に小技を絡めたスタイルに戻りつつある。畠山氏が進化させた戦後の広商野球は、今でも脈々と引き継がれている。