レーテーの深界に堕つ

『深い愛はひとつの生を変える。表層的な事情の多くを変える。深遠と表層との関係は、高挙と低俗との関係にひとしい。低俗と表層とはおなじ次元にある。粗暴だが低俗な愛――ありえる修辞。深遠だが低俗な愛――ありえない修辞。』
シモーヌ・ヴェイユ

***

薄暗い部屋の中は湿気に覆われ、遮光カーテンが外の光を遮っている。埃と黴のにおいが少しばかり鼻について、それから、互いの肌のにおいがすることが理解できた。
これはある青年らが堕天すら出来ぬ話。道ならぬ思いを抱えたまま飢えていく話。
一切の幻想が介在しない六畳一間は彼らの箱庭であってすべてだ、そこには恐怖によって破裂した血肉が無い代わりに肉を打つような音が聞こえてくる。時折聞こえる嬌声は低くも随分と色めいたもので、体を拓かれることにとうに慣れきった声色をしているのだった。まるで情婦が如き痴態は誰のものであれど視界という視界を煽るには十分に過ぎた。
彼はその身の奥深くを切なく締め上げながら下で啼いた。
傷痕にまみれた白い腕はしっかりと相手の青年の首に巻き付いており、快楽に蕩けた思考の中でなおもその頭を引き寄せているようにも思えた。淫蕩に溺れる者特有の色を宿す目の下に刻まれた隈のような痣が酷く艶めかしい。それは彼が相手から齎される悦楽だけを求めている証左でもあって、汗の伝う首筋からは深い堕落の匂いが立ち昇っていた。
彼の内部の傾きによって悲惨に焼き尽くされた感覚が深く残る。心に轍のように抉られた痕跡を残すその痛みさえ愛おしく、彼の心は目の前の体に縋り付くことしか出来ない。体の奥で感じた果ての無い愉悦は最早絶頂と呼んで良いものかも分からぬままに意識を彼方へと飛ばして行く。
痣まみれの腹と腕は痙攣し続け、それに連動して内部は強く締まる。相手の青年はその刺激に耐え兼ねて達すると、余韻に浸るように緩慢な動きで腰を揺さぶった。既に吐き出されたものが結合部で音を立てると、それがまた興奮剤になって彼の体の感覚を鋭敏にさせた。
二人分の呼吸音以外に何も聞こえぬ部屋の中には重く甘い沈黙が流れる。沈黙の継続。それを破ったのは彼の方だった。
「っあ、あぁ……もっと――」
掠れ切った声でそう呟いてみせる。そして、相手はそれに応えるようにして再度彼に口付けると、今度は緩やかに律動を始めた。繋がったまま行われる緩やかな抽挿に再び思考を乱されながら、彼はただ与えられる快感を享受する。今の己は細やかにカッティングされた宝石のようだ――きらびやかなだけのもの――と自嘲しながら、それでもなお求めることをやめられない。きっといつかこの爛れた関係も終わりを迎えるのだろう。そう考えながらも彼は口付けを求める。
彼の中の罪が彼の自我を叫ぶうちに彼の中は更なる泥黎へと堕ちて行く。
泥黎。あるいは地獄。そうかこれは地獄かと彼は気付く、しかしその傷にまみれた腕では誰も救えない。救われる気もない。愛し合うというよりも自傷行為に近い睦言と行為は自閉した空疎を探す。彼の中の罪が彼の自我を未だに叫ぶ。
彼はどうだろうか? 相手の顔色を伺いながらその傷に服越しに触れれば同じように傷がある、傷が、傷が――ある。均衡(あるいはそれは欣幸の作用でもあった)を求めて付けさせた傷がある。ならば彼もまた誰も救えないことだろう。その潔白を語りたがる体とは裏腹に傷のある彼には。それでいい、共に泥黎にただ潰れ、沈み――それでいい、深海の底で忘れ去られてしまいたい。互いが互いの唯一の理解者であるように世界から隔絶されてしまえばいい。それを運命だと宣えるなら悪魔にも魂を売るだろう。
何たる傲慢。
しかし、それでもなお、二人はその唇でお互いを求め合うことしか出来なかった。何故ならその熱こそが二人に赦されたものなのだから、(そして)他に何を望んでよいのかさえも分からない程に二人は無力だった。施すこともかなわぬほどに脆い。だから彼らは互いに傷を嬲りあうことでしか体温を感じる手段を見出せなかった。
悲惨な重力。互いの重力によって齎される悲惨はなかんずく甘美である。故、彼らにはもう引き返すことも立ち止まることも出来ない。泥沼の中、手に手を取り合って踊るように二人で堕ちていくしかない。そうだ泥沼に堕ちるのだと思えば良い、彼はふうふうと唇の片側で息をしながらそう思う。笑い慣れていない口角が上がっている自覚があった――ああ彼もまた薄汚い人間なのだと思う己がいたから。
均衡あるいは欣幸を求める作用。剃刀で傷を付けることは出来ても癒すことは適わない。だからこそそこに安寧を見出して、傷口を重ねてなお、生きているだけの存在で。哀れなまま堕天すること叶わず。彼――ネツァクは歪んだ微笑を見せていた。
「……何がおかしいんです」
そう詰問されれば、
「ああ……イェソド。俺たちって薄汚いって思ってるだけですよ。互いに」
相手――イェソドといった――に答えを返す。ただそれだけ。害のあると言わんばかりの微笑のまま紡がれるその答えの意味を掴みかねるのか、彼は少し怪訝そうに小首を傾げた後にそのまま黙り込んだ。当然だろうと独りごちつつ、ネツァクはゆっくりと伸びてきた彼の手を掴んで己の首へと持っていく。相変わらずぬるい体温、皮膚の下を流れる血液の温度を感じつつそっと目を伏せた。そうして相手の背中に手を回すと同時に腰へ脚を絡みつけてみせる。瞬間的にびくりと震える感覚に気を良くしつつ、吐息交じりの声を意識しつつ発した。
「そんなことより――まだ足りないんじゃないですか? あなただって……」
こうして誘うことには慣れていた――誘い込むこともまた慣れていて。
心の底に溜まる澱を感じながらも、今は忘れてしまえとばかりに緩く腰を揺らせばイェソドの顔が少しずつ赤く染まっていくのが分かる。普段表情を動かさぬ彼のそのような様子を見られるだけで多少の溜飲が下がるというものだ。いつも冷徹な顔が羞恥や欲に染まる瞬間というのは得難いものがある。そう思いながらさらに煽るようなことを口にした。
「――ねえ」
言葉を皮切りに彼の唇が重ねられる。それと同時に下腹への違和感が増すのを感じた。先程までの軽い愛撫とは違い、本格的に内部を責め立て始めたものに体を震わせながらも受け入れる姿勢を取った。激しい突き上げによる痛みが快楽に変わるまでには数秒も必要ではない。すっかり覚え込まされてしまった体の変化に内心呆れつつもそれを口にはしなかった。わざわざ伝える必要はないと思ったのだ。代わりに、回した腕に力が入る。その拍子に爪を立てた。
彼の中の罪が自我を未だに叫ぶ。
怠惰に傾いた失楽園は今や空虚だ。天使は皆飛び去った調子に狩られてしまい、その羽や翼のみを路上売店のクーラーボックス、その中の氷に冷やされながら残すこととなっていた。彼らにはそれすらもない。人工の堕天使にもなれぬ彼らの居場所はあの世であるはずなのに、未だこの世に留まり続けている。
彼らは救いを求めているわけではない。望めるべくもない。そんな権利はないと思っているからだ。だが寧ろ逆のことをしているのではないか――そうも思うのだ。
だから結局今日も同じ結論に至る。ああ自分たちは何も悪くないのだと。それはとても卑怯なことだと気付いていながら、この心地の良い泥沼から逃れられなくなるのだ。本当に何も悪くはないとするならば、決して出会わなかったのだから。
例えばもしも、などと思ったことはない。そもそも、出会うこととはそういうことではないのだと思う。出会ったからこそ終わるのである。そういう類のものであったはずだ。
この泥濘が永遠であることを望んだらどうなるのか? もし永遠を手に入れたとしたらその先はどうなるのだろうか。その時が来るとすればどんな顔をしていればいいのだろうか。答えは出ない。出ないままに今日も身体を繋げあうだけだ。
壊れることができればいい。壊れてしまっても良い。壊れた先に何があるのかも知らないままでいい。知る術などない。知らなくていいことを知ろうとは思わない。
このまま溺れていったところでどこにも辿りつけずとも良い。これ以上傷つくことなど何もないのだから。そもそもここに楽園などはない。ここは天国などという場所でもない。二人のいるところは単なる暗い部屋でしかないのだ。だからそこはまさしく地獄であった――無間地獄。
いつになったら解放されるのかなど知ったことではない。それこそ死ぬまでかもしれないと思いながら互いに慰め合うことしかできない。こうしていることそのものが幸福だなんて言ったら笑われるやもしれない。しかしそれでも構わないと思う程度にはこの関係は脆かった。張りの弱い糸同士が縺れ合っているだけなのだと。
救いとは即ち死と同義なのだと思う。ネツァクは少なくともそれを望んでいる。ずっと望んでいたことだとも思っている。死を望む理由の一つはこれではなかったか。死に至るために生きるという矛盾がここにある。死に損なっただけの者が今更生を求める意味などどこにあるというのか。無いはずのものを追い求めても仕方のないことであるのに、もう既に狂ってしまっているというのに。それでも何かを得ようと足掻いてしまっている。イェソドはそんなネツァクの生き様が、愚かしく滑稽なそれであることを痛いほど理解していることだろう。ただ彼を嘲笑ったりはしない。そんなことは無意味でしかないからだ。
現に今もこうやって唇を重ね合い、互いに互いの全てを欲し合っているではないか。これが一体何にあたるのかもわからずにいるというのに。名前をつける必要も無い感情だけが確かにあって、それ以上のものは必要ないと思っている。事実、必要なものと言えばそれだけだと言ってしまって差し支えないだろう。これ以外のすべてを削ぎ落としていった先に残るものを知りたかった。それさえわかればそれでいい。
彼らはただただお互いを強く求めている。それだけが全てだと知っているからである。それだけで全てが足りていて十分すぎる。しかし空虚だった。

彼はすべてを赦してくれるから。

己の中の罪が己を叫ぶ。
一般論における愛には如何しても踏み込めない嘔吐感と気味の悪さがあった。故にこの関係性は歪曲したものだとばかり自覚していた。しかし、仮にこれが正しい愛だとするならどうして人はこんなにも苦しんでいたのか。疑問でしかない。何故苦しみ続けるのか。
ネツァクのライムグリーンの髪を梳きながら唇を重ね、音を立てる結合部の繋がりをさらに深めながらイェソドは考える。なかんずく苦しい嘔吐感の観念に何故人は耐えられなかったのか、とも。
何故苦しめられねばならないのか。
彼は全てを赦してくれている。今ここにいることを肯定してくれている。その事実だけに縋ればそれで十分なはずではないのか? それともそれも許されないことなのか。いずれにせよ己はとうに後戻りできないところまで来てしまっているのだとも思う。今更逃げようなどとは考えもしないほどに。
何度も角度を変えて口内を弄れば思考が薄れつつあった。思考が一本の回路であるとすればその輪郭が滲むように。(……じわりと音を立てて……) 仮令、彼の熱が逃げたとてその輪郭を掴んでしまえば途端に欠乏は満たされるだろう。しかしそれではいけないのだとも思った。形而上学的な不安。己が真に人のことを理解できるはずがないのだということは最初から知っていた。それを受け入れなければこのような不毛極まる行いに身を投じることも無かったであろう。或いはその理屈に従って逃げ出したほうが良かったのかもしれないとは思うこともある。そうすれば一般論においては幾ばくかは幸せになれたかもしれない。
だが同時に逃げ出さなかったことがこの結果を招いたのではないかという疑念もある。結局のところ選択の余地など与えられていなかったということだ。どちらにしても地獄しか待ち受けていないのならば同じことなのである。しかし、だからと言って諦観に浸っていられるほどの余裕など存在していない。肉欲同士で接続された箇所は今なおきつく締め付けていて、それを離すまいとしている。
「イェソド、早く……」
肩で息をしながら返答する彼の姿は、髪が長いこともあってか幾ばくかは色情めいたものを匂わせるものがあった。白い肌がうっすらと紅潮しているのが見て取れる。それに思わず口元が緩むのを感じると共に、身体の中に燻る熱が質量を増すのを感じて。
ゆっくりと息を吐き出すと同時に脱力すれば自然と腰が動く。それを合図として、彼もまたそれに合わせて動き始めるようだった。
精神的な意味で前後不覚に陥りそうになる感覚。それを拒む理由が果たしてあったかどうかは別として、そこから逃げるための道は既に塞いでいた。己から。そして向こうからも閉ざされていたように思う。
脳髄まで融解するような快楽を求めて彼は喘ぐ。最早声を抑えることもせずに、ただひたすらにその行為に没頭するように。(息継ぎをするごとに部屋中に響き渡る湿った音が耳にこびりつく)
行き着く先は決まって地獄以外有り得ない。それなのに止める気になれない。背徳という名の麻薬。これ以上、ほかに如何すべきなのか。


最初もそう考えていた。
これ以上、ほかに如何すべきなのか。
澱んだ都会の澱んだ界隈。排気ガスとアルコール、人のにおいが常に絶えない場所。電車の走行音が向こうから響き、己の疼きと幻覚とをより悪化させるようだった。しかしイェソドにはここ以外の居場所がなかった。親からそうあれかしと決められた線路から逸れた先は、煌びやかで空虚な虚構に満ちた場所でしかなかった。そんな世界は砕け散ってしまう方が良かったが、いや、それよりもいっそ、本当の自分などはとうの昔に失われてしまったのではないかとすらも思ったものだ。
潔白を求めすぎるあまりに自ら低きへと身を挺する。爛れた肌の幻覚は止まず、足先からの激痛を誤魔化しきれなくなっていた頃合いであったろうか。とにかく当時のイェソドにとって最も苦痛であったのはその悪趣味な幻覚の方であったのは間違いない。
自分が他の存在に比べて汚れ過ぎているせいだと思った。汚らしいと思い込むことにした。自分の心が生み出した想像に過ぎないものだと言い聞かせることにする他なかったのである。そうすることで自分自身を殺してしまわねばならなかった。そうでなければ自己を殺す前に誰かに殺されていたかもしれなかった。
しかしそれはもはや時間の問題であったというだけの話であり、そこで初めて誰かから見た姿を正しく認識したのだとも言えるだろう。他人からは異常者と思われていることを知った時、己はもはや手遅れなのだと悟ったのだ。
それから先の人生においてあらゆる場面で孤立を強いられることになったのは当然と言えるであろう。自らのアイデンティティを担保することすら許されなくなった以上、為す術などあるはずもなかった。否、なかったはずなのである。
「見ない顔ですね……どこから来たんですか」
ネツァクと出会ったのはそんなタイミングで、彼はその時も酒の缶を手にしていた。腕には縫われた傷跡が何ヶ所もあり、己と同じように身寄りもなく行くあてがないのだろう、そんなことを悟りはしたものの、手を差し伸べることも同情することもしなかった。所詮は他人の人生など興味の対象になるはずもないのだから。
「……これでも、最初は親の言うことを聞いていた方だと言えば?」
「面白い。あなた、変わってますよ……」
そうして手にした酒を一気に飲み干す様はさながら自棄めいていたが、それがかえって印象に残った。
「ここでは俺たちはもう若い方じゃないんですよ。特に、あなたのような優秀な大学生にもなれば嫉妬されるでしょうね」
自嘲気味に笑うその表情はどこか寂しげだったが、それ以上に底知れぬ闇を抱えているようであった。恐らく彼は他人には言えないような悩みや問題を抱えているのだろうということは想像できたものの、それ以上踏み込む義理はなかった。彼がどのような生き方をしていようと関係のないことであったし、何より興味がない。しかし、その割には彼の話を聴いていたいと思うのは事実だった。
「あなた、最初は親の言うことを聞いてたなんて皮肉を言われますよ……ここじゃ大人の言うことを聞かないのは当たり前、どれだけ身を切り売りできるかで勝負が決まるんですから」
そう言ってコンビニの袋を漁り、新たな酒を飲む彼の喉仏の動きをじっと見る。そうしてから問う。
「……貴方、名前は?」
「ネツァク。どこで会ってもそう呼んでくれたらいいですよ」
それが二人の始まりであった。

それからは決まったランドマークの前で幾度も会った。何故か、端金と言って雨風を凌ぐ金を貰うこともあった。互いの猥雑な日々について話すことが多かったが、それを共有することで僅かでも寂しさが紛れることは素直にありがたかった。
イェソドが己の過去の話を彼に聞かせたときには、相槌を打ちつつも否定することなくただ聞いてくれていた。
「別に以前のあなたが恵まれてるとかどうとか言うつもりはありませんよ。少なくとも俺はそれで価値判断をするつもりはありませんし……」
彼の言葉の端々に感じられる他者への関心の欠如は何故か心地が良く、共に過ごす時間が長くなるにつれ好意を抱くようになっていった。だが彼は決して自分を好きにはならないだろうということもよく理解していた。
「…私にとってはそれだけで助かります。理解しようとして下さるだけでもありがたいものです」
その言葉を受けた時の彼の表情を見ていれば一目瞭然ではあったが――ある時いつものように待ち合わせをし公園に向かっている途中のこと。急に立ち止まったかと思うとこちらに振り向いてじっと目を見つめてくるものだから何事かと思ったものの、何も言葉は出てこなかったため無言で見つめ返すことになった。しばらく経って彼は静かに口を開く。
その瞳の奥に宿るのはいつもの孤独と虚無でしかなく、やはり何を考えているかさっぱり読めない。そもそもこの男は何を望んでいるのか、その根幹にある部分については何一つわからないままだった。しかしその思考を読み取ろうとすること自体間違っているのかも知れないと思うと、問い質すこと自体がナンセンスのように思えてくるのだった。
「あなたは俺の友達ですよね? そう受け取っていいんですかね」
突然投げかけられた言葉に虚を突かれたような思いでいると、彼は続けて語り始める。
「今まで誰にも言えなかったんですよ、こんなことを言うのもなんですがね」
「……」
「俺、あなたのこと気に入ってるんです。理由は上手く説明できませんけどね……」
その言葉を受けて思わず黙り込んでしまう。まさかそんな言葉が出てくるとは思わなかった。この男に対して好意を抱いていることは確かだったが、こんな形で告白されるなど夢にも思わなかった。
しかしこれは好機かもしれないとも思う。たとえ受け入れられなかろうと、今の自分にとってはこの言葉が最大の愛の告白でもあったのだ。拒絶されればそれまでだと考えていた。そうなれば二度と会えないことは分かり切っていたことだし、これが最後の機会だとしたらせめて伝えておきたかった。たとえ結果がどうなろうとも後悔だけは残したくない。そう思ったが最後、気がつけば口に出していた。
「私も貴方の事が好きです」
そう告げた瞬間には、珍しく驚きの表情が浮かんでいた。
「……やられたな。あなたの方が一枚上手だ」
その間にも世界が砕け散ってしまえば良いと思う感覚はそのままだった。そもそも己の活路を決めた両親はイェソドのことを最初から見ていなかった。学友すら作らずここまで勉学に励み、一流の大学にまでも入学したがその心は空虚だった。世界など砕け散ってしまえばいい、己と同じく醜い者、己の嫌いな者が崖から落ちてしまえばいい、死んでしまえと念じ続けていただけだった。
両親が己を育てたこと、それを加味してなお憎悪が上回るのもまた確かだ。だからこそこうして生きていることに意義を見出せなかった。ふとしたきっかけ――大学を一度休んだこと――で転がり落ちた、淀んだ市井の片隅は彼にとって唯一の居場所だった。いつか死ぬことばかり考えているうち、いつのまにか二十歳になっていた。
「ねえ、その好きって恋愛上の好きなんでしょう……分かっていますよ、そのくらい。馬鹿じゃありませんからね、互いに」
彼は相変わらず何を考えているのか分からないような顔で微笑んでいたが、そこに僅かな陰りが見えたような気がした。
「……俺が誰に対してもこんな感じなら話は早いですけど。そうじゃないですよ、当然」
そう答えた直後、彼の表情が僅かに綻ぶのが見えた。笑い慣れていない人間の笑い方をしていた。
己と同じだった。
そこからは行きずりの如くに行為をした記憶がある。コンビニでスキンを買い、離れの路地に見繕ったホテルで部屋を選び、ただ義務的に。バスルームから持ち出した桶の中、温水で温めたローションを垂らして彼の蕾を綻ばせれば痛がる様子もなく、体を拓いた相手が以前他にもいたのだろう、と思っただけだった。全てが無意味に映る中で、彼だけが鮮やかな色をしている――蒼白い肌が上気した時、シーツの皺に沿って流れ落ちる汗。
そのまま、ただ性急に事に及んだ。そうしなければならなかった。そうでなくては衝動的に壊してしまっていたかもしれないからだ。ネツァクは手ひどく抱かれることを望んでいるかのような表情を浮かべたままだった。それをよしとしてしまった時点で同類にしか成り得ないこともまた自明のことであった。
何もかもを誤魔化す。互いの劣等を埋め合わせるかのように交わり合った。相手を求めているようで実際は己を満たしたいだけの独りよがりだという自覚はあった。(断面の苺はこんなにも甘美で、真冬から届く手紙や労苦というものは全て花束にして燃やさなければならない……) 真冬。真冬だった。真冬の都会の寒さから隔絶され、暖房の効いた狭い部屋で汗みどろになり、抱き合う。
真空を穿つことによって救いを見出そうとするも真空には自我が充満していた、己を救うための自己破壊にすら及べないイェソドには彼の体だけが欲しかった、どうやら彼もそのようだった。そうして彼は何度も誰とも知れぬ男に体を拓かれたのだろうと思うと、何故だろうか、世界に抱くような破壊の欲求が烈しく燃えていくのがわかる、自壊しろという欲求が燃えていく。(二月は最も冷刻で閉塞した月……)
「……俺だって、あなたのこと、殺したいですよ」
「私を殺したければ私と同じところに立つべきなのでは? 貴方の目に映り込む私の顔は貴方だけのもの。私は私の顔を鏡に映しながら貴方を愛そうとしているのですから……貴方はその前に立って鏡を遮らなければいけませんよ」
その言葉にネツァクは微かに笑みを浮かべていた。あまりにも薄暗い微笑みだった。

それから彼との関係は続くことになる。互いの素性を隠し立てることはほとんどしていなかった。ファストフード店の中で聞いた話では、ネツァクもまた、大層な両親の元に生まれながらも結局のところこの片隅に辿り着いたらしかった。きっかけはただの気まぐれ。己と同じように、ある一日だけ大学を休んだこと――そして酷く叱責されたことによって多少の金を持ち出して家を飛び出したらしかった。
「……多少とは言っても、ここの人間に言ったら嫉妬されるくらいの金ですけどね。もっとも、ここの人間は……俺含め、抱いたり、抱かれてるうちは金が尽きる訳でもないですが」
率直に言うなれば、どうかしているのだと思った。文字通り体を切り売りすることによって金を稼いでいる者がいるという事実もそうだが、何よりもこれほどまでに破滅的な有様を晒していることそのものに対して嫌悪感を覚えずにはいられなかった。
とはいえ、自分も結局は同じ穴の貉に他ならない。そんな境遇で生きていかざるを得ない人間に対しては軽蔑こそしても、嫌悪することはまずない。しかし、それはきっと彼自身も分かっていたはずなのだ。その上で、敢えてここにやってきたということについては、どうしても問いただしてみたくなる。
「……敢えて聞きますが、何故こんな場所に来たのですか」
「さあ? あなたと同じですよ、おおよそ、あなたが考えてる通りです」
このどうしようもない世界で自分はおそらく誰よりも醜悪に違いない。そう思ってやって来たのだろう。そう思いながら体を拓かれ、いつしかこの場所に居付いた。
ここはある意味で天国に似ている。誰もが一度は憧れながら結局辿り着くことがない場所だ。砂上の楼閣――儚く崩れ去る脆い希望を抱いた人々がたどり着く場所。ここでの生活を支えているのは結局のところ金銭であるがゆえ、ここから脱するには何らかの手段を用いるしかない。つまりは違法労働か売春行為しか道はないのだということを暗に示す光景。
ここには明日という概念は存在しないに違いなかった。辛うじて雨風を凌ぐことができる屋根と寝食の場があるだけのことに過ぎず、明日が来るかどうかさえ定かではない。むしろそれを望むか否かさえも問われることになる。それを理解しているからこそ人はここを軽蔑する。
だからここに来る者は大抵の場合、来るべきではなかった者ばかりだということになる。イェソドの場合は、己がここに居着いていることを知られぬように細心の注意を払っているつもりだ。己のような恵まれた境遇からわざわざ身を挺して低きに堕ちる者など、到底ここの住人には信じられないだろうから。だがネツァクは違った――恵まれた環境からやってきた者もまたいると言わんばかりに周囲の少年少女に積極的に声をかけていた。それも男女問わずに、である。
確かに全体的に細くも顔は整っている、それでいてどこか危うい雰囲気を纏っているせいで女受けするのも必然的ではあるのだが、それにしても限度というものがあろう。しかし当の本人はそれを気にする様子も無く堂々と振る舞っていた。それどころか男相手に嬉々として股を開くことさえあったほどだ。目の前で見る限り、その様子はまるで娼婦のようだったが、本人には全くそぐわない。だからこそ不思議に思うことがある。どうしてこんな場所にやって来てまでそのように振る舞う必要があるのか。
「あなたが考えてる通りに俺は振る舞っているんです。まだ潔白然としていたいあなたには分からないでしょうが、こういう場所に来てまで善良ぶるつもりはないんですよ。それに、どうせ誰も信じちゃくれないんですよ、俺は……」
その言葉を聞くと更に複雑な感情を抱かざるを得なかった。
もしかしたら彼はここに来たかった訳ではないのかもしれないと思ったのだ。彼はここに来たいと願ってここにいるのではなく、来なければならない理由があるのではないだろうかと邪推してしまうほどだった。
「貴方は……本当はここに来たくなかったのではありませんか」
そういえば琥珀色の瞳に僅かに感情らしい色が見えた。ただそれは憤懣でも悲哀でもない、虚無的な相を宿した諦観の感情、そんな色だった。
「来たくない? それはそうですよ。俺にはこんな場所関係ないって、一年前は思ってたんですから。だけど気づいたときには……こうなっていたんです」
そう言いながら遠くを見る眼差しをした。


どうして、いつからそうなってしまっていたのかは分からない。ただひとつだけ言えることがあるとすれば、己は昔からどこか壊れている人間だったというだけだ。
人と人の繋がりなど、形骸化されたものだった。あの冷たい家で育ったからこそ、人との関わり方がわからなくなってしまっただけなのだろうか――それとも元より自分には人の心を察する能力が無かったのだろうか?
今となっては、何もかもがどうでもいいことだった。無間地獄の鳥籠に囚われ、枷を嵌められることもなく飢えていく。痩せて浮いた肋骨を撫でられれば呼吸を意識し、腕の傷痕を撫でられれば疼痛すら覚える。
いつぞやは猫が鳴いていた。カーテンが閉まっているゆえに時間の経過が全く分からない。そもそも携帯を見なければ日付の概念が失われる。

時計はとうに床に叩きつけてしまった――硝子がきれいだった。

自分が最後に見た日にちは既に過去になろうとしている。そんな曖昧な記憶に縋らなければならないほど追い詰められているのだと思えば乾いた笑い声が漏れ出る。
いま外は土砂降りらしく、部屋の中へ入って来る薄光は暗い雲に覆われた空の色ばかりであり、昼時にも関わらず室内灯をつけねばならないくらいだ。しかし灯りを点ける事もなく行為に没頭している。埃と黴のにおいがする箱庭の中で、どうしようもない獣らしさを晒しながら口付けて、肉の音を鳴らしながら交わる。
イェソドが痛々しいほどに己を求めてくるのがわかった。何を? 自惚れではなかった。しかしネツァクには彼が己の何を求めているのか分からなかった。だがこれだけは言える――結局のところ、己の劣等を埋めるためだけにこんなにも不毛な行為を繰り返しているのだろう、と。そうだとしても構わない。
そう思い続けるうちに段々と疲れてきて、相手の顔をぼんやりと眺める。まるで他人事のように眺めている自分に違和感を覚える。これは明晰夢のようなものだ。
夢の中で見ている光景だと信じようとした瞬間、再び律動が開始される。肉同士のぶつかり合う音を聞きながら小さく呻きを上げる。それでも彼は全く意に介さぬ様子で腰を動かし続けたまま、ひたすらに己の名前を呼ぶばかりだった。
しかしどんなに求め合っても一つにはなれないことなど理解している。
暮らす部屋はずっと前からすっかりと手狭になっていた。六畳一間の泥黎。そのなかで、ドラマツルギーなロマンスを行うでもなく、ただ最後の審判を待つ訳でも無く、断罪を待つ訳でもない。堕天使にもなれず、彼我の差を無くして――嘔吐感すら覚える睦言を吐き合いながら、ひとつにならんばかりに重なり合う。
(きっと女では駄目なのだろう。女のように綺麗でなければならないが、女ではいけないのだろう、しかし、) どこまでもにせもののネツァクに本物を見出してイェソドは縋っていた、どこまでも自閉した泥黎の一室で、息を殺して。
部屋は暗闇に少しずつ覆われていって、やがて時計も壊され、昼ですら暗くなった――心に巣食うちいさな絶望がその暗闇に吸い込まれたならどれほど良かっただろうか?
ネツァクはそんな想いを抱きながら、薄闇に包まれた空間の中で、ただひとつの小さな影になって溶け合おうとするふたりきりの部屋のなか、己のなかの小さな子供が泣き喚きながら問うてきたのがわかった。俺は誰なんだ。お前は俺だよ。
言葉が螺旋状に混ざり合い融け合って脳髄でぐちゃぐちゃに掻き混ぜられながら響いていく。
もうどれが現実で何が虚偽なのか判別がつかない、それでもいいと思っている。今この時この瞬間だけは紛れもなく〝じぶん〟なのだと、そう言い聞かせることが出来た。だと言うのに、ただ何かが足りない気がしていた。心の半分が無くなってしまったような喪失感が常に付き纏っていた。
それを埋めるため、そのためだけに不毛な交合を重ねる。大方、よくある話だ。ネツァクは――ひとりあそび、という言葉を知ったとき、どうしようもなく納得した。己を快楽に埋めて誤魔化すために肉体を用いたところで、心の本質は変わらない。それなら己らは何のために性交をしているのかと言われれば答えに詰まる。何のためか。それを探す気には、とうに、なれなかった。
睦言に対し、殺したいほどの嘔吐感がこみ上げたが、吐いたところでこの体は汚れはしない。吐き出したものはもはや全て虚構なのだから。
そう思えども死は訪れず、意識を飛ばした己を前にしてなお、未だ熱を孕み続けて冷めやらない彼がそこにいる。
(イェソド、いっそ殺して欲しいと思うのは我儘ですか?)
たとえば頸動脈を刺して。たとえば首を絞めて。そもそも憎んではくれるのだろうか。いや、そんなことは起こらないだろうと知っている。何故ならこれは自傷行為に過ぎないからだ。
自傷するのならば一人でやればよかろう、そうは思うのだが、どうしてもできなかった。一人になることに耐えられなくなっていた。ひとりで居たならば壊れてしまいそうだった、そしてそれ以上に怖かったのだ。これ以上壊れることが。
自暴自棄になる寸前まで追い立てられても、ぎりぎりの縁で踏みとどまれている理由はわからないままだ。もう何もわからなかった、何も考えたくなかった。ただただ本能のままに貪り、欲望に支配され続けるほかはない。
(そして細い腰を掴めば、知っているだろう、すっかりと。青ざめた肌に彼は興奮していた、その薄い肌の中、胎のなかに彼は白濁を吐き出した。はあ、と息を吐き出してから――顔の近くに寄せられた罪の象徴がちくちくと痛かった。神は人間をどこまでも咎として作ったらしい、彼らもその例外ではない、窓を隔てた外、ばちばちと叩きつける雨がまるで遺言のようで、なんだか可笑しかった)