曽野さんと日本財団…作家・曽野綾子さんのご逝去で考えたこと
作家である曽野綾子さんのご冥福をお祈り申し上げます。
曽野さんが、2月28日にご逝去された。それ以来、様々なメディアが、その弔辞や評伝を伝えている(注1)。
そこで、本記事では、筆者の経験から、他のメディア等では伝えられていない曽野さんについて書いていきたい。
筆者は、曽野さんとは縁がある。
筆者は、1995年12月、所属してた笹川平和財団(SPF)から日本財団(NF)に出向した。その勤務開始から1週間ぐらいした時に、曽野さんが日本財団の会長になられ、出勤されるようになった(注2)。
曽野さんは、姿勢よく、凛とされていた。最近は、日本でも高齢の方でも活発で若々しい方も多いが、当時はまだ「この年齢ではこの容姿」などのようなパターンがまだまだあって、年齢からすれば、曽野さんはある程度の年齢だったといえるかもしれないが、精気に溢れ、チャーミングで、輝いていた。
筆者は、曽野さんにたまたまお話しする機会があり、「会長になられる1週間前に日本財団の職員になりました」と申し上げると、「じやぁ、私の方が1週間後輩ね!」と、素敵な笑顔で、優しく話しかけてくださったことを今も鮮明に覚えている。
日本財団は当時、内部で職員の不祥事等があり、社会的に非常に厳しい批判や非難に晒されていた。そうでなくとも、同財団はそれ以前から特定個人が私物化しているとか、ギャンブルマネーだとか社会的にも多くの批判や非難などがあった。そのような状況において、公営ギャンブルであるとはいえ民間財団として運営されていた同財団の自律性を削ぎたいと以前から考えていた所属官庁などの政府の一部は、そのような機に乗じて、政府機関に繰り込みたいと考えてもいたともいわれていた。
そこにおいて、日本財団は、そのような状況を払拭・克服するために「組織・業務改善調査会」を設けて新体制をスタートさせようとしていた。曽野さんは、その状況において、日本財団の改善改革をするべく会長に就任したのである。
曽野さんは、そのように当時批判・非難の的になっており組織の存在が危うい組織の責任ある立場を、火中の栗を拾うようにして、引き受け、組織を立て直し、行動し、組織を外からの荒波から守る大役を果たしたのだ。
曽野さんは、それ以前やその後なども、文部科学大臣就任の依頼等が何度かあったようであるが、自分の役割ではないとして、断固として引き受けることはなかった。他方日本財団の会長職は引き受けたのだ。当時の同財団の会長職は、それは誰がやっても非難こそあれ、得することは何もなかった。当時既に高い名声と評価のあった曽野さんにとってもそうであった。
だが曽野さんは、恐らく民間財団としての日本財団の日本社会における意味や役割を十二分に理解すると共に、当時の日本社会で、独立独歩で活躍できて、ある意味で失う組織の役職や立場がなくても動き・発言し続けられる者は自分しかほとんどいないとも自覚され、社会のために行動しようと覚悟されたのだろう。キリスト教徒であるので、その厳しい茨の道に進むことを引き受けることは神からの天命だと考えたのかもしれない。また曽野さんは、根っからの新しいことへの好奇心やチャレンジ精神に満ち溢れている方だったと思う。実際曽野さんが財団について書かれた本や関係者の話などからも、それまで組織で仕事をされたことのない曽野さんが、財団での活動や経験を非常に楽しみ、前向きにとらえていたことがわかる。
また曽野さんには、当時(そして現在も)筆者の念願だった民間非営利独立型のシンクタンク(現在の東京財団)の設立に関わっていただいた。その関係で、曽野会長の田園調布のご自宅を訪問させていただいたこともある。東京財団はその後(1997年)無事に設立され、筆者はその後同財団に転籍し、独立シンクタンクの活動および運営にかかわっていくことになる。
さらに、曽野さんが、会長として財団職員全員に対してスピーチされた時に、「何かすることになった時には、それができない理由を考えることに時間をつかうのではなく、その時間をどうしたらそれができるかを考えるように活用してください」とおっしゃっていた。それは、現在も筆者にとり大切な座右の銘の1つである。
ここからはやや私見になるが、付け加えておきたいことがある。
日本は民主主義国家といわれる。形式的には確かにそうだが、その実質は果たしてどうだろうか。そうではないのではないかと、筆者は考えている。
それは、日本では、自分の考え方や価値観を守りながら、生きていくのが非常に難しい社会だからだ。生きていくにはどこかの組織に所属し、そこの価値観やルールに自分を合わせていかないと損をする仕組みになっているのである。そして、社会全体は同調圧力が強く、すべての組織の大枠のルールは政府・行政が決めてきた社会だ。
それらのことのために、民主主義社会では本来は多様な価値観や意見が認められ存在しているはずなのだが、日本は、それが認められにくく、それらの幅が狭められている社会であり、ある意味民主主義社会ではないということができるのではないかと考えている。
なぜそのようになるかといえば、2つの大きな要因がある。まず一つ目の要因は、終身雇用慣習とも密接に結びついている人的モビリティの低さの問題であり、もう一つの要因は資金源の独占の問題である。前者も重要であるが別の機会に論じることとし、本記事では、曽野さんとの関連ある日本財団との関係で、後者を取り上げていきたい。
日本は、資金が政府・行政や大企業(大企業の大枠や方向性は中央政府・行政が決めている中央集権国家だ)に集約され、それらが決めたルールや枠のなかでの価値観や動きが許容されるようになっており、多様な価値観や活動が制約され、変化しにくくふり幅が大きくなりにくくなっているのだ。特に社会や公共に関わる活動に関わる資金(筆者は、それを「パブリック・マネー」と呼んでいる)は、寄付や政治資金などのようにそれ以外にも一部あるが、そのほとんどは税金という形で集約されている。
それはつまり、政府の枠のなかにおいては社会や公共に関わる活動はできるが、それ以外の動きや活動をするのは難しかったり、制約があることということだ。別のいい方をすれば、それは、現在の政府の方針や方向性を大きく超えたり変える活動や政府とは別の価値観や意見をもった人材が育ちにくい、あるいは存在しにくくなっており、結果として政治や政府を大きく変えることができないようになっているということである。
この意味において、曽野さんと日本財団の意味と役割が浮かびあがってくる。先に申し上げたように、曽野さんが、会長に就任した際に、日本財団は民間財団であり続けられるかどうか、場合によっては政府機関の一部になってしまうというような存亡の危機にあった。曽野さんの果敢な英断による会長就任とその活躍等で、同財団は民間財団であり続けられたのだ。その結果として、日本財団は、政府から独立し自律した民間組織として、独自の視点から、政府の枠を超えたあるいは政府には取り組みえない領域や社会的にユニークかつ独自の活動を行ってくることができた。それらの活動は、筆者が在籍した当時あるいはそれ以前の同財団への評価とは大きく異なり、社会的にも高く評価され、社会的な変化やインパクトをもたらしているのは皆さんご存じのとおりである。
日本では、上述のように資金源そしてその結果人的資源の関係から、公共的あるいは社会的な活動は政府(その実態は行政・官僚)およびその枠内でのものに制約されがちで、画一的な活動しかできにくい環境と状況において、日本財団(注3)は、特殊法人的組織なので一部政府からの制約はあろうが、資金的および人的規模と分野領域において社会的に大きな影響力を有する民間財団として独自の活動を行い、日本に多様性や多様な価値観を提供していることの意味の役割は大きい。
なお、日本にも多くの非営利組織などはあるが、そのほとんどは資金的・人的な制約や目的・活動が特定化されていて、今の政府(行政)の枠を超えた活動や動きは非常に限定されていて、社会的な多様性や多様な価値観・人材の創出という面では限界があるという現実があるのである。
これまでのことからもわかるように、曽野さんが立て直すために(筆者もその立て直しの一端として駆り出され、日本財団に当時出向することになったのである)会長職を引き受けられたことで、日本財団は民間組織であることに踏み止まることができ、その後いろいろな改革をやり、日本にほぼ唯一といえる政府からの独自性を有しながらも自由度のある規模のある民間資金としての役割と意味を確立し、今日の日本における重要なポジションを築いてきたのである。その意味からも、曽野さんは、日本財団ばかりでなく、日本社会にとっても非常に大きな役割を果たされたのである。
日本社会は、この点で、曽野さんの英断・覚悟と行動に大いに感謝するべきだろうと、筆者は衷心から考えている。
最後に筆者は、曽野会長からは多くを学び、助けられたことに対して、心よりお礼を申し上げたい。そして、ぜひ天国でご主人の三浦朱門さんと穏やかで、楽しい時間を過ごされてください、と申し上げたい。合掌!
(注1) 例えば、次の記事などを参照のこと。
・「作家の曽野綾子さん死去 93歳 途上国での福祉活動などにも尽力」(NHK、2025年3月4日)
(注2)曽野さんの日本財団における活躍等については、次の作品を参照されたい。
・『日本財団9年半の日々』(曽野綾子、徳間書店、2005年)
(注3)この日本財団のなかには、笹川平和財団や東京財団などの日本財団グループに属する非営利組織も含むが、その規模や対象分野のカバレージからも日本財団が、日本社会においては、その意味や役割は非常に大きいといえる。