今日は、椎名林檎の「主演の女」を聞いている。
清家章は、「卑弥呼と女性首長(学生社)」(以下清家論文という)の、「あとがき」で、清家論文では、「考古学を中心とした資料の中で卑弥呼を分析し、位置付けることを目ざした」という。
そして「それが成功したかどうかは読者の判断にゆだねることとしたいが、突出した資料や目立つ史料のみを取り上げて論を展開することの愚は伝わったかと考える」という。
ここまでの検討では、清家論文が目ざしたことは、どうも成功してはいないと考えられる。
「清家論文がいう「突出した資料や目立つ史料のみを取り上げて論を展開することの愚」とは、清家論文の論述そのものではないのか?
清家論文が「成功」しなかった主な要因は、以下のとおりであると考える。
①女性首長と女王と女性天皇、卑弥呼や台与と女性天皇とは、ほとんど関係がないのに、無理に関係付けて議論したこと、
②そのことで、卑弥呼と女性天皇が混同され、議論が混乱したこと、
③その結果、女性首長が古墳時代中期から見られなくなることと、女性天皇が登場することとの関係を、説明できなかったこと、
④基本的な考古資料の扱いが厳密ではなかったこと、
⑤その結果、卑弥呼や邪馬台国の年代や邪馬台国の所在地の推定を誤ったこと、
⑥また、同様に、女性首長が存在した時代を、弥生時代後期から古墳時代前期までと誤認したこと
⑦卑弥呼について議論するのに、魏志倭人伝の解釈を無視したこと、
⑧その結果、倭国の範囲は北部九州であると理解できず、卑弥呼が邪馬台国の女王なのか倭国の女王なのかがあいまいになったこと、
⑨弥生時代中期と後期の「断絶」や、須恵器編年、古墳時代前期の「王権構造」などの、研究成果を参照せずに議論を構築したこと、
⑩その結果、多くの研究者の研究水準から遅れた議論に終始し、主張に説得力がなくなったこと、
そして、その中でも最大の問題は「卑弥呼と女性首長」という論述のテーマで、「女性天皇」を論じたことであった、と思う。
清家論文を論述していて、論理破綻に気が付かなかったのだろうか?
また、清家論文の論述スタイルについても問題があると考える
それは、論証が一方通行であるということである。
論証の第一歩では、例えば、AということとBということが関係がありそうだと推定し、そこからA→Bが成り立つことを推定する。
しかし、A→Bが成り立つということの論証には、これだけでは不十分である。
なぜならば、BということはCということから来るかもしれないし、Dということから来るかもしれない。
だから、C→Bや、D→Bの可能性も論証し、それらを否定していかないと、A→Bは論証できない。
また、仮にA→Bが成り立つとすると、A→Eが成り立つと推定されるときは、そのA→Eを論証することにより、A→Bを間接的に論証することもできる。
しかし、清家論文からは、こうした、傍証はうかがえない。もっといえば、文献史学の研究者や考古学の研究者の論文も、あまり客観的な根拠を示さずに、A→Bを主張するが、その論述は、こうした論証手順を踏んでいない例が多いと考える。
だから、彼らの論述を読んでいて、エッセイを読んでいるように錯覚することがある。
清家論文の論述では、女性首長のことと卑弥呼のことと女性天皇のことが、それぞれバラバラに論述されていて、清家章の独断的な主張がそれらをつないでいる。
清家論文では最終的に何がいいたかったのだろうか?
清家論文は一般向けの啓蒙書ではあるが、専門家の学術論文でもある。また、高知大学での講義が基になっているという。
正直、この程度なの?というのが、率直な感想である。大学でこんな講義をしているんだ、と思う。
この清家論文を、大学の学部生の卒論として査読したとすると、何処かの民間企業に就職が決まっている学生が書いたとすれば、その内容ではなく、沢山調べてよく書き込んだという、努力を評価しても、付けても「C」ではないかと思う。
厳しく評価する教員なら、「D」にする可能性も高いと思う。
もっといえば、論文を書き上げる前の、構想段階の指導の時点で、その論理破綻を厳しく指導されるはずであるが。
また、院への進学や教職に進む学部生の卒論または院生の修論か博士論文として査読したとすると、どう考えても、「D」しか付けげられないと思う。
これも、厳しい教員なら「論評の価値なし」と、突き返されるレベルではないかと思う。
まだ、言いたいことがある気がするが、きりがないので、一旦これで論述を終了することとしたい。