清家章「卑弥呼と女性首長(学生社)」を読んで(15) | 気まぐれな梟

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 今日は、椎名林檎の「今夜だふ」を聞いている。


 清家章は、「卑弥呼と女性首長(学生社)」(以下清家論文という)の、「あとがき」で以下のようにいう。


 清家論文では、「王位の男性継承」について、「なぜ王位においてのみ男性継承を基本とするのか」は、「難しい問題であ」り、「今後の重要な課題としたい」という。


 これも、変な話である。「王位の男性継承」は、卑弥呼や台与の「中継ぎ的性格」の根拠であったはずである。しかし、その重要な「根拠」を、清家論文では、論証できていないという。


 もしもそうなら、卑弥呼や台与の「中継ぎ的性格」についての論述は、学術的な論述とは受け取り難いと考えざるを得ない。


 ここから、清家論文の「男性継承」は、思い付きのレベルであると考えざるを得ない。思い付きで、論証抜きに、「学術論文」が出来上がっている。


 清家論文では、続いて、「男性継承」の「予想される要因」として、中国王朝に対する「外交権」と、「海外諸国と衝突が起こった際」の「軍事権」を挙げるが、言っていることの意味が分からない。


 清家論文が挙げる「外交権」についていえば、女性の卑弥呼は魏と外交をしたのではないか。また、隋に国書を送ったのは、推古天皇ではなかったのか。


 だから、「外交権」の問題から「男性継承」を根拠付けることはできない。


 また、卑弥呼や台与の時代に、海外諸国との衝突が現実的な問題として存在したというのだろうか。


 魏志倭人伝からは、そうしたことはうかがえないし、そのような考古資料もない。


 だから、「海外諸国との衝突」の問題から「男性継承」を根拠付けることはできない。


 また、「軍事権」についていえば、魏志倭人伝によると、狗奴国と戦ったのは卑弥呼の時代のことである。


 だから、「軍事権」の問題から「男性継承」を根拠付けることはできない。


 以上から、清家論文がいう「予想される要因」には、全く根拠がないと考える。


 清家論文は、続いて、「そうした不利益を乗り越えても、女王卑弥呼が必要とされたことこそ重要である」というが、これも、言っていることの意味が分からない。


 清家論文がそういうのなら、それほど「重要」な、「卑弥呼が必要とされた」事情について、論文の本文で論述すべきである。そうした論述なしに、「重要だ」といわれても、理解も納得もできない。


 清家論文の、こういう論述スタイルは、いかがなものかと考える。


 清家論文がいう「男性継承」や「中継ぎ」について検討すると、以下のようになると考える。


 ①王位の「継承」という場合は、特定の親族集団が存在し、その構成員が王位を「継承」するという、「継承」である。だから、「継承」される人物と「継承」する人物は、遠近はあっても、相互に血縁関係になることになる。


 ②大王の死亡に伴って、相互に血縁関係のない複数の有力集団の構成員のうちで、それぞれの有力集団が合意した人物が、新しい大王となるのは、「継承」ではなく「選出」である。


 ③魏志倭人伝の記述によれば、「其国」とは、「倭国」である。だから、卑弥呼の「共立」とは、倭国王としての「共立」であり、邪馬台国の国内問題ではなく、「倭国」全体の問題である。


 ④卑弥呼は、「倭国」を構成する30ヶ国の国々の首長層の合意により、彼らの代表者として魏に遣使し、魏王朝から「親魏倭王」とされた。だから、卑弥呼が死んだならば、また別の人物が、彼らの新たな代表者となり、西晋王朝に遣使して新たな「倭王」とされることになっていたと考えられる。この場合、この「別の人物」は、邪馬台国ではない他の国の人物であったかもしれない。


 魏志倭人伝によれば、この「別の人物」は男性であったが、諸国はこの人物に従わずに戦乱が起こったという。そうすると、この人物は、卑弥呼とは血縁関係がない人物であったと考えられる。


 そして、争乱の結果、卑弥呼の「宗女」である台与が新たな代表者となり、西晋王朝に遣使したのである。ということは、台与は邪馬台国の首長となり、30ヶ国の代表として西晋に遣使したと考えられる。


 こうした経過は、倭国王位としても、邪馬台国の首長位としても、「継承」ではなく、「選出」である。


 なお、卑弥呼は魏から倭国王とされ、外交・交易権を掌握しただけなので、国内に倭国王という実態があったわけではない。だから、卑弥呼は、実態としては、邪馬台国の首長である。得池論文では、この点が混同されている。


 ⑤魏志倭人伝に書かれたこうした経過から、卑弥呼の前の「男王」や卑弥呼や台与、卑弥呼と台与の間の「男王」は、みな「選出」されたのであり、それぞれを「継承」したのではない、と考える。


 ⑥卑弥呼の時代には「継承」が存在しなかったので、当然「男性継承」も存在しなかった。


 ⑦卑弥呼や台与に「中継ぎ的性格」があったとしても、それは、女性天皇の場合の「中継ぎ的性格」とは、その意味が異なる。


 ⑧女性天皇の場合は、大王位の父系継承と、特定の王族の血統を「継承」することが前提となっており、その「継承」の候補者は、限定された王族である。これを前提として、適当な男性王族が存在しないときに女性天皇が即位することになる。


 ⑨しかし、女性天皇が存在したのは、古代では6人、近世では2人の計8人である。適当な男子皇族が不在になるのは、どの時代にも起こりうることだと考えられるが、この時期に限って女性天皇が存在する。だから、女性天皇の存在した理由は、一般的な「中継ぎ」ということだけで説明はできない。

 ⑩卑弥呼や台与の場合は、それぞれの国々の首長のうち、誰が代表者としてふさわしいか、ということである。


 ⑪それぞれの国の首長が男性であるか女性であるかは、それぞれの国々の問題である。そして、双系的社会では、それぞれの国々には、女性が首長として選ばれた国も存在したと推定できる。


 ⑫それぞれの国々の代表として、女性が首長である国の首長が選ばれれば、女性首長がそれぞれの国の新しい代表となる。


 ⑬利害が対立する集団の抗争を抑制または防止するため、中立的な立場の人物をまとめ役とすることは、株式会社の取締役会などでもよくある話である。


 それを「中継ぎ」といえば言えないことはないが、創業者一族が経営に大きな影響力を持つ会社で、創業者一族の跡継ぎが幼い場合などに、一時的に、創業者一族ではないたたき上げの人物を代表取締役にする場合を除いて、厳密には、そういう場合は「中継ぎ」とはいわない。


 ⑭だから、卑弥呼や台与は、「中継ぎ」ではないと考えられるし、女性天皇についても、厳密に言えば「中継ぎ」という言葉はふさわしくないと考えられる。


 以上から、清家論文がいう、邪馬台国の時代に、「男性継承」や「中継ぎ」は存在しなかったと考えられる。


 なお、清家章は、「古墳時代の埋葬原理と親族構造(大阪大学出版会)」で、都出比呂志を援用して、発掘資料から見れば「一つの古墳内の被葬者は血縁関係を有して」いるので、古墳時代中期に、「「系譜」と見なされるべき継起的に築造された古墳グループが存在したこと」や、「こうした血縁つながりの強い古墳が計画的に近接して築造されていることは、古墳間の被葬者の血縁的つながりを強く暗示する」という。


 そして、このように「近接した首長墓配置は、同一血縁集団内で首長位が継承されている可能性を示す」といい、「古墳時代中期には首長位の世襲集団が形成されている可能性がある」という。


 しかし、「一つの古墳内の被葬者は血縁関係を有して」いるということから、何を根拠として「近接して築造され」た「古墳間の被葬者の血縁的つながり」があるということがいえるのだろうか?


 例えば、古墳が近接して築造されていても、それは、それらの古墳の基盤となる拠点集落が同一なだけで、それぞれの古墳の被葬者たちは、別の集団の出自で、相互に血縁関係にないということも考えられるからである。


 江戸時代の大名は、転封で入れ替わっても、前の大名と同じ城に住んでいたが、同じ城に住んでいたから、新旧の大名の系譜がつながっているということにはならない。「近接した首長墓配置」も同じようなものであり、そこからそれらの被葬者の血縁関係などを推定はできない。


 5世紀の倭の5王は、中国史書によれば、珍と斉の間の血縁が確認できないため、珍と斉は血縁関係になかったと考えられる。また、倭の5王と清寧天皇や継体天皇は、血縁関係にはなかったと考えられる。だから、5世紀の大王位が血縁関係で「継承」されていないのなら、それ以前の地方首長の首長位も、血縁関係で継承されていなかったと考えられる。


 そうすると、「古墳時代中期には首長位の世襲集団が形成されている可能性」はなく、「父系継承」もないと考えられる。そして、大王位の「継承」は、大王位継承者が欠乏した時などの場合に、継体天皇が、清寧天皇の皇女との婚姻により大王位に就いたように、双系的社会を背景に女系で「継承」された、と考えられる。


 このことから、飯豊皇女の「臨朝乗政」は、「中継ぎ」ではなく、女系継承の一つの形態であったと考えられる。


 そして、最初の「中継ぎ」の「女帝・女性天皇」は、推古天皇からであり、それが出現したのは、支配層の上層に父系性原理が確立した、7世紀のことであった。


 清家章は、「男性継承」、「中継ぎ」を、遡及させ過ぎである。

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