清家章「卑弥呼と女性首長(学生社)」を読んで(14) | 気まぐれな梟

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 今日は、椎名林檎の「罪と罰」を聞いている。


 清家章は、「卑弥呼と女性首長(学生社)」(以下清家論文という)の終章「時代のうねりの中でー女性の地位と卑弥呼」の「5卑弥呼擁立の背景と条件」で、以下のようにいう。


 清家論文では、「時系列で整理したところ、女性首長の盛衰は、争乱の活発化や軍事的緊張ならびに政権の軍事化と負の相関を持つ」という。


 この点については異論がある。


 清家論文では「争乱の活発化」や「軍事的緊張」があった時代を弥生時代中期とするが、発掘資料からは、弥生時代中期に大規模な合戦等が起こった痕跡はない。


 また、「政権の軍事化」があった時代を古墳時代中期とするが、この時期以降、女性首長が見られなくなるのは、単純に、女性が軍事権を行使できなかったためではない。


 当時の倭王権は、高句麗や新羅と対抗し、百済に学び、国家形成を進めるために、支配層上部を組織し、地方の諸首長の「軍事的編成」を行い、現実に朝鮮半島南部に出兵した。そして、その過程で、父系性の原理で、支配層上部から、原始的な国家組織を、構築しようとした。


 「軍事的編成」は、その手段であり、そうした政策の結果として、女性首長が見られなくなったのであると考えられる。


 清家論文では、続いて、「女性首長は①女性の地位が伝統的に比較的高く、②女性エリートは軍事を除いて男性と同等の機能を有しており、③軍事的緊張が緩和し、④神仙思想が重視されたという条件下で存在した」という。


 この点については異論がある。


 清家論文が挙げる女性首長が存在する4つの条件のうち、③と④は、妥当ではないと考える。

 

 清家論文の③の条件と④の条件は、一連のものであるが、仮に「神仙思想が重視された」としても、そうした祭祀は清家論文によると、男性首長も行うものであるとされている。だから、そうした「神仙思想」にともなう「祭祀」が重要視されても、女性首長の役割が増すことにはならない。


 つまり、清家論文のいう「神仙思想の勃興」と女性首長は関係がないと考える。


 清家論文では、続いて、「女性首長は双系的親族構造の中で一般的な存在であるのにたいし、王位は男性継承という原則に中で卑弥呼と台与は中継ぎであった」とし、「中継ぎであれば、女性首長の盛衰とは関係なく、王位継承問題が起こったときに擁立されうる」という。


 この点については異論がある。


 清家論文がいう「王位継承問題」とは、王を出す家系が特定されていることが前提となっている。そして、王を出す家系が特定されているということは、世襲王権が成立していることが前提となっている。


 また、ある王が死亡したが、その子どもや兄弟などに、適当な人物がいないときに、「中継ぎ」として女性の大王が即位するとすれば、この「中継ぎ」も、世襲王権が成立していることが前提となる。


 清家論文では、卑弥呼や台与は「中継ぎ」であったというが、彼女たちは邪馬台国の首長であり、卑弥呼は魏から、台与は西晋から、倭国の王とされていた。そして、邪馬台国の首長と倭国女王の立場は違う。


 清家論文がいう「王位」とは、倭国の王位のことをいっているのか、邪馬台国の首長位のことをいっているのか、よくわからないが、清家論文の議論では、どちらの場合も、世襲が存在したということになる。


 しかし、古墳時代前期のから中期までの倭王権は、下垣仁志の「古墳時代の王権構造(吉川弘文館)」(以下下垣論文という)によれば、「能力により推戴される非世襲の大王を中心として、各々の利害に基づき結集する諸首長からなる連合組織である」と考えられる。


 そして、「王位」は世襲ではなく、「大王」が「推戴」されるということは、その「大王」は、有力な複数の親族集団の構成員からから選出されるということである。そして、その「推戴」の基準は、その人物の「能力」である。


 古墳時代前期でも、世襲王権は成立していなかったのに、清家論文では、論理的には、弥生時代後期後半の時点での「世襲」を主張することになる。


 さらに、清家論文では、王位の父系継承とは異なる「男性継承」の存在については、論証さえされていない。


 清家論文のこうした論述は、全く理解できない。

 

 清家論文では、続いて、卑弥呼や台与が擁立された時は、「当時の女性の地位が高かったことが影響し」、「女性首長が一般化してい」たので、「女性が王位を継承することに対して邪馬台国傘下の勢力も受け入れがしやすかった」という。

 

 この点には異論がある。


 清家論文がいう、卑弥呼を「受け入れやすかった」という「想像」は、前述のように「男性継承」を前提としているが、その論証がないので、清家論文の「想像」に根拠があるとは思えない。


 そうではなくて、もっとシンプルに、双系的社会においては、その女性が能力を持っていれば、または、その女性が首長や王の仕事を有能にこなせそうなら、彼女は首長や王に推戴されたと考えられる。


 つまり、卑弥呼は、双系的社会の中で、有能であったから女王となったのである。


 清家論文では、続いて、「軍事的緊張が極度に高い時に、軍事権を持たない女王を立てることはやはりリスクがある」ので、卑弥呼や台与が擁立された時は「軍事的な緊張が下がっていたことが背景にある」という。


 この点には異論がある。


 日本書紀によれば、斉明天皇は女帝であるが、朝鮮半島に出兵すべく九州まで遠征した。結局、斉明天皇は九州で死亡するのだが、朝鮮半島情勢が緊迫した状況下でも女性天皇が登場し行動している。なお、この斉明天皇は、阿倍比羅夫による蝦夷、粛慎討伐も行っている。


 それに、世界史をみれば、ローマと戦ったクレオパトラ7世、スペインと戦ったエリザベス女王、オスマントルコと戦ったエカチェリーナ2世など、軍事権をもった女王・女帝が存在している。


 また、唐が、白村江の戦いに勝利し、百済、高句麗を滅亡させたのは、高宗に代って女性の則天武后が「垂簾政治」を行っていたころであり、その後、則天武后は、「本来は男である弥勒菩薩が方便で女として応現した」のが自分であるといって即位し、皇帝となり周を建国する。


 さらに、魏志倭人伝によれば、卑弥呼の擁立の前には、倭国大乱が続いていた。また、台与の擁立の前にも、卑弥呼の次に立った男性に反対する人も多く、争いが続いていた、という。

 

 だから、卑弥呼も台与も戦乱の中で擁立されているのであり、清家論文がいう、卑弥呼や台与が擁立された時には「軍事的な緊張が下がっていた」という主張には、根拠がないと考えられる。


 そして、徐々に、試行錯誤を繰り返しながら、支配層のトップから父系継承による組織が、双系的社会の中に組織されていき、それが完成するのは、欽明天皇の時代であり、欽明天皇から今日に繋がる王統が出発しているのである。


 だから、「争乱の活発化」や「軍事的緊張」、「政権の軍事化」ということが、女性首長が見られなくなる理由ではないと考える。


 なお、清家論文でも紹介されている、墳丘墓におけるキョウダイ埋葬の例から考えて、軍事権を掌握して女性首長を補佐する兄または弟が存在するのであるから、軍事的な緊張があっても、女性首長の選出には何の問題もなかったと考えられる。


 さらに、主要埋葬施設には女性が埋葬されなくても、その主要埋葬の近くに女性が埋葬されている例から考えると、兄弟姉妹のどちらが「代表首長」となるか、という区別はあっても、彼ら彼女らは、互いに協力して首長権を行使していたと考えらえれる。


 だから、そこでことさら、「代表首長」ということを言いたてる必要があるのだろうか、と考える。「代表首長」ということでなければ、考古資料からは、弥生時代中期にも、首長権を行使した女性の存在は推定できる。


 こうしたことから、女性首長が見られなくなることと、卑弥呼や台与の擁立や、女性天皇の即位は、ほとんど関係がないと考える。


 なお、清家章は、「古墳時代の埋葬原理と親族構造(大阪大学出版会)」で、「弥生時代において首長制段階に達している」といい「吉野ヶ里遺跡に代表される大規模集落ならびに複数の集落を指導すると推測される立場の者を首長とよぶ」という。


 しかし、岩永省三が「講座日本の考古学6弥生時代下(青木書店)」に掲載した「墳丘墓と首長層の形成」(以下岩永論文という)によれば、吉野ヶ里遺跡の弥生時代中期の墳丘墓は、「複数クラン代表者選抜型」の墳丘墓であり、「有力家族や同世代の1から3人程に絞り込」まれたような、「特定クラン有力層絞込み型」の「絞り込み」が進んだ墳丘墓は、弥生時代後期後半から終末期にかけて「顕在化」する。

 

 首長制社会論では、集団のリーダーが「首長」ではない。そうしたリーダーは、「族長」といい、縄文時代にも存在した。首長制社会論がいう「首長」とは、一定の発展段階にある社会の集団のリーダーのことである。


 そして、岩永論文によれば、もちろん過渡期はあるのだが、おおむね弥生時代中期までは「族長」の段階で、弥生時代後期から、「首長」への成長が模索され、「首長」が確立するのは、地域差を含みながら、弥生時代後期後半から終末期にかけてであったと考えられる。だから、清家章の「弥生時代において首長制段階に達している」という主張は誤りである。


 清家論文の議論では、こうした墳丘墓の被葬者が「族長」なのか「首長」なのかを区分けして分析せずに、すべて同じような「首長」と考えている。しかし、「族長」としての選出と「首長」としての選出は、異なると考えられる。「族長」としての選出ということであれば、縄文時代の集団の「族長」の選出との関連も検討する必要がある、と考える。


 要するに、歴史的に、どういう基準で集団のリーダーを選出していたのか、ということの議論をしないで、弥生時代中期の社会と後期の社会を比較して、女性首長の選出について議論しようとするのは、かなり一面的な議論であると考える。

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