清家章「卑弥呼と女性首長(学生社)」を読んで(13) | 気まぐれな梟

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 今日は、椎名林檎の「殺し屋危機一髪」を聞いている。

 

 清家章は、「卑弥呼と女性首長(学生社)」(以下清家論文という)の終章「時代のうねりの中でー女性の地位と卑弥呼」の「3弥生時代中期から古墳時代前期の軍事的緊張と女王・女性首長」の「軍事的緊張の緩和と神仙思想の蔓延」で、以下のようにいう。


 清家論文では、「弥生時代後期以降、状況は大きく変化」し、「環濠集落は解体し、一部を除いて高地性集落も減少に向かう」という。

 清家論文のこの点については異論がある。


 先述したように、「環濠集落は解体し、一部を除いて高地性集落も減少に向かう」野は、弥生時代後期ではなく、早くて弥生時代終末期、遅ければ古墳時代前期であると考えられる

 また、「弥生時代後期以降、殺傷人骨は急速に認められなくなる」という。

 清家論文のこの点については異論がある。

 

 先述したように、殺傷人骨と「本格的な戦争」とは関係がない。


 清家論文では、続いて、「弥生時代後期後半~終末期から古墳時代前期にあっては、戦争あるいは争乱を推察させる資料は質・量ともに影を潜め」、「社会における戦争に対する関心と準備は、遺構・遺物からみる限りそのウエートが下がっている」という。 
 

 清家論文のこの点については異論がある。


  先述したように、弥生時代において、大規模な合戦の痕跡などの「戦争あるいは争乱を推察させる資料」は、存在していない。


 また、「社会における戦争に対する関心と準備は、遺構・遺物からみる限りそのウエートが下がっている」という、根拠はない。それに、「遺構・遺物から」「関心と準備」が、どのようにしてわかるのだろうか?


 清家論文では、「弥生時代後期から古墳時代前期まで神仙思想にまつわる埋葬儀礼が多く認められる」ことから、この頃から「軍事的緊張が緩和される中で、不老不死を求める思想が普及してい」き、「神仙思想とそれに関わる祭祀」が「勃興してきた」という。

 また、「軍事的緊張が緩和される中で、不老不死を求める思想が普及していく」という。


 この点については異論がある。


 清家論文がいう「神仙思想」を宗教であると考えると、歴史を振り返れば、社会が混乱期にあったときこそ、宗教が人々の心のよりどころとして支持を集めた。


 例えば、平安時代末期の末法思想を基盤にした浄土宗や、戦乱に明け暮れた鎌倉武士の心の平穏のための鎌倉仏教、戦国時代の混乱期に武士や百姓の支持を集めた一向宗、幕末の混乱期に流行した大本教、金光教など、第2次世界大戦後の社会の変動により依拠する集団を喪失した都市住民に浸透した創価学会などをみると、平和な時代よりは混乱期に、こうした宗教は浸透している。


 だから、仮に清家論文がいうように、人々が「不老不死を願って」「神仙思想が浸透」するとすれば、それは、「軍事的な緊張が緩和され」た平和な時代ではなく、社会が変化してゆく混乱期であると考えられる。


 清家論文では、松木武彦や福永伸哉の主張を援用して、「神仙思想とそれに関わる祭祀」の「勃興」について、次のようにいう。
 

 松木武彦は、「古墳時代前期において」、「武器副葬は棺外が多いことから武器副葬は副次的である」といい、「前期の首長が第一義的に司祭者的性格をもち、副次的に戦闘指揮者としての性格をもつ」という。 


 この点については、多くの研究者が指摘してきたことであり、特に異論はない。

 

 福永伸哉は、「弥生時代終末期から古墳時代前期において、ヤマト政権が儀礼管理を行い、各地期の首長に配布する鏡の枚数を管理した」という。


 この点については、異論がある。


 福永伸哉がいう「ヤマト政権」が、「儀礼管理」を「鏡の枚数を管理した」といえるのは、古墳時代前期からのことである。

 

 そして、こうした「ヤマト政権」の力の源泉は、纏向遺跡の形成から始まる、奈良盆地の大規模開発の進展により、畿内に巨大市場が形成され、その畿内の市場を結節点として、全国的な交易のネットワーが形成されたことにある。

 

 この全国的な交易のネットワークを掌握したことで、はじめて、大和政権は九州地方から関東地方までの首長層を組織化し、朝鮮半島南部との交渉窓口を開き、さらには、百済と提携して朝鮮半島南部に進出することができたに進出することができた。

 

 儀礼もこうした交易の実利があったからこそ、その効果が得られたのであるし、その実利のために、古墳時代中期以降、多くの首長たちが、朝鮮半島南部に軍事介入しようとしたのである。

 

 また、下垣仁志の「古墳時代の王権構造(吉川弘文館)」(以下下垣論文という)によれば、地方の首長たちは、それぞれの首長たちが、ヤマト王権からの「儀礼管理」のミニ版の「儀礼管理」を自らの地域内で行うことで、地方における自らの権力を強化しようとした、という。

 

 清家論文では、「古墳時代前期において鏡などを用いた儀礼は、古墳祭祀においてもっとも重要視されていた」のであり、「軍事的儀礼」よりも「鏡などを用いた祭祀により力点が置かれてい」たという。

 

 この点については、異論がある。

 

 「鏡などを用いた儀礼」が「古墳祭祀」である。この「など」に何が入るかによるが、「鏡などを用いた儀礼」が、「もっとも重要視されていた」という言い方はおかしい。また、古墳祭祀にとって埴輪も重要である。

 

 清家論文がこのように鏡にこだわるのは、鏡と神仙思想との関係からだろうが、鏡自体は、北部九州では弥生時代時代中期から、瀬戸内海沿岸や畿内では、弥生時代後期から、流入している。そうして流入した鏡と神仙思想や古墳との関係を、「神仙思想とそれに関わる祭祀」の「勃興」などと、過大に評価はできないと考える。

 

 清家論文では、「古墳時代前期社会においては、軍事的機能とともに鏡などを用いた儀礼に代表される別の側面が、首長には必要とされ、後者がより強く求められた」という。

 

 この点については、異論がある。

 

 「古墳時代前期社会において」首長に「求められた」ものは、大規模開発の推進と、交易ネットワークへの参入による、大規模開発のための先進文物の入手である。

 

 首長たちが、集落の住人達の支持を得て、彼らを様々な行動に動員するために、そうした彼らの支配が正当性を得るために、儀礼が活用された。

 

 だから、儀礼は何時も必要だった。そして、古墳がなくなると、その役割は仏教寺院になった。つまり、儀礼か軍事か、ではなく、儀礼に加えて軍事的要素が必要になったということが問題になると考えられる。

 

 清家論文では、「この傾向は弥生時代後期にも遡る」といい、「この時期から女性首長は登場し、そして卑弥呼も擁立される」という。 

 

 この点については、異論がある。

 

 先述したように、清家論文のいう「この傾向」は古墳時代前期からで、弥生時代後期には遡らない。だから、清家論文のいう「この傾向」は、卑弥呼の擁立とは関係がない。 

 

 清家論文では、続いて「4女性首長、その後」で、以下のようにいう。

 清家論文では、「古墳時代中期になると」「女性首長の姿が消えて行く」という。


 そして、「埋葬施設に石棺が前代より多く使用される」「古墳時代中期」に、「女性首長が存在するのであれば骨が見つかる可能性は前期より高いはずである」が、「古墳人骨をみてみると、大型・中型前方後円墳の主要埋葬施設から出土する女性人骨は基本的にない」という。


 ここから、清家論文では、「古墳時代中期における前方後円墳主要埋葬使節の被葬者は男性がほとんだった」という。

 

 また、「鏃と甲冑の副葬率」は、古墳時代前期の近畿の前方後円墳主要埋葬施設の67%であるが、地方まで広げると50%にまで低下する。しかし、この数字は、古墳時代中期では90%を越えるという。

 

 さらに、「前期の末葉ごろを境にして首長墳の副葬品には武器副葬がより比重を増していく」ので、「中期の首長には軍事的機能が前期以上に求められた」という。


 清家論文のここまでの論述には特に異論はない。


 清家論文では、こうした変化の背景として、「韓半島への倭の軍事的関与」と、その「韓半島での軍事行動が敗北に終わった」ことが契機となり、こうした「韓半島での動向や敗北経験から、ヤマト政権が軍備と軍事体制を変革し諸地域の首長を軍事的に編成することを試みた」ということを挙げる。


 補足すれば、朝鮮半島南部での高句麗に対する敗北は、そのまま何の対応もせずに座視していれば、高句麗の渡海による九州上陸もありえると、当時の「倭王」には感じられたと考える。


 だから、清家論文がいう「諸地域の首長を軍事的に編成する」試みは、現実に朝鮮半島南部にどんどん軍事介入していこうということではなく、白村江の戦いで敗北した中大兄皇子が考えたように、たぶんに防衛的なものであったと考えられる。


 そして、そうした軍事編成により、百済と提携が出来て、そうした機会があれば、出兵自体は何度か行われたと考えられる。しかし、その出兵は恒常的なものではなかったと考えられる。


 だから、実際の戦闘行為ということへの対応ということよりも、地方の首長を組織し動員することが重要であったのであり、その組織化と動員の原理が父系性原理であった。ここから古墳時代中期の地方首長が男性に切り替わっていくことになったと考えられる。

 

 清家論文では、「その際に軍事的機能を持たない女性では、首長として軍事編成に対応できない」ので、「女性は首長権を手放し、首長層は父系化が進んだ」という。


 古墳時代前期の地方の首長は、有力な複数の親族集団から選出されたと考えられ、その選出母体の範囲は、かなり広範囲であったと考えられる。


 清家論文では、「女性は首長権を手放し」と比喩的に書いているが、要するに、そうした複数の親族集団の構成員から、女性が首長に選ばれなかったということである。


 だから、それは「継承」ではなく、「選出」ということの結果であったと考えられる。

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