清家章「卑弥呼と女性首長(学生社)」を読んで(12) | 気まぐれな梟

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 今日は、椎名林檎の「Rock&Hammer」を聞いている。


 清家章は、「卑弥呼と女性首長(学生社)」(以下清家論文という)の終章「時代のうねりの中でー女性の地位と卑弥呼」の「1はじめに」で、以下のようにいう。



 清家論文では、「王や首長には祭祀能力が備わっていなければなら」ず、「祭祀能力は地位継承の前提として評価されるべき」であるという。

そして、その前提として、「弥生時代終末期から古墳時代前期の女性エリートが担った祭祀、とくに卑弥呼が行っていたという祭祀「鬼道」の内容について明らかに」するという。

清家論文の、この目的については、さしあたり異論はない。


 清家論文では、続いて「2神仙思想と卑弥呼」で以下のようにいう。


 清家論文では、「弥生時代や古墳時代の墳墓に認められる埋葬儀礼の中には」、大型の鏡の副葬や複数枚の鏡の副葬など「神仙思想とかかわりを持つ要素が多」く、「卑弥呼の鬼道」は、「神仙思想にかかわる祭祀であった」という。


 また、「弥生時代終末期から古墳時代前期に、刀剣やヤリガンナなどの鉄器を故意に折り曲げて副葬する事例がある」が、この「折り曲げ鉄器」は鏡の代用品であり、折り曲げ鉄器の副葬は、「鏡の呪力を得るために鉄器を折り曲げるという神仙思想にかかわる呪法であった」という。


 清家論文では、ここから、「神仙思想とそれにかかわる呪法は首長層だけでなく、地位の低い階層にも広がっていた」という。

 

 清家論文のこれらの点についても、異論がある。


 清家論文が「神仙思想」の前提とする鏡の副葬については、北部九州では、弥生時代中期前半に多紐細紋鏡が、弥生時代中期後半に前漢鏡が、甕棺墓などに副葬され、弥生時代後期には、新の王莽鏡、後漢鏡が甕棺墓などに副葬された。


 また、弥生時代後期前半には、中国地方や近畿地方などの東方世界に、王莽鏡、後漢鏡が、破鏡として流入し、集落生活遺構から出土する。

 しかし、中国地方や近畿地方で破鏡または完鏡が副葬されているのは、そのほとんどが古墳であり、それらの副葬が始まるのは布留1式期以降の古墳時代に入ってからであると考えられる。


 だから、清家論文がいう、「神仙思想」の「広が」りは、北部九州では弥生時代中期前半以降、中国地方や近畿地方などの東方世界では、古墳時代に入ってからであると考えられる。


 倭の5王時代に「男性継承」があったのか、なかったのか、現状の考古学からは解明できないし、現状の文献史学でも解明できない。

 しかし、様々な地域集団の代表として選出されるその時々の「倭王」の地位とその経過は、それが「継承」されるという概念とは、少し異なった実態であると考えられる。


 清家論文では、続いて「3弥生時代中期から古墳時代前期の軍事的緊張と女王・女性首長」で、以下のようにいう。


 清家論文では、「神仙思想に由来する祭祀である」「鬼道」が、「弥生時代とくに終末期から古墳時代前期に」「浸透していたことを踏まえ、弥生時代から古墳時代へ社会が大きく変化する中での女王・女性首長の盛衰をあらためて整理」するという。そして、「この整理により、女王・女性首長の擁立の背景がみえてくる」という。


 そういえるかどうか、以下みてゆきたい。

 なお、前述したように、「神仙思想」が支配層に浸透したのは、北部九州では弥生時代中期前半以降で、中国地方や近畿地方などの東方世界では古墳時代に入ってからである。


 だから、邪馬台国が、弥生時代後期後半の北九州にあったとすれば、卑弥呼が鏡を使用した「神仙思想」による祭祀を行ったということに、矛盾はない。


 しかし、「弥生時代から古墳時代へ社会が大きく変化する」ことと、卑弥呼は関係がないと考えられる。


 清家論文では、「弥生時代中期の社会状況」で以下のようにいう。 

 清家論文では、弥生時代は、「人口増加の中で土地争いや水争いなどを発端として本格的な戦争が始まった」時代である、という。


 清家論文のこの点については、異論がある。


 まず、清家論文がいう「戦争」とは、どういう事態をさしているのだろうか?


 殺傷人骨自体は、縄文時代から出土しており、採取・狩猟経済の社会でも、例えば、狩場や後世の入会権のような山林利用のテリトリー、または、海辺の漁場などを巡って、近隣の集団とのトラブルや武力抗争は発生したと考えられる。


稲作による農耕が開始したために戦争が多くなったというと、狩猟・採取経済は平和で戦争がなかったということになるが、農耕をしていなかった遊牧民や海洋民が、略奪や侵略を行った例は、古代の海の民、ゲルマン民族の大移動、バイキングの遠征、アッティラのフン族、高句麗、5胡16国、金、モンゴルの世界帝国など、世界史をみれば、沢山存在する。


だから、農耕と戦争は、あまり関係がない。農耕や牧畜により、人口が増えたことで戦争の規模が拡大したのである。


また、殺傷人骨は、少人数の乱闘または処刑や生贄などと解釈できる例が多く、森岡秀人によれば、発掘資料からは「大規模な合戦があった証拠はない」という。


清家論文では、例えば、20から30人規模の乱闘を、「本格的な戦争」というのだろうか?


そうではなく、近隣集団とのトラブルは縄文時代からあったが、そのトラブルのときに起こる小規模な武力衝突で使用される武器が進化したことで、殺傷人骨が増加したのであると考えられる。


 弥生時代中期の社会では、例えば畿内では、酒井龍一が指摘したように、拠点集落は相互に交易のネットワークを形成していた。そして、そのネットワークは、特産品の交易・交換などを媒介として、相互の拠点集落の存在を前提にしていた。ここから、弥生時代中期の社会は、比較的安定した社会であったと考えられる。


だから、近隣の集落と武力衝突が起こったとしても、弥生時代の拠点集落は相互に交易のネットワークを形成していたので、トラブルのあった集落を根絶やしにしてしまうような武力衝突はなかったと考えられる。


弥生時代中期の拠点集落は、単独で存在していたわけではなく、近隣の拠点集落との交易や水利の関係の中で初めて必要な物資を調達できたと考えられる。


もしも、敵対する集落を根絶やしにしてしまったら、交易のネットワークが破壊されるか、勝利した側の拠点集落が、その交易のネットワークから排除される結果にもなりかねない。そうなったら、その拠点集落は存続できなくなる。


だから、こうしたことを考えると、近隣の拠点集落間の武力衝突は、「本格的な戦争」などではなく、相手との共存を前提とした、「小競り合い」というものであったと考えられる。


清家論文では、続いて、特に「弥生時代中期は戦争が多発していた時代である」という。

 その根拠は、「環濠集落・高地性集落など防御的あるいは戦闘に対応したとみられる形態の集落が発達」したことであるという。


 清家論文のこの点についても、異論がある。


 「環濠集落」を軍事的なものと考える人もいるが、そうではなくて、「環濠集落」は、稲作とともに伝来した、集団の範囲を確定する集住の形式とそこに住む人々の協業の成果である、文化であると考える人もいう。


 前述したように、弥生時代には、戦国時代の国人領主や大名のように近隣の集落を攻撃して滅ぼしてしまうような戦争は存在しなかったと考えられる。


 弥生時代には、集落への大規模な攻撃などなかったのだから、「環濠集落」は軍事的なものではないと考えられる。


 また、弥生時代後期や終末期になってからも「環濠集落」が作られ続けた地域も多く、そうした地域で「環濠集落」がなくなるのは、最終的には古墳時代前期である。これは、遠隔地との交易のネットワークが一元化されたため、交易の船団を監視する必要がなくなったためであると考えられる。


 だから、弥生時代後期になって「環濠集落」がなくなったわけではない。


 「環濠集落」についていえることは「高地性集落」についてもいえる。


 「高地性集落」を軍事的なものと考える人もいるが、「高地性集落」は、遠距離の交易ネットワークが形成されたことに伴う、交易路の監視を行うためのものであるという人もいる。


 「高地性集落」は海や川、平野を見渡す見晴らしのいい山や丘の上に形成されている。こうした「高地性集落」を軍事的なものと考える人は、遠くから攻めてくる敵を発見して、狼煙で他の集落に伝えるのだという。


 しかし、弥生時代中期に、船団などを組んで遠くの敵を攻めて、何かいいことがあるのだろうか?


 そこにいる人たちを皆殺しにして、水田などを占領しようとするのか?そこにいる人たちを奴隷にしてしまおうとするのか?そこにいる人たちから貢物を奪い取ろうとするのか?


 どの想定を考えても、そうしたことが推定される発掘資料もなく、論理的にも成り立ちがたい想定である。

 

 こうしたことを考えると、「高地性集落」が発見した船団は、交易の船団であり、交易の市が開かれることを関係する集落に連絡するために狼煙が使われたと考えられる。

 

 こうした「高地性集落」は、弥生時代後期から終末期にかけて、作られており、「高地性集落」がなくなるのは、古墳時代前期になって、全国的な市場が形成されてからである。


 「高地性集落」が軍事的なものであるという人たちは、神武東征や邪馬台国の東遷などの話を信じてしまっているか、「信長の野望」か「戦国イクサ」などのテレビゲームのやり過ぎではないかと思う。


 以上の、「環濠集落」と「高地性種落」の検討によれば、「弥生時代中期は戦争が多発していた時代である」とはいえないと考える。


 また、「武器形石器に発達も中期に認められ」、「大型の石鏃が新たに登場し、それは対人兵器としての発達」であり、それは「中期の発達が最も顕著である」という。さらに、この時期には「殺傷人骨が頻繁に認められる」という。


 清家論文のこの点については異論がある。


 先述したように、近隣の集落とのトラブルや武力衝突は、縄文時代からあったが、その際に使用する武器が発達したことにより、こうした殺傷人骨が多く発見されるようになったのである。そうした、武器の発達は「本格的な戦争」とは何の関係もない。


 清家論文では、こうしたことから、「この時期の首長には軍事的力量と能力がより強く要求されていた」といい、「女性はそうした権能を持たないと認識されていたため、集団の代表的地位に付くことができなかった」という。


 清家論文のこの点については異論がある。


 清家論文が、ここでいう「軍事的力量と能力」とは一体どんなものだろうか? 

 

 先述したように、清家論文がいう、弥生時代中期の「本格的な戦争」とは、対戦相手との共存を前提としている小規模な武力衝突や小競り合いである。それでも、その小競り合いを指揮する人物には「軍事的な力量と能力」が必要とされたと考えられ、そうした軍事に関わるのは男子であったと考えられるので、小競り合いを指揮したのは、男性であったと考えられる。

 

 こうした事情は、弥生時代中期に限られたものではなく、弥生時代前期から弥生時代後期後半、終末期まで、程度の違いはあれ、同様であったと考えられる。

 

 先述したように、清家論文が、弥生時代後期や終末期と考える、墳丘墓の主要埋葬で男性的要素がない場合は、多くが古墳時代前期の例であり、弥生時代後期では、その確実な例はないと考えられる。

 

 近隣の集落との小競り合いがなくなるのは、「環濠集落」が廃絶し、広域の用水路の掘削など、地域の大規模開発が進展する、弥生時代終末期から古墳時代前期にかけてであると考えられる。

 

 ここから、仮に清家論文の議論を生かして考えれば、女性首長が登場するのは、近隣の集落との小競り合いがなくなったことによるものと考えられ、その画期があるのは、清家論文のいう弥生時代後期ではなく、早くて弥生時代終末期、遅ければ古墳時代前期であると考えられる

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