今日は、椎名林檎の「 becoming」を聞いている。
清家章は、「卑弥呼と女性首長(学生社)」(以下清家論文という)の第4章「卑弥呼はなぜ独身だったのか」の「3産む者と産まざる者―地位の継承と未婚・既婚」で以下のようにいう。
清家論文では、「男性が王位を継承することが原則であっても、王位継承は世襲ではない」といい、「父系継承」ではなく「男性継承」である、という。
この点については、清家論文に異論がある。
清家論文がいう「父系継承」ではない「男性継承」という概念も、非常にわかりにくい、奇妙な考え方であると考えられる。
清家論文がいう、このような「父系継承」ではない「男系継承」が存在した根拠はどこにあるのだろうか?
清家論文でも指摘しているように、社会の基層が双系的社会であるときに、支配層の最上部から父系原理が持ち込まれ、その父系原理によって徐々に支配層が組織化され、それに伴って父系原理が社会に浸透していくと考えられる。
こうした経過を考えると、父系継承なき男系継承など、ありえないと考える。
清家論文では、続いて、第4章「卑弥呼はなぜ独身だったのか」の「4女王・女性天皇と卑弥呼の中継ぎ的性格」で以下のようにいう。
清家論文では、古墳時代前期の社会は、「首長位や家長位は男女どちらが継承しても良い」「女性が継承しても良いなら、女性からその子へ地位が継承されても良い」という「双系的社会」であったので、こうした女王・女性天皇の場合と異なり、「女性首長や女性家長は婚姻や出産を制限される必要がな」かった、という。
しかし、清家論文では、「王位・天皇位は男性継承が基本であるので、女王・女性天皇は独身性が問われ出産が制限される」という。
清家論文のこの点についても、異論がある。
問題は、清家論文がいう「王位・天皇位は男性継承が基本である」とされたのは、いつ頃のことなのか?ということである。
ここで清家論文がいう「王位・天皇位は男子継承が基本である」といえるのは、早くても、欽明天皇の王統が確立し、その王統が父系原理で継承され始めた、6世紀半ば以降のことであると考えられる。
だから、清家論文では、6世紀半ば以降のことを、3世紀や4世紀、5世紀の社会に、根拠なく遡及させていおり、清家論文のいう「男子継承」は、根拠のない幻想であると考える。
清家論文では、大王位・天皇位が「男性継承」であることから、「女王と女性天皇の中継ぎ的性格」が生まれるという。
この点についても、清家論文に異論がある。
清家論文がいう、「女王と女性天皇の中継ぎ的性格」は、大王位・天皇位が「男性継承」であることから生まれるということは、まず男性が天皇位に就くことが検討されたというならば、そのとおりであるが、何度も言うが、問題は、そういうことがいつごろ起こったことであるのかということである。
この点についての清家論文の年代観は、それは弥生時代後期後半以降生じたものであるというものであるが、その年代観には、先述したように根拠がなく、受け入れることはできない。
清家論文では、「中継ぎ」と「本格」は対立せず、「皇極天皇以前の王位・天皇位は基本的に終身制でひとたび即位すれば死ねまでその地位にある」ため、「能力のない人物が王・天皇となることは当時の政権にとってリスクを背負うことになる」ので、女王・女性天皇は、その「能力は男子に劣るものでないからこそ、王・天皇になることができた」という。
しかし、この「中継ぎ」としての女性天皇の即位は6世紀後半から7・8世紀にかけてのことである。
推古天皇は、弟の崇峻天皇が蘇我馬子により暗殺された後、子の竹田皇子に天皇位を伝えようとし、竹田皇子の成長を待つために即位した。
皇極・斉明天皇は、蘇我氏の強い影響力の基に即位し、乙巳の変で退位するが、中大兄皇子(天智天皇)の強い影響力の基に再度即位した。
皇極天皇としては、蘇我氏に関係する血統を天皇とするために、斉明天皇としては、中大兄皇子の隠れ蓑となるために、それぞれ即位した。
持統天皇は、子の草壁皇太子の死亡を受けて、天皇位を孫の軽皇子(文武天皇)に伝えようとし、軽皇子の成長を待つために即位した。
元明天皇は、子の文武天皇の死後、孫である首皇子(聖武天皇)に天皇位を伝えようとして、首皇子の成長を末ために即位した。
こうした女性天皇の即位は、欽明天皇に発する王統の継続を前提として、その王族の中でも天皇自らの血統や外戚の血統により天皇位を確保し続けたいという、強い意志から行われたものである。
また、称徳・孝謙天皇は、女性で唯一皇太子となり、橘奈良麻呂の謀反や恵美押勝の乱を勝ち抜き、2度目の即位では出家したまま天皇となり、僧の道鏡を後継の天皇としようとした。
この称徳・孝謙天皇には、「中継ぎ」という意識はなかったと考えられる。
だから、このような女性天皇の即位経過からは、勢力の均衡のための「中継ぎ」ということよりも、王族や群臣の関与を拒否し、例えば、当時の天皇の家族で天皇位を独占しようとする意志が感じられ、こうした天皇の家族の権力強化こそが、女性天皇を生んだと考えられる。
ここから、女性天皇は、6世紀後半以降の天皇の権力の強化を前提として生まれたと考えられるので、女王や女性天皇の「中継ぎ的性格」を弥生時代後期や古墳時代に遡及させることはできないと考える。
そして、称徳・孝謙天皇以降、江戸時代初期まで女性天皇は見られない。
清家論文では、また、魏志倭人伝の「共立」という言葉は、魏志東夷伝の扶余・高句麗・韓伝では、「王の嫡子がなく継承者が不肖で諸族・諸国の争いを抑止できないときに即位する王にたいして」、「用いられている」ので、卑弥呼擁立の際に、「王位継承問題があった」という。
清家論文によると、邪馬台国の卑弥呼の時代から、「男性継承」が確立し、それを前提とした「女王と女性天皇の中継ぎ的性格」が生まれていた、という。
清家論文の、ここでの論述についても、異論がある。
魏志倭人伝の「共立」は、世襲王権を前提とした父系継承が存在したという、あくまで中国王朝側の解釈であって、その言葉だけから、卑弥呼擁立の際に、「王位継承問題があった」ということはできない。
何度も述べてきたように、卑弥呼の「王位」は、倭国王の「王位」であり、その「継承」は、九州北部の様々な国々の首長による合意形成によって行われる。卑弥呼は邪馬台国の首長であり、九州北部の倭国の国々の代表となり、中国の王朝から倭王として承認されたのである。そして、その過程を考えると、それは、「継承」というよりも、「選出」という方が実態に即していると考えられている。
清家論文では、男性が連続している自民党の総裁選出を「男性継承」であるというのであろうか?
だから、「男性継承」や「女王と女性天皇の中継ぎ的性格」を、弥生時代後期後半の邪馬台国の卑弥呼の時代に遡及させることはできないと考える。
清家論文では、続いて「5まとめ」で以下のようにいう。
清家論文では、卑弥呼の独身性は、「地位継承方法、卑弥呼の政治的性格から倭国乱の要因にまで結びつく」という。
清家論文の、この点にも異論がある。
これまでみてきたように、世襲王権や父系継承が確立していない邪馬台国の卑弥呼の時代に、それらを前提とした「卑弥呼の独身性」を論じる根拠はないと考える。