今日は、椎名林檎の「CRAZY DAYS CRAZY FEELING」を聞いている。
清家章は、「卑弥呼と女性首長(学生社)」(以下清家論文という)の第4章「卑弥呼はなぜ独身だったのか」の「1女王・女性天皇の独身性」で以下のようにいう。
清家論文によれば、魏志倭人伝の「年已長大無夫婿」という記述と、後継者の台与が「宗女」とされ、卑弥呼の子ではないと考えられることから、卑弥呼は独身であったと考えられるという。
そして、神功皇后、飯豊皇女、推古天皇、皇極(斉明)天皇、元明天皇、元正天皇、称徳(孝謙)天皇の例を挙げて、女性天皇の婚姻について確認した結果、「古代の女王と女性天皇は、生涯未婚であるか、あるいは寡婦かに限られており、即位後は配偶者を持たず子供を産まないという点で共通する」という。
しかし、この点には、異論がある。
清家論文の例示のうち、神功皇后と飯豊皇女は伝承であり、推古天皇以以下史実とは区別して考え、そうした伝承の成立時期から、その伝承に反映する考え方がいつのことであったのかを検証する必要があると考える。つまり、清家論文では、その共通点とはいつからのことなのか、明らかにして論述すべきであると考える。
清家論文では、続いて「2女性首長と妊娠痕」で、以下のようにいう。
清家論文によれば、古人骨の骨盤の妊娠痕を分析してみると、「副葬品を持つ女性人骨にも、すべて妊娠痕は認められる」という。
例えば、周編山1号墓主要埋葬の女性は妊娠痕を有して」おり、「弥生時代後期後半から終末期」「における女性地域首長は結婚をし、子供を持つ者がいた」という。
そして、古墳時代でも、「中小古墳の女性被葬者にも妊娠痕が認められ」、「前方後円墳に代表される地域首長墳で」も、同様であると推定されるという。
ここから、清家論文では、「女性首長も基本的に婚姻と子供を産むことが許容されていた」という。
清家論文の、ここまでの論述には、周編山1号墓主要埋葬の年代は古墳時代であるということ以外は、大きな異論はない。
清家論文では、続いて「3産む者と産まざる者―地位の継承と未婚・既婚」で以下のようにいう。
清家論文では、女性首長は婚姻や出産が許容されるのに、何故、女性天皇では、それらが許容されないのか、について、「卑弥呼のような未婚女性は」「祭祀のため、あるいは霊的能力を高めるために男性を近づけなかった」という「聖処女説」は、後世の「男性支配の成立と裏腹の関係で女性祭祀の特殊化が図られた」結果生まれたことを、古代からあるかのように想定するもので、こうした考え方を「当然拒否する」という。
この点については、清家論文に異論はない。
清家論文では、女性首長と女王・女性天皇の間の「婚姻あるいは出産について」の「大きな違い」は、「地位継承に基づくものだと考えられる」という。
清家論文では、この点について、荒木敏夫の主張に依拠して、以下のようにいう。
荒木敏夫は、「王位継承が男系である」という前提で、「男性の王位継承者が欠乏したり、あるいは王位継承問題が発生した時には、一つの解決策として女性王族が即位する」といい、「即位した女王や女性天皇が新たに子供を出産する」ことで、「新たな王位継承候補者を増やして継承問題を悪化させないように」つまり「皇子誕生を未然に防ぐ目的で未婚あるいは寡婦の女性が登用され、彼女たちは独身を保ち続けた」という。
荒木敏夫のこの主張には、異論がある。
荒木敏夫は「王位継承が男系である」と前提するが、それはいつからいえるのだろうか?そして、そうした主張の根拠はどこにあるのだろうか?
清家論文によると、荒木敏夫は「5世紀の王位継承争いには、王族女子がまったく登場しないことから、王位継承が男系であるとする」という。
だから、荒木敏夫の主張の根拠は、日本書紀や古事記にそう書いてあるから、ということになる。しかし、そうした記述が、いつごろに、どういう経過で成立したのか、という史料批判抜きに、史実と受け取っていいのだろうか?
直木孝次郎、西條勉や高寛敏が指摘するように、日本書紀や古事記の系譜や物語は、何段階にもわたって改変されたものであり、その一番初めの伝承が構想されたのは、6世紀中頃の欽明天皇のころであったと考えられる。
だから、「王位継承争いには、王族女子がまったく登場しない」という考え方と状況があったことが確実であるのは、早くても、6世紀半ばごろのものであったと考えられる。
中国の史書に書かれた倭の5王の系譜は、倭王珍と倭王済の続柄が書かれておらず、高寛敏が指摘するように、仁賢天皇は倭王武と血縁関係がなく、多くの研究者が指摘しているように、継体天皇が越前の地方豪族であったとすれば、5世紀の段階では、「大王位は一つの大王家や系譜の中で継承されていない」と考えられる。
そして、そうしたバラバラな系譜を、継体天皇と手白香皇女の子である欽明天皇が、自分が古来からの正当な乎いう位継承者であるという主張の基に、一本につなぎ合わせたのが、日本書紀や古事記に書かれているの天皇の系譜の原型であると考えられる。だから、こうした系譜とそれに伴う物語は、極めて政治的な文書なのである。
清家論文で、こうした、「大王位は一つの大王家や系譜の中で継承されていない」という状況があることから、何故「王位継承が男系である」といえるのか、全く理解できない。それらは別のことであり、それぞれ論証されるべきものであると考える。
だから、荒木敏夫や清家論文は、日本書紀や古事記の記載を史料批判抜きに無批判的に受け入れ、6世紀半ば以降のことや考え方を、確実な根拠なしに、5世紀に遡及させていると考えられる。
清家論文では、魏志倭人伝からは、「男王の存在を当然視して」おり、「緊急避難的に女王が採用されている」ので、「卑弥呼や台与が未婚である理由は、祭祀的なものではなく、むしろ男性による王位継承という原則に求められる」という。
この点については、清家論文に異論がある。
清家論文でも指摘しているように、「魏志倭人伝は、父系社会である中国王朝の視点で描かれている」ので、「男王の存在を当然視して」いると考えられる。
また、倭国王は、邪馬台国や伊都国などのいくつかの国々の、外交や交易についての代表であり、邪馬台国は馬韓の月支国のような存在であるので、新旧の倭王相互間に血縁関係はないと考えられる。そして、邪馬台国時代の倭国王の「王位」は、継承されるものではなく、中国王朝に承認されるものである。だから、倭王の後継者は、自動的に倭王の王位を継承できるわけではないと考えられる。
そして、邪馬台国時代の倭国には、「男性による王位継承という原則」があったとか、そこでは「男王の存在を当然視して」いたとかいうことの確実な根拠はまったくない。ただ、男王の次に争うがあり、卑弥呼が登場し、男王がたったが争いがあり、台与が立った、という事実経過が追えるだけである。
清家論文では、6世紀半ば以降の「男系の王位継承」を、5世紀に遡及させ、さらに、邪馬台国時代にも遡及させているが、その確実な根拠はないと考える
なお、清家論文では、「男子による王位継承は父系継承と厳密に言えばイコールでない」という。
そして、白石太一郎の主張を援用して、「古墳時代前期前半には、大和東南部にある柳本古墳群・大和古墳群・箸中古墳群に別れて大王墓が築造されて」おり、「鳥見山周辺の桜井茶臼山古墳やメスリ山古墳も大王墓に含めれば、4つの古墳群にまたがって大王墓は築造されている」ので、「初期ヤマト政権の盟主権は特定の集団によって世襲されて」おらず、「大和東南部の4つの地域的政治集団を構成する諸勢力の間を盟主権は移動した」という。
清家論文のこの点については、異論がある。
まず、柳本古墳群・大和古墳群・箸中古墳群などにある、大型の前方後円墳は、「大王墓」なのだろうか?その場合の「大王」とは何なのだろうか?そうした古墳の被葬者は「大王」と自称していたのだろうか?
こうしたことを考えると、この「大王」には明確な根拠はないことに気が付く。大王と呼ばれたことが確実なのは、倭王武=雄略天皇以降であり、倭王と呼ばれたのは、卑弥呼以降では、台与がそう推定されるが、以降、倭王讃まで確認できない。なお、王賜銘鉄剣の存在から、倭王斉が、国内で「王」と呼ばれたのは確実であると考えられる。このように、「大王」や「王」は、中国の王朝との関係によって名乗ることができるものである。
だから、中国と関係を持たなかった時代は、そのころの社会構造が首長制社会であったことを考えると、「大王」や「王」ではなく、「大首長」や「首長」と呼ばれるべきものである、と考えられる。
また、そのような「大首長」や「首長」が、緩やかな連合は形成しつつも、それぞれの地域を基盤として併存していたとも考えられる。そうすると、大型の前方後円墳は、必ずしもそうした「大首長」や「首長」の「代表者」であるとはいえないし、それぞれがまったく無関係に、それぞれが競い合いながら、その時々の影響力が及んだ範囲から人々を動員して、大型前方後円墳を構築したとも考えられる。
例えていえば、戦国時代の国人一揆と、それに参加したりしなかったりする個々の国人との関係に似ていたとも想定できる。
だから、一つの集団を前提として、その「盟主権」の移動を想定するという議論は、それしか成り立たないものなのか、論証され、かつ検証されるべきもので、決して自明のものではない。大型の前方後円墳の築造の順番の推定からは、それらを築造した勢力の相互関係は分からない。
そう考えると、考古学者達が好きな、大王墓の系譜をたどろうとする試みは、それほど重要な意味を持たなくなるし、三輪山の付近に「王朝」が設定できる確実な根拠があるわけではない。
だから、現状の考古学では、わからない、というのが正しい答えであると考える。
また、大型の前方後円墳がある古墳群が時代とともに移動する現象は存在するが、それが、移動した先に昔からいた人たちの勢力が強くなって、そうした古墳を築造できるようになったのか、移動する前にいた人たちが、新天地を開拓して、そこにそうした古墳を築造したのか、どちらの場合なのかは、それぞれ個別に議論すべきである。
そして、古墳群の移動は、その古墳群の存在する地域の人々に「盟主権」が移動したのであり、移動前の地域にいる人々と移動後の地域にいる人々は、系譜が異なるということも、必ずしも自明のことではない。
石野博信がいうように、布留1式期に入ったころ、纏向遺跡では、集落を離れる最後のイベントが盛大に行われていたと考えられる。そして、それと並行して、あるいはそれに遅れて、三輪山山麓に大型の前方後円墳が築造されていった。そのときには、纏向遺跡は存在していなかった、と考えられる。
これは、弥生時代後期の墳墓が、集落から離れた丘陵地に築造されていく傾向の延長線にあるものであると考える。
纏向遺跡は、奈良盆地の東部の大規模開発拠点として形成された。そして、当時の技術ではその開発が限界に来たとき、新たな地で大規模開発が企画された。それが、奈良盆地の北部の佐紀地域であり、また、大和川を下って、馬見丘陵付近であった。なお、奈良盆地中央部の低湿地や、奈良盆地の南部の飛鳥丘陵は、当時の技術では開発が難しく、それらが開発されるのは、5世紀以降となる。
前方後円墳は、こうした大規模開発の拠点に形成される。だから、三輪山山麓に大型前方後円墳が築造されていた時には、佐紀地域に、纏向遺跡に代わる新たな拠点集約が形成され、三輪山山麓の大型前方後円墳に併行または少し遅れて、佐紀にも大型の前方後円墳が築造される。
そして、その後、河内平野の大規模開発が行われ、百舌鳥・古市古墳群が形成されるが、こうした、三輪山山麓→佐紀丘陵→河内平野という古墳群の移動は、出発点の纏向遺跡からの強い影響力によって開始されたものであり、それと無関係に、それぞれの在地の勢力が拡大したわけではない。
そして、これらの勢力が、一つにまとまっていて、王位を継承していたとは、確実にいうことはできない。
前方後円墳は、古墳時代前期は、四隅突出墓のような、文化圏であり、支配被支配の政治的な関係ではないと考えられる。それが政治的な関係に転嫁してゆくのは、5世紀の倭の5王以降であり、それも、磐井の「反乱」の経過のように、確立したものではなかったと考えられる。
だから、清家論文では、こうした「盟主権」の移動から、「男子による王位継承」を主張するが、どこから、何でそういえるのか、根拠が示されておらず、全く理解できない。