今日は、椎名林檎の「You make me feel so bad」を聞いている。
清家章は、「卑弥呼と女性首長(学生社)」(以下清家論文という)第2章の、「3卑弥呼登場前史―弥生時代の首長層と男女」の「③弥生時代後期後半~終末期における首長層と男女」で以下のようにいう。
清家論文では、「弥生時代後期後半から終末期に属するおもだった墳丘墓の主要埋葬の副葬品リスト」から、「多くの女性首長が存在した」という。
このリストは、清家論文のP91、92の表4「弥生時代後期~終末期における墳丘墓の主要埋葬の男性的要素の有無」(以下表4という)である。
この表4に掲載されている「墳丘墓」には、それぞれの「墳丘墓」の築造推定年代の表示がないので、仮に岩永省三の「弥生時代における首長層の成長と墳丘墓の発達(九州大学総合研究博物館研究報告第8号)」(以下岩永論文という)がいう、それぞれの墳丘墓の築造推定年代を当てはめていく。
その結果、岩永論文では、黒宮大塚と津古生掛は古墳としている。また、宮山と矢藤治山は、箸墓との先後関係の議論があり、古墳とする意見も有力であるという。そして、養久山1号、黒田は終末期末か古墳時代初頭か、意見が割れていて、古墳の可能性もあるという。
前方後円墳の発生過程(2)と(4)で論述したように、各地の前方後円形の墳丘墓は古墳であり方後円形墳丘墓は古墳であり、初期の前方後円墳や前方後方墳は、布留1式期の箸墓古墳に後出する。
そこで、墳形が「前方後円形」と「前方後方形」であるものを古墳とすると、すでに古墳としたもの以外に、高部32号、高部30号、神門4号、神門5号、小田部、乃木山、観音寺山、芝ヶ原、ホケノ山、萩原1号、西一本杉ST008が古墳であると考えられる。
また、竪穴式石室に組合木棺があった石塚山2号、組合木棺が直葬された方墳と考えられる桂見2号は、それぞれ古墳とされている。桂見2号との関係で、桂見3号も古墳であると考えられる。
表4には、40の「墳丘墓」が掲載されているが、これまで見てきたように、そのうち20は古墳であると考えられる。
また、岩永論文では、表4の墳丘墓のうち、弥生時代後期のものは12あり、そのうち、弥生時代後期前葉のものは瑞龍寺山、弥生時代後期中葉のものは、小羽山30号、大風呂南1号、弥生時代後期後葉のものは、楯築、雲山鳥打1号、雲山鳥打2号、鋳物師谷1号、宮内雲山3号、門上谷1号、西谷3号、仲仙寺9号、仲仙寺10号であるとしている。
表4の残りの8が、弥生時代終末期の墳丘墓となる。
表4の「墳丘墓」をこのように区分し直し、古墳時代初頭、弥生時代終末期、弥生時代後期、それぞれで、清家論文のいう「男性的要素」がないものの数をカウントすると、古墳時代では20のうちの10で50%、弥生時代終末期では8のうち1で12.5%、弥生時代後期では12のうち4で33.3%となる。
なお、弥生時代後期を区分すると、後期前葉では1のうち1で100%、後期中葉では2のうち0で0%、後期後葉では9のうち3で33.3%となる。
以上のように、年代別に「墳丘墓主要埋葬の男性的要素」がないものの数とその比率をみていくと、清家論文がいう「多くの女性首長が存在した可能性を示す」ものは、古墳時代初頭の数と比率である。
そして、それは、弥生時代終末期には確認できず、弥生時代後期についても、弥生時代後期は長いので、前葉、中葉、後葉に分けてみていくと、統計的にいえば、母数が少ないこともあって、弥生時代のそれぞれの時期では、少ない件数であり、「鏃副葬と刀剣の棺内副葬がないからと言って被葬者が女性であるとは言い切れない」といえる。
ここから、清家論文のいう「弥生時代後期後半から終末期には、男性首長も女性首長も存在すること」は、表4からは論証できないと考える。
表4から分かるのは、古墳時代初頭には、「男性首長も女性首長も存在すること」である。だから、副葬品から見る限りは、女性首長の登場の画期は、古墳時代にあると考えられる。
以上みてきたように、清家論文の弥生時代後期から終末期には「多くの女性首長が存在した」という主張は、誤りであり、「多くの女性首長が存在した」のは、古墳時代初頭以降であると考える。
この点は、清家論文に対する、重要な異論である。
なお、清家論文では、なぜ、古墳時代の古墳を多数含むと考えられる表4を基に論述しようとしているのだろうか?
清家論文によれば、この表4は、松木武彦が1999年に書いた「副葬品から見た古墳の成立過程」(以下松木論文という)で作成した表を一部改編したものだというが、その際に、表に記載された一つ一つの遺跡について、有力な異論も含めて、その年代を検討はしなかったのだろうか?
この表4は、清家論文での論述の基礎的な材料の一つであると考えるが、清家論文がなぜこうした取扱いをしたのか、この点は、良くわからない。
なお、松木論文の表については、柳田康雄も、問題があると指摘している。
また、表4は、「最大長20メートルの墳丘墓に限定し」て作成されているが、その結果、全体の傾向を推測するための母数が少なくなっていると考えられる。この点についても、良くわからない。
清家論文では、続いて「4卑弥呼以後の社会と女性―古墳時代前期の首長層と男女」の「①古墳時代における副葬品と被葬者の性別」で、以下のようにいう。
清家論文では、古墳時代の男性被葬者の副葬品について、鏃や甲冑などの「武器・武具という争いに係るアイテムは、男性に限定される」という。また、腕輪型石製品のうち、「鋤形石の9割は近くは男性副葬品である鏃と一緒に出土」するという。
清家論文では、女性被葬者の副葬品について、腕輪型石製品のうち、「車輪石と石釧が被葬者の腕部に置かれて副葬される事例」は「きわめて少なく」「腕部配置型式と呼ぶ」が、こうした例は女性被葬者であると推定されるという。
清家論文のここまでの論述に異論はない。
清家論文では、続いて「②古墳時代前期における女性の役割」で、以下のようにいう。
清家論文では、古墳の被葬者の人骨や、人骨が不明な場合は①による副葬品から、古墳被葬者の性別を判定して分析した結果、「古墳時代前期の状況をみれば」、「弥生時代後期後半以降、女性の首長が増加し、その存在は一般的になるという傾向」は、「いっそう明確となる」という。
清家論文では、「向野田古墳」「和泉黄金塚古墳」「新庄天神山古墳」「元島名将軍塚古墳」の例をあげて説明し、清家章によると、「古墳時代前期における畿内の前方後円墳主要埋葬施設において、鏃・甲冑が副葬される割合は67%であ」り、鈴木一有によると、同様の事例の割合は「全国的には50%である」という。
清家論文では、ここから、「古墳時代に、とくに畿内ではポピュラーな存在である」「鏃副葬」「を首長墳で欠く理由は、性別によるものである」とし、古墳時代前期では、「女性首長の予想される最大値」ではあるが、「女性首長は畿内で約3割以下、全国で5割以上を占める」という。
清家論文のここまでの論述には異論はない。
しかし、前述のとおり、清家論文がいう「傾向」は、古墳時代前期以降にいえることである、と考える。この点には、異論がある。
清家論文では、続いて「5小結」で以下のようにいう。
清家論文では、「弥生時代中期から古墳時代前期までを通して、女性は男性とともに首長層を構成している」が、「弥生時代中期には女性の首長がまったくのところ認められない」のに対して、「弥生時代後期後半からその状況は変化し、古墳時代前期においては一定程度の女性首長が存在する」という。
清家論文では、こうした「考古学的分析から明らかになった首長位と男女の関係は、おおよそ魏志倭人伝が記す内容と適合的である」という。
清家論文では、「邪馬台国がかつて男王を立てて」いたことは、弥生中期には男性首長が基本であ」ることと「適合的」であり、「卑弥呼が弥生時代終末期の存在であり、その跡を継いだ台与が古墳時代前期初頭に活動したとするならば」、それは「弥生時代後期後半以降、女性首長が登場し始める考古学的様相と親和的である」という。
しかし、これまで検討してきたように、「考古学的様相」からは、弥生時代後期後半から弥生時代終末期にかけての間に、「一定程度の女性首長が存在する」ことは確認できていない。
だから、清家論文の推定の考古学的な根拠はなく、清家論文が「女性が首長の地位に就き始め、さらにその存在が一般的存在となる時期に卑弥呼と台与は登場した」とはいえない。
清家論文のこの点には異論がある。