清家章「卑弥呼と女性首長(学生社)」を読んで(7) | 気まぐれな梟

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今日は、椎名林檎の「望遠鏡の外の世界」を聞いている。


清家章は、「卑弥呼と女性首長(学生社)」(以下清家論文という)第2章の1「王位を継承とする男と女」の「1はじめに」で、以下のようにいう。


 清家論文では、魏志倭人伝に書かれた卑弥呼擁立以前の男王は、倭国王帥升である、という説と、帥升は伊都国の王であるという説があって、「説は定まっていない」という。


しかし、清家論文では、この二つを異なることのように考えているが、邪馬台国の卑弥呼は魏から親魏倭王とされたのであり、倭王の国である倭国は、邪馬台国以外の国を含んだものである。だから、邪馬台国自体も倭国の中の一つの国である。


また、魏志倭人伝の「其国」とは「倭国」」を指す。だから、卑弥呼擁立以前の男性の倭国王は、邪馬台国の首長であったわけでなく、倭国内の他の国の首長が倭国王であったと考えられる。


そうすると、中国への朝貢によって倭国王とされるのであるから、その男性の倭王は、後漢王朝に朝貢した伊都国王の帥升であったと考えられる。この点について、武光誠が、魏志倭人伝に書かれた「倭国大乱」とは、博多湾沿岸にある伊都国から有明海沿岸付近にある邪馬台国とで、倭国のリーダーシップが争われた戦乱であったと考えるのは、妥当であると考える。


なお、帥升が後漢王朝に朝貢したAD107年は、弥生時代中期に当たり、清家論文が後述する、弥生時代中期には女性首長がまったく認められないという、考古学的分析とも整合的である。


 清家論文では、続いて、第2章での論述の目的を次のようにいう。

 

 第2章では、「考古学的資料から首長層における男性と女性の上下関係を問い、そこからどちらの性が王位につくことが一般的であるのか、あるいは両性が王位につくことがあり得るのかを明らかにする」という。


そして、「墳墓」の「貴重な副葬品」から「被葬者の地位」を推定し、その推定による被葬者の「階層の上下」から、その「墳墓や墓域での男女の関係を明らかにし」、また、そこでの「男女の地位を追う」ことで、それらの「生前の男女の位置づけを知る」、という。

 

 この目的については、異論がなく、以降、手際よく紹介される様々な発掘事例についての解釈も、非常にわかりやすいものである。

 

 しかし、清家論文の論述とその結果については、重要な異論がある。


 清家論文では、「2被葬者のプロファイリング」の「①人骨と被葬者の性別」で、以下のようにいう。


 ここでは、墳墓から出土する骨を分析することで、性別や大まかな年齢を推定することができる、という。


 清家論文では、続いて「②弥生時代における副葬品と被葬者の性別」で、以下のようにいう。


ここでは、「副葬品によって被葬者の性別を判断する」と、「ゴホウラ聖貝輪おるいは武器副葬が行われる場合の被葬者は男性であり、イモガイ製横切貝輪を用いるのは女性に限られる」という。また、「鏡や玉類は性別を判定する材料にはならない」という。

 

 この、「玉類は男女の区別なく副葬されている」という指摘は、世間一般に流布している常識を覆すもので、重要な指摘である。

 

 清家論文の、ここまでの論述に異論はない。


 清家論文では、「3卑弥呼登場前史―弥生時代の首長層と男女」の「①弥生時代中期における女性の位置」の「イ北部九州の男女」で以下のようにいう。


清家論文では、「突出した質と量の副葬品を持つ墳墓が、墳丘墓とともに首長層の墓である」と考え、「三雲遺跡南小路地区」「須玖岡本遺跡」「安徳寺遺跡」「立岩堀田遺跡」「吉野ヶ里遺跡墳丘墓」「二塚山遺跡」の発掘資料から、「北部九州でにおいて女性エリートの存在は確かに認められる」が、「首長層の頂点に立つ女性はおらず、代表首長というべき存在は男性が占めている」という。

  

 さらに、高倉洋彰の報告を基に、「前漢鏡が副葬される有力墳墓の被葬者は男性の割合が高い」という。

 

 そして、「弥生時代北部九州の首長層では、男性が優位に立っており、首長の地位は基本的に男性が占めていた」という。


 清家論文では、続いて「ロ畿内の男女」で以下のようにいう。


 ここでは、方形周溝墓や墳丘墓の発掘資料から、「首長層に中に男女が存在し、男性がその中で最も優位な位置にある」という。


 以上から、弥生時代中期北部九州でも畿内でも、「首長の地位は基本的に男性が占めていた」といえるという。


 清家論文のここまでの論述に異論はない。


 清家論文では、続いて「②女性首長の登場」で、以下のようにいう。


 ここでは、「周遍寺山1号墳」と「平原墳丘墓」の発掘資料から、弥生時代後期後半以降は、これまでの「状況が大きく変化」し、「主要埋葬施設に葬られる女性の存在がわずかではあるが認められる」という。


 なお、清家論文では、「周遍寺山1号墳」と「「平原墳丘墓」を「弥生時代後期後半から終末期」の墳墓とするが、異論がある。


 「周遍寺山1号墳」が「弥生時代後期後半から終末期」の墳墓であるとされる理由は、その四隅突出型に類似した墳形だけであるが、その墳形は発達した四隅突出墓とは考えられず、方墳への移行期のものであり、方墳の影響があると考えられる。ここから、「周遍寺山1号墳」は、すでに方墳が存在していたころの、古墳時代初頭、布留1式期始めごろのものであると考えられる。

 

「平原墳丘墓」の年代は、岡村秀典によれば、出土した中国鏡の型式から弥生時代後半であると、また、柳田康雄によれば、出土した鏡は仿製鏡でその年代は弥生時代終末期であると、それぞれ推定されている。

しかし、埋葬施設は、長大な割竹型木棺であり、古墳時代前期の古墳同様である。


また、出土した鏡は、柳田康雄がいうようにすべてが仿製鏡であり、寺澤薫が引用する岡村秀典の発言でも、「鏡の流入は遺跡で一括出土する最も新しい鏡群が最も多いはずであるのに平原鏡(の形式分布ー寺澤注)は正規曲線を示す」とされるように、それらの種類は、前期古墳から出土する鏡の種類と同様である。


さらに、隣接し後続して築造されたと考えられる2号墓の周濠付近から出土した西新式土器は、弥生時代終末期以降、古墳時代初頭まで使用されている土器であり、土器の年代からは、「平原墳丘墓」を弥生時代終末期のものと限定はできない。


これらのことから、「平原墳丘墓」は古墳時代前期に築造された、古墳であると考えられる。


以上から、清家論文が紹介する「周遍寺山1号墳」と「平原墳丘墓」は古墳時代初頭に築造された古墳であると考えられ、その発掘資料から、弥生時代後期後半以降は、「主要埋葬施設に葬られる女性の存在がわずかではあるが認められる」とはいえない。


 続いて清家論文では、「③弥生時代後期後半~終末期における首長層と男女」で以下のようにいう。


 清家論文では、「弥生時代後期後半から終末期に属するおもだった墳丘墓の主要埋葬の副葬品リスト」から、「被葬者が女性である」「可能性を持つ埋葬施設が半数近くも占めている」ので、「女性首長が全く認められない弥生時代中期にくらべ状況が大きく変化し」、「多くの女性首長が存在した」という。

 

 清家論文の立論の根拠は、このリストであるので、以下、このリストである表4について検討する。 

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