今日は、椎名林檎の「プライベイト」を聞いている。
清家章は、「卑弥呼と女性首長(学生社)」(以下清家論文という)第1章の1「古墳の定義と年代論」の「卑弥呼の活動期」について、以下のようにいう。
「魏志倭人伝」や「後漢書」「梁書」の記載から、卑弥呼の活動した年代を「2世紀末から3世紀半ばまで」とする。
このことに異論はない。
問題は、清家論文が、先述した誤った「実年代」の考え方によって、卑弥呼の活動したこの年代が、「考古学的時代区分でいえば、弥生時代終末期、土器様式でいうと庄内式期」であるとするところである。
しかし、布留0式再論(3)で推定したように、庄内式期の開始年代はAD290年からAD300年の前後であり、布留0式再論(6)で推定したように、布留式期の開始年代はAD350年前後である、と考える。
ここから、弥生時代終末期である庄内式期の年代は、おおむねAD290年からAD350年までの、約60年間となる。
ここで、弥生時代の土器様式の年代幅について考えてみる。
高倉洋彰が「AMS年代と考古学(学生社)」に掲載した論文「交差年代決定法による弥生時代中期・後期の実年代(以下高倉論文という)」によれば、唐津市卯宇木汲田遺跡、福岡市金隈遺跡、春日市伯玄社遺跡にちいて、土器形式に対応した埋葬された成人の人骨数から、「各(土器様)式期の成人墓の基礎数が7人前後と共通することから、土器1型式の時間幅は約70年である」という。
庄内式期の時間幅が、先述したように、約60年間とすると、高倉論文で推された約70年と、ほぼ同じとなる。
なお、布留式期の土器編年は、布留式期の社会構造が大きく変革され、土器の生産体制も大きく変わったと考えられるので、その型式の存続期間は、別途検討すべきであると考える。
以上みてきたように、清家論文のいう、弥生時代終末期についての「考古学的時期区分」は、まったく誤っており、庄内式期と邪馬台国は何の関係もない。
だから、安本美典が庄内式期を邪馬台国の時代であるというのは、全く理解できない。
また、武光誠が、邪馬台国の時代は庄内式期であるという前提の上に、北部九州の邪馬台国と大和の纏向遺跡の「併存」を主張するのも、全く理解できない。
そして、邪馬台国の所在地についての、清家論文の論述は、こうした誤った年代観に立っているために、従えないし、本来、論評の対象ともならいようなものであるが、以降、簡単に論述していきたい。
清家論文の第1章の2「邪馬台国所在地論と私の考え」では、「邪馬台国は畿内にある」という。そして、「魏志倭人伝に記載されている方位・距離・習俗や地名考証から邪馬台国の所在地を明らかにしようとする試みは」「いまだ結論をみない」ので、「考古学的見地から邪馬台国の所在地を考え」るという。
魏志倭人伝を全く無視して邪馬台国の所在地を考えようという、清家論文の主張には、異論がある。
邪馬台国の所在地問題は、文献史学の課題であり、魏志倭人伝の記載を離れて、考古学によって解明できるものではない。
それはそれとして、清家論文の論理展開を追っていきたい。
清家論文では、「考古学において邪馬台国の所在地を指示する資料として重要なものは、①巨大な墳墓の存在、②拠点集落の存在、③中国系威信財の分布」であるという。そして、「これらの点を現状の研究の中でみると邪馬台国は畿内にあると考えざるを得ない」し、「九州説が成り立つ余地は考古学的にはほとんど存在しない」という。
このような清家論文の主張は、第1章の1「古墳の定義と年代論」で展開された、「卑弥呼の活動時期」は、「考古学的時期区分でいえば、弥生時代終末期、土器形式でいうと庄内式期」であるという主張を前提にしている。
しかし、このような清家論文の「年代論」は成り立たない。
清家論文がいう、①巨大な墳墓の存在、③中国系威信財の分布は、布留式期に起こったことである。
また、②拠点的集落の存在は、纏向遺跡のことであるが、纏向遺跡が抜きん出た規模に拡大するのは、布留式期直前の、庄内式新段階(纏向3式期後半)のことであり、庄内式期の始めから半ばまでは、他の拠点集落とほぼ同様の規模であったと考えられる。
だから、布留式期の開始前後のことであるならば、畿内がそれらの中心となることは、わかりきったことである。巨大な墳墓は箸墓古墳で、拠点的集落は纏向遺跡である。そして、中国系威信財である画文帯神獣鏡や三角縁神獣鏡は、みな畿内から全国各地に配布されている。
先述したように、邪馬台国の卑弥呼の時代は、庄内式期の前の弥生時代後期後半から末にかけてである。だから、卑弥呼の時代ではない別の時代のことを持ちだして、邪馬台国の所在地を論証しようとするのは、論理のすり替えであり、そうした論証は成り立たないと考える。
清家論文のような、考古学者がいう、「考古学的見地からの邪馬台国所在地論」は、誤った年代観に立脚した、「砂上の空論」であり、いつか歴史の審判を受けることになると考える。
清家論文の邪馬台国所在地論に係る以降の論述について、指摘しておくことがある。
「前方後円墳の出現と卑弥呼」では、「箸墓古墳の後円部直径が百余歩に近い」ことと「箸墓古墳の被葬者は」「女性被葬者の伝承を持つことも、箸墓古墳=卑弥呼墓説に魅力的である」という。
そして、「前方後円墳の成立過程と邪馬台国」では、「前方後円墳という墳墓祭式が各地の墳墓や副葬品の要素を統合して成立した」ので。「卑弥呼が国々から「共立」されたのであれば、各地の墳墓要素を統合して生まれた前方後円墳に埋葬されるのがふさわしい」という。
清家論文では、「箸墓古墳についても軽々に被葬者を特定することはできない」というが、大和のどこかの前方後円墳に卑弥呼が埋葬されている」という。
このように、卑弥呼の墓が前方後円墳であるというのは、魏志倭人伝の記述を全く無視した暴論である。魏志倭人伝には、前方部については全く記載がなく、そのまま読めば、円墳または円形墳丘墓である。
箸墓=卑弥呼の墓という比定も、単なる思い付きの域を出ず、学問的な議論の水準ではない。
また、清家論文では、魏志倭人伝の「共立」ということだけは、取り入れて論理構築しているが、魏志倭人伝を無視するなら、全部無視して議論すべきであり、自説に都合のいいところだけは、魏志倭人伝の記述に依拠するのは、恣意的であると考える。
なお、清家論文では、「東遷説の是非」で、「邪馬台国は九州にあったものが、その勢力が東方の畿内に移動した」と考える邪馬台国「東遷説」を批判しているが、妥当な批判であり、「東遷説も成り立たちがたい」のはそのとおりであると考える。