清家章「卑弥呼と女性首長(学生社)」を読んで(5) | 気まぐれな梟

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 今日は、椎名林檎の「カプチーノ」を聞いている。


清家章は、「卑弥呼と女性首長(学生社)」(以下清家論文という)第1章の「古墳の定義」の「整理すべき点」の③「実年代論」の(3古墳時代中期の年代、について、以下のようにいう。


「古墳時代中期の時期を決める指標の土器」である「須恵器の最古相の一つである高蔵73型式の年代は」、「5世紀中頃に相当すると考えられていた」が、「埼玉稲荷山古墳鉄剣に記される「辛亥年」は471年であり、稲荷山古墳出土須恵器の年代が数十年古く見積もられることになった」。


 「大阪府大庭寺遺跡から、これまで最古相と考えられてきた高蔵73型式の須恵器よりさらに古いと考えられる須恵器が見つかり、須恵器の出現が4世紀代に遡りつつある」。


「須恵器出現の年代が遡及することは、「これまた年輪年代法による証拠と矛盾しない」。


「このことによって、古墳時代中期の年代はさかのぼり、それに押されるように古墳時代前期の年代も従来の考えよりも古くなると考えられる」。


 こうした清家論文の論理展開でよく分からないことは、第一に、古墳時代中期の年代の遡及に「押されるように」古墳時代前期の年代も遡及する、ということである。


 それぞれの遺跡の年代は、その遺跡自体で検討すべきであり、仮に、古墳時代中期の年代が遡及しても、自動的に、古墳時代前期の年代が遡及するわけではない、と考える。


 第二に、最古相の須恵器が発見され、須恵器出現の年代が遡及することが、古墳時代中期の年代が遡及することになる、ということである。


 しかし、最古の須恵器の出現時期と、須恵器が盛行した時期は異なる。だから、時期区分で重要なのは、盛行した時期である。つまり、最古の須恵器の出現時期が早まっても、須恵器が盛行した時期が変わらなければ、年代区分が変わるわけではない。



 そこで、まず、最古相の須恵器の出現年代について検討する。


須恵器の編年については、布留0式再論(4)で検討し、酒井清治の所説に従い、初期須恵器のTG232型式の年代をAD400年前後とした。


 清家論文がいう「大阪府大庭寺遺跡から」発見された、「これまで最古相と考えられてきた高蔵73型式の須恵器よりさらに古いと考えられる須恵器」が、このTG232型式の須恵器である。


このTG232型式の年代はAD400年前後と考えられるが、TG232型式に先行する初期須恵器が存在することが明らかになっている。だから、「須恵器の出現が4世紀代に遡りつつある」ということは、言える。 


そうであっても、とりあえずは、清家論文と同じように、AD400年前後に最古の須恵器が出現したということでいいと考えられる。


 なお、白石太一郎が「稲荷山古墳の鉄剣を見直す(学生社)」でいうように、辛亥年の銘を持つ鉄剣は、TK47型式の須恵器に係る稲荷山古墳の主郭ではなく、追葬された礫郭から出土しており、その礫郭から出土している「三葉の鈴杏葉」は、MT15型式の須恵器に共伴するものである。


 だから、AD471年は、MT15型式に係ることになる。



 次に、このように、初期須恵器の年代がAD400年前後となったことが、古墳時代中期の年代が遡及することになるのか、であるが、従来から、古墳時代中期はAD5世紀ごろと考えられており、このAD5世紀は倭の5王の時代であり、古市、百舌鳥古墳群が形成された時代である。



だから、古墳時代中期の開始がAD400年前後であるということは、その年代が遡及したとかいうことではないと考える。


 なお、須恵器出現の年代の遡及と年輪年代法の測定結果については、よくわからないが、年輪年代法は先述したように、AD640年以前については100年程度の「誤差」があると考えられている。だから、AD640年以前のものについて、年輪年代法による測定結果と同じであるということは、その正当性を何ら論証するものではないと考える。


 古墳時代中期の開始年代が「遡及して」AD400年前後となったことで、古墳時代前期の開始年代が遡及するのだろうか?


古墳時代の区分は、おおまかにうと、前期、中期、後期であり、中期がAD400年前後に開始したとすると、後期は6世紀前半から後半であるので、後期の開始をとりあえずAD500年とする、そして6世紀末には、全国的には古墳が築造されなくなる。


そこで、前期であるが、前期の期間も中期や後期と同じように100年間程度あっただろうと考えるから、中期の開始年代が遡及すると前期の開始年代も遡及するという考えになる。


しかし、前期、中期、後期のそれぞれの年代は、それぞれに根拠があって推定されている。だから、中期の開始年代が遡及しても、自動的に前期の開始年代が遡及するわけではない。


 古墳時代前期の年代は、布留式土器の編年から推定されるが、初期の須恵器は祭器として、また、一部の支配層の人物が使用するものとしてとして使われたため、社会に広まるには時間がかかった。だから、須恵器が出現してすぐに布留式土器がなくなったわけではないので、布留式土器の編年の新段階は初期須恵器の編年と重複すると考えられる。


 このことから、初期須恵器の出現時期が遡及しても、布留式土器の編年が変わらなければ、布留式土器の編年を基にした古墳時代前期の年代は変わらない。

 布留式土器の編年については、布留0式再論(6)で検討したが、職須恵器の修験年代が遡及しても、そこで推定した布留式器土器の編年は変わらず、そのため、古墳時代前期の年代も変わらない。 


 なお、寺澤薫は「弥生時代の年代と交流(吉川弘文館)」で、関川尚功の主張を「須恵器生産開始年代から遡及させての古墳出現期の歴年代決定法」であり、関川尚功の編年では、「纏向1式の始まりは3世紀末ないし4世紀初頭という」ことになるが、それでは、「布留式の1様式は25年と50年程度」となるが、庄内式を細分すると、「庄内式の1様式は10から15年計算ということにな」り、土器様式の継続期間としては短すぎる、という。


そして、関川尚功は、「須恵器生産開始時期を5世紀中頃とし」、「中期前半(布留3式期)=5世紀前半、前期後半(布留2式期)=4世紀後半、前期前半(布留1式期)=4世紀中頃と遡行し、箸墓古墳もホケノ山古墳も前期前半の最初に置く」という。


ここで、関川尚功のいう「須恵器生産開始時期」を初期須恵器の登場時期と考えずに、陶邑の生産が確立し拡大しつつある時期ととらえ、岩崎卓也のように、その時期をTK216とすれば、布留式新段階の布留3式期、布留4式期は、TG232などの初期須恵器の登場時期と重複する。


そうすれば、関川尚功の年代観はおおむね妥当であると考える。


そして、布留3式期の初めを初期須恵器の登場時期のAD400年前後とし、布留1式期の開始をAD350年前後とすると、布留1式期、布留2式期で、約50年間となり、「布留式の1様式は25年」で、土器様式の継続期間としては妥当であると考えられる。


寺澤薫が批判する「庄内式の1様式は10から15年計算」になるということについては、寺澤薫が、土器様式を細分化しすぎているだけである。


寺澤薫の矢部編年の9の土器「様相」が、そのまま「土器様式」であるとは、考えられない。西村歩は、河内地方の土器を使用して、庄内式期も布留式期も3分したが、その場合、庄内式期古段階は、纏向1式期後半+纏向2式期前半、寺澤薫の矢部編年の庄内0式期後半+庄内1式期となり、庄内式中段階は、纏向2式期後半+纏向3式期前半、寺澤薫の矢部編年の庄内2式期+庄内3式期となり、庄内式新段階は、纏向3式期後半、寺澤薫の矢部編年の布留0式期となる。


この相対的な関係はどの研究者でもほとんど変わらない。


土器がどう区分されるかということと、そうして区分された土器が使われた期間がどのくらいの年代幅なのか、とは別の問題である。


寺澤薫は、土器の様相の変化は、一つが大体20年から30年ぐらいであるという先入観により、年代を推定しているので、議論がかみ合いないのである。そうした先入観を捨てれば、庄内式期は、AD290年からAD350年までの約60年間となり、庄内式期を三分すれば、一つの土器様式は約20年となる。これは、布留式期の一つの土器様式と同じくらいの期間である。


ここから、寺澤薫による関川尚功批判は、当たらないと考える。


以上の検討から、清家論文がいう「実年代」は、誤りであると考えられる。

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