清家章「卑弥呼と女性首長(学生社)」を読んで(4) | 気まぐれな梟

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今日は、椎名林檎の「日和姫」を聞いている。


清家章は、「卑弥呼と女性首長(学生社)」(以下清家論文という)第1章の「古墳の定義」の「整理すべき点」の③「実年代論」の(2)弥生時代中期の年代、について、以下のようにいう。


 「貨泉という中国貨幣や中国鏡と土器の共伴関係から、弥生時代中期から後期の移り変わりは紀元前後に求められる」が、こうした「考古資料から示された年代と」「年輪年代法」による「分析」は、「矛盾しない」。


 まず、「貨泉」と土器の共伴関係を検討する。


 「貨泉」とは、前漢王朝と後漢王朝の中間に存在した王莽の新王朝のときに鋳造されはじめた貨幣である。新王朝の存続期間はBC45年からAD23年であるが、「貨泉」の鋳造は、AD14年からで、後漢王朝が成立して以降も続けられ、鋳造が停止されるのは、AD40年である。


 鋳造停止後の「貨泉」の流通であるが、「貨泉」は、西暦289年、299年、302年の墓誌がある晋の時代の洛陽晋墓からも、52枚出土している。だから、中国では「貨泉」が300年ごろの墳墓に副葬されている。


 また、日本列島での「貨泉」の出土状況の下限年代は、「邪馬台国の会」講演会での安本美典のまとめによると、鎌倉・室町時代まで下がる。


 だから、「貨泉」の鋳造期間は、「貨泉」と一緒に出土した土器の「上限年代」を示すだけで、「下限年代」を特定はできないので、その土器の年代を決定する材料とはならない。


 それにしても、弥生時代後期の土器が「貨泉」と共伴したことから、弥生時代後期の開始を「紀元前後」とするのは理解できない。せいぜい「貨泉」の鋳造開始のAD14年以降というならまだわかるが。


 なお、「貨泉」と弥生時代後期の土器との共伴の解釈は、研究者によって微妙に異なり、AD40年に鋳造された「貨泉」が、日本列島に流入するまでの時間を考えて、弥生時代後期の開始を、AD1世紀の後半から末頃とする研究者もいる。


 また、寺澤薫の「弥生時代の年代と交流(吉川弘文館)によれば、「盛行期の典型的王莽鏡がKⅣa式甕棺でも新相以降にしか伴うことがない」ことから、「王莽代とその前後の文物が様式継起的スムースに葉流入しなかった」といい、「王莽代に下がって副葬される例が少なくない」「小型の異字体銘帯鏡」の「北部九州におけるその流入→副葬の一般的時期は」、「王莽代を下る」「1世紀の第2四半期はおろか第3四半期も射程に入れなければならない」という。


 寺澤薫がいう「小型の異字体銘帯鏡」と「貨泉」が同様の経過で日本列島に流入してきたものであるとすると、「貨泉」の流入時期もAD1世紀第3四半期以降であり、畿内での出土は、AD1世紀末ごろと考えられる。

 

 ここから、弥生時代後期開始時期は、北部九州ではAD1世紀後半、畿内ではAD1世紀末と考えられる。



 次に、弥生時代後期の土器と共伴する中国鏡を検討する。


 中国鏡の日本列島への流入時期を考えるときには、その中国鏡の中国での制作時期よりは盛行時期を考える必要がある。

 

 高倉洋彰の「AMS年代と考古学(学生社)」に掲載された論文「交差年代決定法による弥生時代中期・後期の実年代(以下高倉論文という)」によれば、洛陽の焼溝漢墓と西郊漢墓には、293面という多数の中国鏡が副葬されており、それらは、前漢中期の第1期から後漢晩期の第6期に区分、編年されている。


 高倉論文によると、弥生時代土器編年は、森貞次郎が9期に区分し、前期、中期、後期それぞれが3期となるとした。この森編年を基礎に、高倉論文では、北部九州の弥生時代の土器編年を5段階に区分し、後期以降を、後期初頭から中頃の「第4段階」(高三潴式期、下大隈式期)と後期後半から末の「第5段階」(西新式期)とする(以下高倉編年という)。

 

 高倉論文によると、弥生時代の土器と共伴する中国鏡の検討から、焼溝漢墓の期別区分と高倉編年の期別区分の関係は、高倉編年の第4期前半(弥生時代後期初頭から前半)は、焼溝漢墓の第3期後期(AD7年からAD39年)から第4期(AD40年からAD75年)に併行し、実年代では、おおむねAD1世紀台と考えられる。


 ここからも、弥生時代後期の初めを紀元前後とするのは誤りであると考えられ、日本、特に畿内への流入時間を考えると、弥生時代後期の開始は、AD1世紀後半から末ごろであると考えられる。


 なお、この結論は、一部の考古学者が「貨泉」と弥生土器との共伴の分析から推定する弥生時代後期の開始年代と矛盾しない。

 

 高倉論文によると、高倉編年の第4段階後半(弥生時代後期中頃)は、焼溝漢墓の第5期(AD76年からAD146年)に併行し、実年代では、おおむねAD2世紀前半と考えられる。 

 

 また、同様に、高倉編年の第5段階(弥生時代後期後半から末)は、焼溝漢墓の第6期(AD147年からAD220年)に併行し、実年代では、おおむね、弥生時代後期がAD2世紀後半、弥生時代末がAD3世紀前半と考えられる。

 

 ここまでの高倉編年は、おおむね妥当であると考えるが、異論がある。

 

 前述したように、後漢以降の三国時代、六朝時代も、後漢鏡が制作されつづけた。だから、弥生時代の後期後半から後期末、終末期にかけて出土する中国鏡は、形式上は後漢鏡であるが魏晋鏡であると考えられる。

 

 そこで、魏や晋の時代に盛行した鏡について考えると、年号が記載された墓誌から、西晋(AD265年からAD316年)の時代のものと考えられる洛陽晋墓には、後漢鏡の形式の鏡である、長宜子孫系蝙蝠座紐内行花文鏡と位至三公鏡が副葬されている。

 

 だから、古墳時代の前には、焼溝漢墓の年代と魏の時代と洛陽晋墓年代があるが、この長宜子孫系蝙蝠座紐内行花文鏡や位至三公鏡などの、安本美典がいう「10種の魏晋鏡」は、弥生時代後期後半の遺跡からも出土している。

 

 また、安本美典によれば、位至三公鏡は大半のものが北部九州から出土しており、奈良県からは出土していない。だから、位至三公鏡が日本列島で流通していた時代は、纏向遺跡ができて発展していくく前の弥生時代後期後半であったと考えられる。

 

 つまり、弥生時代後期後半は、これらの「10種類の魏晋鏡」が日本列島への流入していた時期であり、その実年代は、おおむね、後漢が滅亡した3世紀前半から西晋が滅亡した4世紀前半までに相当すると考えられる。

 

 布留0式再論では、こうしたことも考えて、庄内式期の開始をAD290年頃とした。

 

 なお、年輪年代法について、検討する。

 清家論文では、注(2)で、「年輪年代法については、その分析結果について懐疑的な見解も示されている(鷲崎2013)」というが、清家論文の本文の記述では、年輪年代法については妥当であると考えているようである。


 しかし、年輪年代法には、鷲崎弘朋の有力な反論がある。


鷲崎弘朋によれば、以下のように、年輪年代法による測定年代とこれまで考えられていた年代とは、おおむね100年程度の誤差がある。


 例えば、法隆寺五重塔心柱は、年輪年代法によるとAD594年伐採と測定されたが、「日本書紀」によれば法隆寺はAD670年に全焼しており、その後7世紀末~8世紀初に再建されたと考えられている。


また、法起寺三重塔心柱も、年輪年代法による測定年代は572+α年であるが、「聖徳太子伝私記」によればAD706年建立である。

また、元興寺禅室部材も、年輪年代法による測定年代はAD582年であるが、「元興寺縁起」によれば、建立はAD710年からAD718年である

 

 なお、滋賀県紫香楽宮跡から出土した9本のヒノキ柱根の年輪年代法による測定結果のうち、4本については、AD530年からAD562年の形成とされた。しかし、「続日本紀」によれば、紫香楽宮はAD742年に建設を開始しAD745年に短期間都とした、とされている。そうすると、『続日本紀』とは200年の違いがある。

 また、東大寺正倉院の事例でも、AD649年以前の測定値を示す事例が存在する。


 このように、記録と照合可能な14事例(法隆寺五重塔・法起寺三重塔・元興寺禅室・紫香楽宮跡・東大寺正倉院)では、AD640年以前の測定値が全て100年古くなっている。

 

 鷲崎弘朋によれば、大阪府池上曽根遺跡、奈良県纏向の石塚古墳、兵庫県武庫庄遺跡などでの年輪年代法による測定結果からも、弥生生中後期・古墳時代の年輪年代の測定結果がそれまでの考え方と100年古くなっているのは同様である。


 鷲崎弘朋によれば、光谷拓実による年輪年代法は、古代からの年輪が辿れる木は存在しないので、いくつかの古い木の年輪を、接ぎ木して、年輪の標準パターンを形成し、この標準パターンと、測定対象の木の年輪を比較して、測定対象の木の年代を決めているが、この標準パターンが、どこかで誤っている可能性がある、という。
 

 しかし、光谷拓実は、その標準パターンの基礎データーを公開していないという。だから、年輪年代法による測定は、最終的には、光谷拓実の判断によることになり、第3者がその測定過程を検証、追試することはできないという。


 これを科学的であるといえるかどうか疑問であり、現状の年輪年代法を根拠とする年代決定が有効であるとはとても思えない。

 

 清家論文では、こうした「考古資料から示された年代と」「年輪年代法」による「分析」は、「矛盾しない」というが、年輪年代法の問題点から見ると、この「矛盾しない」ということが、逆に、その年代が誤っているということになるのである。
 

 清家論文では、「この結果、弥生時代後期は1世紀の半ばから2世紀に相当し、弥生時代終末期、土器でいえば庄内式土器の年代は3世紀前半に位置付けられ、鏡から見た年代と整合的である」。


 しかし、これまで見てきたように、弥生時代後期は1世紀の半ばからであるというのは、おおむね妥当と考えられるが、弥生時代後期が終わるのが2世紀末、弥生時代終末期の庄内式期が3世紀前半という主張には、先述した理由から従えない。



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