清家章「卑弥呼と女性首長(学生社)」を読んで(3) | 気まぐれな梟

気まぐれな梟

ブログの説明を入力します。

テーマ:

今日は、椎名林檎の「IT WAS YOU」を聞いている。

 清家章の「卑弥呼と女性首長(学生社)」(以下清家論文という)第1章の「古墳の定義」の「整理すべき点」の③「実年代論」の(1)三角縁神獣鏡と画文帯神獣鏡の副葬について、これまで、三角縁神獣鏡の制作年代を検討してきた。

 中国からは出土しない三角縁神獣鏡は、中国で日本向けに制作されたものであるという考え方の前提となるのは、邪馬台国の卑弥呼が魏から下賜されたのが三角縁神獣鏡であるという考え方であるが、未盗掘古墳の発掘により出土した三角縁神獣鏡の石室での配置状況から、その古墳の被葬者は、三角縁神獣鏡を重んじていなかったことがわかってきた。

具体例をいくつか挙げると、例えば、滋賀県雪野山古墳の三角縁神獣鏡は、被葬者の足下に置かれており、最も重要だと考えられる位置である、頭部近くには別の種類の鏡があった。


また、徳島県宮谷古墳の三角縁神獣鏡は、前方部の先端に無雑作に置く形で三面が遺棄され土が被っており、木棺内とみられる場所には別種類の鏡があった。


 また、大阪府闘鶏山古墳でも、木棺内の配置は頭骨、方格規矩鏡一面、碧玉製腕飾一点、三角縁神獣鏡二面の順でならんで置かれていて、方格規矩鏡の方が被葬者からは重視されていたと考えられる。


また、奈良県黒塚古墳の三角縁神獣鏡は、出土した全てが棺外に雑然とおかれており、棺の中には一面の小さな画文帯神獣鏡が頭部付近に丁重な包装でおかれていた。


また、大阪府紫金山古墳の三角縁神獣鏡は、棺外に置かれており、木棺内で確認されたものは方格規矩四神鏡一面であった。


また、福岡県一貴山銚子塚古墳では、銅鏡は、頭部に二枚、両脇に四枚ずつが配置されるが、頭部の二枚は方格規矩鏡と内行花文鏡であり、脇に置かれた他の八枚はすべて三角縁神獣鏡であった。


 なお、画文帯神獣鏡と三角縁神獣鏡が一緒に出土した例は数多くあり、先述したように、古墳時代前期の間に画文帯神獣鏡の制作が継続していたことを証明している。また、そのときの出土状況からは、画文帯神獣鏡と三角縁神獣鏡では、画文帯神獣鏡の方が重んじられていたことがわかる。

 

 三角縁神獣鏡が魏の皇帝から卑弥呼に下賜され、その後、卑弥呼を支持する国々の首長に配布されたものであるのなら、これらの出土状況のように、まるで消耗品のように重んじられないことはないはずである。

 

 また、三角縁神獣鏡の銘文は、商売繁盛や出世に係るものが多いので、三角縁神獣鏡は外交に使用されたとは思えない、と指摘されている。


 さらに、三角縁神獣鏡は、日本国内で500面以上出土しており、その中には、模様が不鮮明であったり、仕上げが雑なものも多く、大量生産されたと考えられる。


 だから、これらのことは、三角縁神獣鏡は、卑弥呼が魏の皇帝から下賜された鏡ではありえないことを、雄弁に物語っている。
 

 三角縁神獣鏡が、魏の鏡ではないとすると、日本で作られた鏡であると考えられる。


なお、三角縁神獣鏡の模様などが鮮明であることから、それを中国から渡来した「舶載」三角縁神獣鏡であるとし、三角縁神獣鏡の模様が不鮮明なものは、鏡の制作技術が未熟であったためなので、そうした不鮮明なもののみが日本で制作された「製」三角縁神獣鏡であるという人もいるが、そうした主張は成り立たない。


 三角縁神獣鏡を「舶載」鏡と「製」鏡に区分するという考えは、仕上がりが悪いものを「製」鏡とするという考え方である。

 

 しかし、三角縁神獣鏡に仕上がりの違いなどがあるとすれば、それは、はじめてコピーにより制作された三角縁神獣鏡か、その三角縁神獣鏡を「踏み返し」などによりコピーして制作されたり、銘文の意味を理解することなく、単なる文様として扱い、他の文様と同じように簡略化たりして制作された、いわば原鏡のコピーのコピーの三角縁神獣鏡かの違いである。

 

 だから、三角縁神獣鏡の仕上がりの違いは、その制作年代とは関係ないと考えられる。


 また、新井宏によれば、三角縁神獣鏡に使われている銅の組成を調べたところ、「舶載」と「製」の両方とも同じ鉛同位体比を示すということがわかったきた。だから、それらは同じもので、日本で制作されたものであると考えられる。

 

 それでは、三角縁神獣鏡は、いつ制作されたのだろうか?


 三角縁神獣鏡の制作年代は、その出土した時代とあまり離れていない時代であると考えられる。布留0式再論(3)で論述したように、古墳から出土する三角縁神獣鏡は、布留1式の土器と共伴している。だから、布留0式再論(6)で論述したように、布留1式が始まるAD350年頃から、三角縁神獣鏡が制作された、と考えられる。


 なお、それではなぜ、日本国内で制作された三角縁神獣鏡に中国の魏の年号が書かれたのか?


 それは、正直にいって、よくわからない。


 しかし、三角縁神獣鏡の銘文に書かれた魏の年号は、卑弥呼の遣使に係る年号である。とすると、銘文を作成させた人は、卑弥呼の遣使のことを知っていたと考えられる。推定すると、その人は、中国人系の渡来人である可能性があり、何らかの理由で、三角縁神獣鏡の銘文に魏の年号が書かれたと考えられる。


 だから、三角縁神獣鏡の銘文の年号は、制作年を示すものではないと考えられる。


 清家論文では、三角縁神獣鏡は中国で作られた「舶載」鏡と「製」鏡があるということを前提に、「舶載神獣鏡は4段階に分けることができる」という。


 しかし、その模様などにより、三角縁神獣鏡の段階や系統を設定して、その制作経過を理解しようとするその具体案は、研究者の考え方によって、バラバラである。


 よくみると、三角縁神獣鏡は、先行する中国鏡のパーツを組み合わせて合成して制作された、パーツごとのコピー鏡である。 そして、三角縁神獣鏡は、先行する様々な中国鏡のパーツを、その制作のつど、とっかえひっかえして制作されたと考えられる。また、そのコピーの組み合わせは無数にあったと考えられる。

 

 だから、三角縁神獣鏡の文様や銘文を一連の「形式変化」の系統として理解することはできないし、そうした努力は無意味であり、全くの徒労である。


 清家論文では、福永伸哉による三角縁神獣鏡の「段階設定」を受けて、「最古相の古墳には三角縁神獣鏡のうち1段階と2段階の鏡が副葬され」るというが、前述したように、そうしたことは言えない。



 それは、三角縁神獣鏡はコピー鏡なので、模様などの形式変化により、その制作年代を、統一的に区分することはできないからである。


 古墳の年代は、そこにどんな三角縁神獣鏡が副葬されていたか、とは別に、そこから出土した土器などから判断されるべきものである。


 以上みてきたように、画文帯神獣鏡も三角縁神獣鏡も布留1式期以降の古墳時代に、古墳に副葬された、古墳時代の鏡であり、弥生時代終末期とは何の関係もない。また、布留1期式はAD350年頃であろと考えられる。


 弥生時代終末期以降の「実年代」は、布留0式再論(2)でのAMS年代論の評価と、布留0式再論(3)での「中国産の銅鏡の中国での盛行時期と日本での出土時期」の検討、布留0式再論(4)での須恵器編年の検討、布留0式再論(5)での庄内式期と布留式期の細分の検討などから、以下のようになると考えられる。


 布留0式再論(6)では、おおむね、庄内式期古段階(纏向1式期後半)をAD290年からAD300年、庄内式期中段階(纏向2式期、纏向3式期前半)をAD300年から330年、庄内式期新段階(纏向3式期後半)をAD330年からAD350年、布留式期古段階(纏向4式期、布留1式期前半)をAD350年からAD375年、布留式期中段階(布留1式期後半、布留2式期)をAD375年からAD400年と推定した。


 なお、布留式期新段階(布留3式期、布留4式)は、須恵器編年のTK216型、TK208型前後であり、布留式土器が須恵器の普及により生産されなくなって行く段階である。


 ここから、弥生時代終末期は、おむねAD290年からAD350年頃となると考えられ、画文帯神獣鏡や三角縁神獣鏡とは関係がなくなる。

 

 だから、清家論文の「三角縁神獣鏡と画文帯神獣鏡の副葬」から、弥生時代終末期は(AD)2世紀末から(AD)3世紀前半に位置付けられ」る、という主張には、何の根拠もない。 

 そして、清家論文がいう「1段階」の三角縁神獣鏡が出土した古墳であるので、その古墳は古相の古墳であるとかいうようにして、出土した三角縁神獣鏡から、その古墳の年代を決定することはできない。

 
AD

気まぐれな梟さんをフォロー

ブログの更新情報が受け取れて、アクセスが簡単になります