今日は、椎名林檎の「きらきら武士」を聞いている。
清家章は、「卑弥呼と女性首長(学生社)」(以下清家論文という)第1章の「古墳の定義」の「整理すべき点」の、③「実年代論」について、以下のように論述している。
清家論文では、「福永伸哉の著書」を「参考にして古墳出現期の年代を考え」ると、(1)三角縁神獣鏡と画文帯神獣鏡の副葬、(2)弥生時代中期の年代、(3)古墳時代中期の年代、の3点から、「箸墓古墳の築造年代はAD260年を前後する時期に相当する」という。
清家論文では、(1)について、以下のようにいう。
「画文帯神獣鏡は2世紀末から3世紀前葉に制作され、三角縁神獣鏡は、その銘文からAD239年年頃から制作が始まり、3世紀後葉まで制作され」た。
清家論文のこの論述には、異論がある。
まず、画文帯神獣鏡の制作年代から検討する。
清家論文の中国鏡についてのこうした論述は、おもに岡村秀典の主張に依拠していると考えられる。
岡村秀典は、「三角縁神獣鏡の時代(吉川弘文館)」(以下岡村論文という)で、日本列島で出土する中国鏡を7期に区分し、弥生時代終末期には漢鏡7期の中国鏡が、第1段階では上方作系浮彫式獣帯鏡などが、第2段階では画文帯神獣鏡が、第3段階では斜縁神獣鏡が、それぞれ段階ごとの時間差をもって、日本列島に流入してきた、という。
また、中国本土の制作年代から、画文帯神獣鏡の制作年代を、AD2世紀末から3世紀初頭とし、画文帯神獣鏡は、その制作後あまり時間をおかずに日本列島に流入した、という。そして、清家論文のP41の図「中国鏡分布の移り変わり」に表示されているような画文帯神獣鏡の出土状況から、画文帯神獣鏡の分布は畿内を中心としている、という。
つまり、岡村論文では、画文帯神獣鏡はAD2世紀末から3世紀前半に制作された(その期間しか制作されていない)ので、制作されてからあまり時間がたたずに日本列島に流入して、弥生時代終末期の墳墓に副葬されたから、弥生時代終末期はAD2世紀末から3世紀前半頃である、というのである。
しかし、清家論文のP41の図をよく見ると、画文帯神獣鏡が出土しているのは、そのほとんどが古墳であることに気が付く。
辻田淳一郎の「鏡と大和王権(すいれん舎)」(以下辻田論文という)の図14「画文帯神獣鏡の各時期ごとの分布状況」によれば、「弥生時代後期~終末期および古墳時代前期の遺跡から出土した画文帯神獣鏡は、合計78例が確認できる」が、その「うち、弥生時代終末期~古墳時代初頭の墳墓から出土したもの」は「5例」であり、弥生時代終末期に限ると「3例」である。
また、そこで弥生時代終末期の墳墓とされている「3例」は、兵庫県綾部山39号墓、徳島県萩原1号墓、奈良県ホケノ山である。
布留0式再論(1)で論述したように、ホケノ山は古墳であり、前方後円墳の発生過程について(4)で論述したように、徳島県萩原1号墓も古墳である。
また、兵庫県綾部山39号墓は、「邪馬台国時代の阿波・讃岐・播磨とヤマト(学生社)」での菅原康夫の発言によれば、萩原1号墓と同じ頃のものとされるので、萩原1号墓が古墳であると考えられるので、荻原1号墓と同様に古墳であると考えられる。綾部山39号墓の埋葬施設が初期の竪穴式石室であると考えられるのも、それを補強する。
このように、これら「3例」は、みな、布留1式期に、箸墓古墳の影響を受けて築造された古墳であると考えられる。
だから、画文帯神獣鏡は、弥生時代終末期にの墳墓には副葬されておらず、箸墓古墳の築造以降に、つまり、古墳時代になってから、土器様式でいえば布留1式期以降に配布され、副葬されたと考えられる。
古墳時代前期はAD4世紀末頃までは続いているから、岡村論文がいうように、これらの古墳から出土した画文帯神獣鏡が、すべて、AD2世紀末から3世紀初頭の間に制作されたもので、その制作後あまり時間があかないうちに日本列島の流入したのだとすれば、そうした画文帯神獣鏡は、日本列島で、約200年間も保管され、古墳の被葬者に配布されていったと考えることになる。
岡村論文のこうした想定は、その「伝世」の動機が不明であり、非合理的な想定である。
だから、画文帯神獣鏡が、その制作後あまり時間があかないうちに日本列島の流入したのだとすれば、古墳時代前期の間、中国で画文帯神獣鏡が制作し続けられたと考えられる。
西川寿勝の「三角縁神獣鏡と卑弥呼の鏡(学生社)」(以下西川論文という)によれば、後漢以降の中国本土の鏡生産の状況は、AD2世紀末から3世紀初頭以降、中国の後漢王朝が衰退し、「貨幣経済の崩壊と流通の疎外」により「銅鏡の生産が停滞」した、という。
そして、そのために「質の良い鏡を安定生産できなかった」ので、後漢末から三国時代、六朝時代にかけては、中国本土では、「後漢代の鏡が再利用されていた」という。
また、同様の事情から、三国時代から六朝時代には、後漢鏡の再利用に加えて、その踏み返し鏡も、多数制作されていたと、考えられる。
だから、後漢鏡は魏晋鏡でもあると考えられるし、引き続く六朝時代の鏡も後漢鏡であったので、画文帯神獣鏡も、AD2世紀末から3世紀初頭の期間のみに制作されていではなく、後漢末から三国時代、六朝時代までの間、つまりAD年頃までの400、古墳時代前期の間に、継続して「制作」され続けていたと考えられる。
なお、鏡は、踏み返しにより、複写することができる。また、模様をまねして模倣することもできる。そのときにその模様の意味が分からないと、うまくまねができないで、模様が省略されたり、欠けたりする。
古墳から出土する画文帯神獣鏡には、模様が不鮮明で乱れているものや、模様が省略されて意味がわからくなっているものもある。
それは、そうした事情により、三国時代、六朝時代に制作された、コピー鏡であると考えられる。
次に、画文帯神獣鏡の制作年代を検討する。
先述したように、清家論文の中国鏡の議論は、岡村秀典の議論に依拠していると考えられるので、岡村秀典の議論を検討する。
岡村秀典は、「三角縁神獣鏡の時代(吉川弘文館)」(以下岡村論文という)で、三角縁神獣鏡の銘文の年号からその制作年代を「その銘文からAD239年年頃から制作が始まり、3世紀後葉まで制作され」たと推定した。
しかし、三角縁神獣鏡は中国本土では、1面も出土していない。だから、その銘文の年号の時代に、中国に存在していた鏡が日本列島に流入したとはいえない。当然のことながら、中国での出土状況から三角縁神獣鏡の制作年代を考えることはできず、逆に、三角縁神獣鏡がその年号の時代に制作されたという証拠はない。
そうすると、三角縁神獣鏡は、日本国内で制作されたものであるか、中国で日本向けに制作されたものであるかのどちらかになる。
三角縁神獣鏡が中国で日本向けに制作されたものであると仮定すると、三角縁神獣鏡に書かれた年号は魏の年号であるので、魏の時代に制作されたと考えられる。
ここから、三角縁神獣鏡は魏の鏡で、魏と交流があったのは邪馬台国でるので、卑弥呼が魏の皇帝から下賜された「銅鏡百枚(魏志倭人伝)」は、三角縁神獣鏡であるという考えが生まれる。
そして、三角縁神獣鏡を入手した卑弥呼は、自分を支持する30ヶ国の国々の首長に、三角縁神獣鏡を配布したのだろうと推定する。
さらに、古墳から出土する三角縁神獣鏡は、そうして配布されものであり、そこから、三角縁神獣鏡が出土する古墳は邪馬台国時代のものであり、卑弥呼の墓は、いちばん古い大型古墳の箸墓であると推定する人もいる。
しかし、未盗掘古墳の発掘により出土した三角縁神獣鏡の石室での配置状況から、その古墳の被葬者は、後述するように、三角縁神獣鏡を重んじていなかったことがわかってきた。