清家章「卑弥呼と女性首長(学生社)」を読んで(1) | 気まぐれな梟

気まぐれな梟

ブログの説明を入力します。

テーマ:

 今日は、椎名林檎の「熱愛発覚中」を聞いている。


 清家章は、「卑弥呼と女性首長(学生社)」(以下清家論文という)で、「卑弥呼が活躍した時期とその前後の期間を含む弥生時代から古墳時代における女性の役割とその地位を明らかにしつつ、その変化を追い、その中で卑弥呼の位置付けを考え」ようとしている。


 そのために、清家章は、まず、「これまでの歴史研究において卑弥呼擁立の背景と彼女の権能について」「どのように説かれてきたの」かを「文献史の研究を中心に」整理し、「問題の所在」として、二つの論点を挙げる。


 その一つの論点は、「地位の継承」であり、「中継ぎ説、ヒメヒコ制説やそれらを否定する説まで様々である」という。このうち、「王位の男性継承を前提としている」「中継ぎ説」は、「母系社会を前提としている」「ヒメヒコ制」と「まったく対立する」し、「聖俗二重王権制も」「中継ぎではありえない」という。


 もう一つの論点は、「権能」であり、「卑弥呼の祭祀的役割を強調する説」と「卑弥呼は」「男王と変わらない本格的女王であった」という説が、対立しているという。


 こうした論点について、清家章は、「考古学的な方法を軸にしながら文献史・人類学の知識を用いてアプローチしようと」している。

なお、清家論文の基になっているのは、2008年度の高知大学の考古学講義である。


 清家論文の第1章では、「邪馬台国の時代と考古学の時代区分との対応を明確にし、その上で邪馬台国の所在地に関して」清家章の見解が示されている。清家論文によれば、この「邪馬台国所在地論は本書の主な目的ではないが、卑弥呼論を展開する上で不可欠な要素である」という。


 また、2章以降に展開される「卑弥呼の権能や邪馬台国における王位継承に関する内容は、邪馬台国の所在地に関する清家章の見解に「異論があっても成り立つ」という。 


周知のように、邪馬台国所在地論は、単に邪馬台国がどこにあったのか?というだけのことではなく、古代日本の国家形成過程はどのうようであったのか?という、古代史の重要問題にかかわる問題である。


 また、清家論文の目的は、弥生時代から古墳時代にかけての女性首長の役割について検討することを通じて、卑弥呼の役割を考えることであり、卑弥呼の役割を考える前提の一つが、古代日本の国家形成過程で邪馬台国がどういう位置を占めているのか、ということである。


 だから、清家論文でも、邪馬台国所在地論は、卑弥呼論を展開する上で不可欠な要素である、といっている。


 しかし、邪馬台国所在地論について論述している第1章の論述は、女性首長の役割について論述している第2章以降と比べて、極めて異質であり、古めかしい議論に全面的に依拠し、そうした議論に対する有力な反論や最新の研究成果を一切無視し、そうした反論や最新の研究成果と切り結んで自説を展開するのではなく、根拠の提示なく自説を態度表明するという、論述スタイルをとっている。


 こうした論述スタイルには、強い違和感を感じざるを得ない。


 そこで、第1章については、その違和感の基となった、清家論文に対する異論を、以降論述して行きたい。


 清家論文では、まず、「古墳の定義」で、「卑弥呼が女王として活躍した時期は」「実年代で言えばおおよそ2世紀末から3世紀前半に相当する」という。

 そして、「この期間は」「弥生時代終末期なのか古墳時代に入っているかどうか」「時代区分上きわめて微妙な時期であ」り、「この問題で整理すべき点」として、①「古墳とは何か」、②「何をもって前方後円墳とするか」、③「実年代論」の3つを挙げる。


 清家論文では、①について、以下のようにいう。

 

 まず、「古墳時代は巨大な墳丘を持つ墓が全国に築造された時代である」が、「弥生時代にも」「大きな墳墓が築造されることがあるので、大きな墳丘を持つ墓があれば「古墳」と単純に呼ぶことはできない」。
 

 そして、「古墳時代において、どの時期のおいても最大規模墳は前方後円墳であり」、「大王募は前方後円墳である」。そして、都出比呂志によれば「墳丘規模と墳形によって各首長の地位と大王勢力との親疎が表出される」ので、近藤義郎に従って、「前方後円墳出現をもって古墳時代の開始であると考え、それ以降の墳丘を持つ墓を古墳とよぶ」。だから、「弥生時代における墳丘を持つ墓は」、「「弥生墳丘墓」ないし「墳丘墓」とよんで、古墳とは区別する


 清家論文のここまでの議論に異論はない。ただし、都出比呂比の「前方後円墳体制論」や広瀬和雄の「前方後円墳国家論」は、古墳時代の大和王権の権力を過大評価しているところがあると考える。

 

 清家論文では、②について、以下のようにいう。

 

 まず、「前方後円形の墳丘は」、「誰もが弥生時代と考える時期から存在する」が、「最古の前方後円墳は、形そのものと同時に、その存在が社会的画期を示すものでなければならない」。そこで、「古墳が被葬者の地位と大王勢力との親疎を示す者であるならば、大和地方における、前方後円形の墳墓の画期を積極的に見出だして」、社会的画期を「区別するべきである」。
 

 そして、「大規模な墳丘を築くためには、それだけ多くの労働力や労働力を集める権力と管理する組織が必要であ」り、「全長約280メートルを測る」という「隔絶した規模を持つ箸墓古墳を最古の前方後円墳と理解し、箸墓古墳をもって古墳時代の幕開けと考える」。

 

 だから、「箸墓古墳よりも一時期古い」、「箸墓古墳の東30キロメートルの地点にある全長80メートルの前方後円形の墳墓である」、「ホケノ山は古墳時代以前の弥生時代終末期の墳墓であり」、「弥生墳丘墓と呼ぶべき存在である」。

 

 清家論文のここまでの議論のうち、箸墓古墳を「最古の前方後円墳」とする考えには、とりあえず異論はない。「とりあえず」というのは、「箸墓古墳はそんなに古くはないのではないか」という異論が、一部に存在するからである。

 

 しかし、清家論文の、「ホケノ山は箸墓古墳よりも一時期古い」という考えについては、異論がある。

 

 布留0式再論(1)で論述したように、ホケノ山に供献された土器のなかから、古墳時代の土器と考えられている「布留1式期の標準」とされている「小型丸底鉢」が、出土している。ここから、ホケノ山は古墳時代の墳丘墓であるので、「古墳」であると考えられる。


 また、布留0式再論(1)で論述したように、箸墓古墳の前方部墳長の有段二重口縁壺は、定型化された布留式期に普遍的になるものであり、箸墓古墳の築造も布留1式であると考えられる。


そして、この布留1式期の「実年代」については、布留0式再論(2)で論述したように、ホケノ山古墳の年代が、橿原考古学研究所編の「ホケノ山古墳の研究」によれば、古木効果の影響を考える必要のないサンプルによるAMS法による年代測定結果によれば、平均値でAD330年となること、布留0式再論(6)で論述したように、位至三公鏡などの年代と初期須恵器の年代から、庄内式期と布留式期の年代を推定した結果のよると、AD350年頃から布留1式が始まると考えられる。

ここからも、ホケノ山は弥生墳丘墓ではなく、古墳であると考えられる。

また、清家論文の、「前方後円形の墳丘は」、「誰もが弥生時代と考える時期から存在する」という考えにも異論がある。

箸墓古墳の付近に、纏向石塚、纏向勝山、纏向矢塚、東田大塚という、前方後円形をした墳丘墓である「纏向古墳群」が存在する。


寺澤薫によれば、纏向石塚、纏向勝山、纏向矢塚は、纏向3式古に相当する寺澤編年の庄内3式期の築造、東田大塚、ホケノ山、箸墓古墳は、纏向3式新に相当する寺澤編年布留0式古相の築造である、といい、これらは、ホケノ山よりも古いとされている。

しかし、前方後円墳の発生過程について(8)で論述したように、豊岡卓之は、纏向矢塚を纏向3式新以降、東田大塚と箸墓古墳を纏向3式末に、それぞれ築造されたと推定しており、寺澤薫の推定時期とは微妙に異なっている。

また、石野博信は「大和纏向遺跡(学生社)」に収録された対談で、「纏向古墳群の古墳は一斉に築造されている」といっている。


豊岡卓之がいうように、纏向矢塚と東田大塚、箸墓古墳が同じ纏向3式新に築造され、石野博信がいうように、「纏向古墳群の古墳は一斉に築造されている」とするならば、纏向石塚や纏向勝山、ホケノ山も纏向3式新に築造されたといえる。


纏向3式新、それも纏向3式末と布留1式初頭は、それほど時間差がない。また、前方後円形は、段階的ではなく、一斉に成立したと考えられる。ここから、箸墓古墳とホケノ山古墳を含む「纏向古墳群」の古墳は、布留1式期に、ほぼ同時に築造されたと考えられる。


 さらに、纏向古墳群と箸墓古墳の規模の違いによる築造に要した年月の違いも考えると、それらの築造開始は、ほぼ同時か、「纏向古墳群」の古墳のほうがやや遅いと考えられる。

 だから、「纏向古墳群」の墳丘墓は、古墳であり、箸墓古墳の後から築造されたと考えられる。

 また、前方後円墳の発生過程について(4)で論述したように、突出部付き円形墳丘墓と前方後円形墳丘墓は異なったものであり、前方後円墳の築造に影響を与えたと考えられる国々のどこにも、終末期の前方後円形墳丘墓は確認できず、そうではないかといわれている墳丘墓はすべて、箸墓古墳の築造の影響のもとに築造された、古墳であると考えられる


 ここから、前方後円墳の「前方後円」という形は、箸墓古墳で初めて作られ、その後、全国各地に波及していったと考えられる

 

 だから、「誰もが弥生時代と考える時期」には、「前方後円形の墳丘は存在」しないと考えられる。


AD

気まぐれな梟さんをフォロー

ブログの更新情報が受け取れて、アクセスが簡単になります