それは、遥か昔の話。
モンスターが大地を闊歩し、絶望が世を満たし…しかし、とある英雄が先端を切り開き、神々が大地に降りて希望が芽吹かんとしていた、人類の黎明期。
これは、誰もが知らない場所で起きた、忘れられし英雄譚である。
およそ生命の宿るとは思えない、険しい枯れた岩山が連なるその土地に…しかし、人は根を張り、文明を築いていた。
今は忘れられし古の都市を見よ。空から見たそれは灰一色である。鋼の如き堅牢なる岩山を切り開き、緻密に築き上げた城壁は何物をも通さぬ盾となった。
当時では最先端の技術を結集して造られた鋼のバリスタは、空から来る猛威の一切合切を打ち落とし、夢の神モルペウスの名の元結集した屈強な戦士たちは如何なる化け物をも打倒し尽くした。
灰色の尖塔は乾いた山の風の中、何も遮るものもない夕の日に照らされて燃えるように赤く染まる。
堅固なること山の如し。それは、大穴から這い出る猛威にさらされ、幾千万もの人類が滅びた絶望の時代において…間違いなく、数少ない人類の希望の一つだった。
だが、モンスターはどこまでも狡猾である。
その都市の終末は、一夜のうちに行われた。たった一匹のモンスターの手により、堅牢なる都市は堕ちた。
彼のモノの名はナイトメアと言った。蜘蛛によく似たモンスターであり、単体ではドワーフが素手で殴り殺せる程脆弱な存在であるはずだった。
しかし、ナイトメアはあろうことか、寝静まった夜の都市に忍び寄り、夢の神モルペウスの寝首を掻いたのである。
そうして彼の神の神性を腹に収めた。
しかしナイトメアにとって神性は一朝一夕で消化できるものではない。ナイトメアは長い眠りにつくことになる。
だがひとたびナイトメアと取り込まれた神性が完全に適応すれば、世界は間違いなく終わるだろう。
彼のモノはそうやって亜神となり、胎児となって己の腹を胎盤として眠りについた。
その瞬間―――都市は現実世界から消え、悪夢へと引きずり込まれた。胎盤についでというように灰の都市を丸ごと飲み込み、安寧の地としたのである。
しかし、安寧の地とはそのモノにとってのみであり、人々にとっては地獄であった。
まず、悪夢の世界と化した都市で、人々は死ぬことが許されなかった。そして絶望に取り込まれれば化け物へと変じた。誰もが疑心暗鬼となり、殺し合いが発生した。この地から逃れるためのカルト宗教が作られてからは、残酷な光景が数えるのも億劫なほど生産され続けた。
まぎれもなく悪夢のような光景だった。皮肉にも夕日のような、血のように濃い赤黒とした空に閉ざされたその都市。彩が無く、無骨で、しかしだからこそ堅牢を誇ったその都市は、血肉臓物で汚され尽くし、元人間の異形が闊歩する廃都市へと変貌した。
人々の大半は発狂した。殺し合った。誰もが救いを求めながら絶望し異形へと変貌していった。
赤子を抱いた母親が肉の塊を抱いた蛇になった。屈強な戦士が目に付くものすべてを殺戮し尽くす鬼となった。深い愛を持つ者、信念のもと生きる者、誰もが化け物へと変じていった。
逆に、愛や信念があればあるほど、それらを穢し貶めるかのように見るに耐えない異形へと変貌し、自我すら失い、ただの一匹のモンスターに成り果てた。
誰もが、諦念を覚えた。誰もが、神々でさえ立ち寄らない地獄の釜で救いを求めることの何たる滑稽なことかと絶望に落ち、狂気に触れていった。
しかし、すべての人間がそうであったかというと、残酷なことにそうではなかった。
希望を捨てなかった者もいたのである。か細い火を意味もなく守り続け、守り続けようとして、化け物と化した者たちもいた。
戦士たちの長は肉壁の異形と化しながらも、躯や異形ばかりが眠る住居区へ続く門を閉ざし続けた。
とあるエルフは自我を失い家族をその手に掛けても、いつか来る英雄を待ち続け、動くものをすべて殺戮し続けた。
ある者は、またある者は…小さく、拭けば飛ぶような希望が…絶望の中を弱々しく漂っていた。
そして、また一人…夢の神を信仰していたとある神父は、己が信仰心でもって絶望の中、狂気に落ちることなく悪夢の中を数百年彷徨い続けていた。
腕には赤子。数ある種族の中でも最も矮小で才無き種族の子。
しかし、現の世で母の腹の中で育まれ、そして夢の中で生まれ、目を覚ました唯一の純真なる夢の住人。
夢と悪夢の境がまだない状態で生まれたこの者こそが、この悪夢を終わらせる唯一の希望だと、その者は信じて疑わなかった。
赤子の成長は遅かった。夢の中では普遍的な成長を見込めないのが道理だ。
この赤子が自分で立ち、喋れるようになるまで数百年が経過した。走れるようになるまでまた幾世紀。理論だって考えられるようになるまで、また気の遠くなるような年月が過ぎ去った。
神父はその者に戦う術を教えた。
敵を打ち砕く技術。
生き残る手札。
覚悟を。決意を。どれだけの絶望の中でも立ち続ける意思を。
そうして――――少女が最初に殺した異形の化け物は、神父だった。
天は震えよ。神々は刮目せよ。
誰も知ることのない物語の中で、銀の矢(シルバー・バレット)は、こうして放たれた。
矮小な身で悪夢の中を駆け抜け、たった一人で幾人もの化け物を葬送し。
そして、ついに最弱の一撃が、悪夢の主の首を落としたのである。
◇
さらさらと、塵となって消えていく全長10mはありそうなグロテスクな胎児を尻目に、少女は一人朝日を浴びていた。
血まみれの体。ボロボロの外套に身を包んだ少女。身長は120にも満たない。その小さな手には、白く輝く片手剣が握られている。
表情は変わらない。ただ無感情に、初めて目にする陽の光を眺める。
茜色の陽の光は目に眩しくて、思わず目を細める。
空気が変わった。光が優しくなった。闇が払われた。
直感する。ここはすでに悪夢の世界ではない。
今にも表裏が逆になろうとしていた閉じた悪夢は、その本懐を果たせず一人の少女の手により斬り伏せられた。
覚醒は成ったのである。
『ありがとう、リーリア』
消え去った胎児のいた場所に、一人の男がいた。
ぼやけていて細部はわからないが、優しげな声をしていた。
『世界は救われた。私の愛しい眷属たちも、民達も…もう苦しむことはない。ついでに、私も、最後の最後で、少し楽になれた。いい気分で消えられそうだ』
リーリア、と呼ばれた少女は、その声に聞き覚えがあった。
終盤で、何度か手を貸してもらったのだ。胎児を斬り伏せた名もなき剣は、この声からの贈り物だった。
「…あなたは、神様?」
『夢の神、モルペウスだ。一応はじめましてなんだろうが…なんだろう、あまりそんな感じはしないな』
そう言って微笑むモルペウスは、徐々に朝日に溶けて消えていこうとしていた。
「…消えるの?」
リーリアは無感情な声でそう問いかけた。モルペウスは優しく笑みを返す。
『そうだ。やっと消えられる』
「怖くないの?」
『怖くはないさ。いや、やっぱり嘘。ちょっと怖いかも。いくら神でも、完全に消えるなんて体験したことないし』
自身の消失を口にしても、表情は変わらない。
『でも…天界に帰ることすらもうできないけど…自身の迂闊さで世界を滅ぼしかけた大罪人には、幸せすぎる最期だとも』
満足そうに言うモルペウスに対し、リーリアにそれ以上掛ける言葉はなかった。「そう…」とモルペウスの顔から視線をそらし、朝日へと向ける。
「…良い目覚めになりますように」
モルペウスは、一層温かな笑顔を浮かべた。
『ありがとう』
『さて』とモルペウスが手をたたき、空気を一転させた。
『消える前に、最期の務めを果たさなければ。リーリア、その剣をこちらに』
「…はい」
白く輝く剣を受け取り、モルペウスはそれを少し空に掲げた。すると、剣を構成する光が粒となり空気に溶け出し、少しずつ霧散していく。
『中身はスカスカとはいえ、神造武器なんて持っていたら、変なイチャモンつけられるしね…』
リーリアは、剣が消えていく様をじっと眺めていた。
そして、少し経って、モルペウスはリーリアに語りかけた。
『リーリア。君はこれからどうする?』
「…分からない」
リーリアは、問いかけに対しての答えを一切持っていなかった。
生まれた時から親はおらず、故郷は悪夢に飲まれていた。
故郷を救った今であっても、故郷の住民たちはリーリアを残して全員が目覚め、消えていった。
親も、育て親である神父も、神であるモルペウスも、全てが消えていく。
リーリアにとっては、それが唯一の使命だった。
使命を果たした今、リーリアに生きる意味はない。共に生きる人もいない。
「この街と一緒に、私も消えてなくなる」
リーリアはぽつりとそう言った。
『…それじゃ、寂しいな。世界を救った英雄に、そんな最期は相応しくない』
「…じゃあ、どうすればいい?」
気づけば、モルペウスは完全に消えかかっていた。
それでも、モルペウスはリーリアに道を示した。
『リーリア。私の友神たちが、オラリオという街を作っているはずだ。世界の中心だ…きっと、大いににぎわっていることだろう。その街に行き、自分の思うがままに振舞ってみなさい。そして、幸せになりなさい。大丈夫、きっと君は、今まで苦労した分ずっと幸せになれるはずだ―――』
モルペウスは一方的にそう言って、とある方向を指さして消えていった。
リーリアは一人になり…そして、自由になった。
「オラリオ…」
しばらく朝日が昇っていく様子を眺めていたリーリアは、小さく新たに知った街の名を舌の上で転がした。そうして、おもむろに朝日とは逆の方向へと歩き出したのだった。