※画像はイメージです  Photo: Getty Images / PamelaJoeMcFarlane

クーリエ・ジャポン

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Text by COURRiER Japon

「もしかしたら、日本は他とは何か違うことをしているんじゃないか」


──現在の国際社会において、日本や日本の文化にあなたが期待する役割は何でしょうか?

これを言うと驚かれるかもしれません。いろいろ批判はしましたが、私は斎藤さんの脱成長論の本質には、健全なものがあると思っています。それはつまり、私たちは自身の所属する社会においても、また国際社会においても、さらなる協調・協力を必要としているし、拡大主義的で短期的な生産活動への強迫観念を脱しなければならない、ということなんじゃないかと思うのです。

とりわけ私が気に入ってるのが何かというと──こういう考え方を理想化すべきではないのは承知していますが──1600年代の日本では、我々全員にとって模範となるような出来事が起こっていたのです。

当時の日本社会にあったのは、民主的な選挙ではなくエリート主義です。ですが、当時の日本社会はある意味、自国のあり方に関して、国際的に大変重要な決断をしたのです。「我々は鎖国をする。これほど拡大した国際貿易からは身を引く。我々はより平和に、自分たちの文化、生き方に専心するのだ」という決断ですね。

理想化するつもりはないのですが、これはやはり、ある意味で奇跡だったのです。ひとつの国が独自の生き方を選択したんですから。もし私の発言が間違っていたら言ってくださいね。我々ヨーロッパ人は、概して人種差別などしていないふりをするときにこそ、最も人種差別的になりますから。だからもしかすると、私も日本に自分の期待を投影してしまっているのかもしれません。

とはいえ、私の印象では、日本と韓国を比べると──どちらの国も大好きですが──韓国は40〜50年前の日本をちょっと思い出させるところがあります。つまり、これからの30〜40年で、日本は米国を追い越すんじゃないかとか、そういう予測がされていた時代のことです。

でも現在の日本を見ると──もしかしたら私の思い込みかもしれませんが──この国は全体として、もうそれほど成長に囚われていないように思えます。あくまで私の印象ですが、ある種の慎み深さ、慎ましいながらも充実した生き方への回帰が見られるように思います。

日本には大きな事業ではない、紙の商品とか木の商品とか、そういうものを扱う小さな商店がたくさんありますよね。これにはいつも魅了されるんです。こういった次元でも、日本には1600年代の徳川幕府時代から続く伝統があって、もしかしたら日本は他とは何か違うことをしているんじゃないかと、私には思えるんです。

大きく言えば、過剰な自己拡大の意志から抜け出そうとすること。これが日本ができる、主な国際社会への貢献なのではないかと思います。日本は模範になれます。理想化しすぎかもしれませんが、日本の本来の姿というより、少なくともこの理想像としての日本に、我々もならうべきですね。


会ってみたい日本人トップ2


──以前のインタビューで、もし故人と話ができたなら、英国の作家G・K・チェスタトンと話してみたいとおっしゃってますね。故人も含め、作家でも思想家でも政治家でもよいのですが、会って話してみたい日本人はおられますか?

私は批判的であることを心がけ、あらゆる神話を破壊するようにしています。西洋的なもの、キリスト教ももちろん批判しますが、やはり同様に批判すべき神話のひとつに、「禅宗は平和の宗教だ」という考え方があります。

この考え方への反例として、1930年代から40年代にかけて、日本の禅宗が軍国主義の拡大に深く関わっていたという事実があります。しかし、ここに私が理想とする市川白弦という日本人がいました。彼は深遠な禅僧でありながら、企業的な禅宗、軍国主義的な禅宗の台頭を批判していたのです。

市川はマルキシストではありませんが、この軍国主義的禅宗に対する堅固で優れた社会学的批判をしていますし、これとは異なる種類の禅宗にとっての基盤を作りました。その間も、彼は深遠な禅僧でありつづけたのです。


他にも、私はヨーロッパ人なので、ヨーロッパでは誰もが知るビッグ2、黒澤明と溝口健二をあげなければなりません。溝口は帝国主義的だ、保守的だと批判されることもありますが、私にとって会いたい日本人第2位は、やはり溝口健二なんですよ。

私は物語の筋よりも、映画の形式に表れる彼の精神性というか、世界観がすごく好きなんです。カメラの動かし方とかね。私がヨーロッパ映画で嫌いなのは、映像を心理的に人格化することなんです。カメラが役者の顔に寄るでしょう。これが良くない! 日本映画、特に溝口には、ヨーロッパ式の映画における、心理的人格化に対する素晴らしい、実にまっとうな抑制があります。そういうのは下品である、対象との親しみを感じさせすぎる、という考え方ですね。

たぶん溝口と会っても、政治についてのあれこれは話さないと思います。でも、私はいまも良きマルキシストとして、映画におけるイデオロギーとは、カメラの動かし方をはじめとする形式のなかに、すでに存在していると考えます。そういうわけで彼が2番目の候補者です。でも、市川白弦がやはり筆頭候補ですね。

──なるほど、ありがとうございます。近年、政治や社会状況についてお話しされることが多いように思います。文学や芸術について語ったり批評したりすることが、社会に対してまだ説得力を持つと思いますか?

これに対してはかなり厳しい答えをします。そうしたことに、いままでも力があったとは思いません。一言で答えるとすれば、まだ力があるとは思ってない、ということになります。

唯一の例外は、私の映画批評ですね。しかし私も老いてきています。映画に手を回す時間がないんです。いまは哲学と政治的議論に集中するようにしています。でも、1月にデイヴィッド・リンチが亡くなったときは驚きました。そのときは、他人に軽蔑されることをしましたよ。つまり、自分が昔書いたものを集めて、自己盗用したんです。

これを責める連中がいるなら、私はこう言ってやりますね。「私はエコロジカルな書き手なんだよ」と。自分自身をリサイクルしてるわけですからね(笑)。そうやってデイヴィッド・リンチの映画に内在する倫理について、短い文章を書きました。そこには驚くべきほどの自我が表現されていました。

映画は私にとって、失われた恋人なのです。10代後半、高校生で思春期だった私は、映画監督になりたかった。それが最初の目標でした。でもその後、映画の歴史を勉強するなかで、自分には才能がないということに気づいてしまったんです。なので、次善策として哲学を選びました。それが一つ目のポイントです。

二つ目のポイントは、映画や文学の社会への影響という話になると、私は基本的にペシミストなんです。私がペシミストでいる理由の一つは、現在の恐ろしい世のなかでほんのちょっとだけ幸せでいる唯一の方法は、ペシミストであることだからです。だって、良いことなんて何も期待せずにいれば、たまにマシなことが起こるだけで嬉しくなれるでしょう。オプティミストは常に失望していなければなりません(笑)。

私のやりたいことは、人々に思索を促すことなのです。あくまで私見ですが、我々がいま直面する問題の多くは、初っ端から解決策を提示したりしてはいけない類のものです。私には、それらの問題に対して、どうすればいいかわからない。しかし、我々の問題の捉え方自体を批判するのが大事なことも多いんです。

たとえば、私はLGBT+の権利については完全に擁護派ですが、LGBT+の擁護派は、己の主張を自らダメにしてしまうような、誤ったイデオロギーに流れてしまうことが多いように思います。だから私は、人々をいい意味で混乱させてやりたい。彼らに思考を強制したいんですね。

これはソクラテスに近いです。我々はソクラテスを完全に誤解してきたんですよ。彼は「偉大なる賢人」ではなかった。ソクラテスが若者に思考することを強制しようとして彼らを「惑わせ」、その罪によって死刑を宣告されたことを忘れてはいけません。

私は友人のアラン・バディウにならい、現代の哲学の主たる使命は、若者を惑わせることだと考えています。もちろん良い意味で。彼らに思考することを強制し、当たり前の発想、社会の機能としての考え方を脱却させたいのです。

「これに関して言えば、日本人が最高」


──最近優れていると思った、あるいは興味を惹かれた映画はありますか。その理由も教えてください。

つい2年前の映画ですが、是枝裕和監督の『怪物』です。いつも授業の映像教材で使うんですよ。これは、「目に見えてるものの奥には、何か恐ろしいもの、または善きものが隠れているかもしれない。表層と内奥の間には、常にずれが存在している」ということについての映画です。

これは西洋世界に住む我々にとって、非常に重要な教えなんですよ。というのも、我々には「汝の隣人を愛せよ」というキリスト教の公式があるわけです。しかし私に言わせれば、隣人、すなわち一人の他人の奥底を覗き込めば、そこには必ず何か恐ろしいものがあるんです。

私は倫理的ルールとして、他者と適切な距離をとることにしています。私にも隣人はいますし、フレンドリーに挨拶もします。しかし彼らについて、あまり多くのことを知りたいとは思いません。というわけで、ここ10〜15年の映画で一本あげるとしたらこれですね。


私は思うんです。怪物は誰か、それは隣人としての他人なのだと。私にとって重要だったのはこの発見です。あなたに一人の友人がいるとしましょう。その人のことをあなたはよく知っていると思っている。しかし突然、その友人が何か英雄的な行為をしたり、あるいは何か恐ろしい性質をあらわにしたりするんです。そこであなたは自問する。「これが本当に私の知っていた人間なのか?」と。

これはいま、とても重要な教えです。誰もが「我々は互いを理解しなければならない」と言っている時代ですから。私はそんなに深く他人のことを理解したくありません。私は礼儀をわきまえた社会が好きです。私があなたのことを愛する必要もなければ、あなたも私を愛する必要なんてない。深く知りすぎることなく、フレンドリーに、礼儀正しく交流できればそれで充分じゃないですか。

これに関して言えば、日本人が最高ですね。日本人と英国人は、この「礼儀をわきまえた距離」の実践の仕方をよく知っている。まあ、礼儀正しく嫌な奴になることにかけては、英国人のほうが日本人の皆さんよりも一枚上手かもしれませんが。英国人はあの上流階級的な礼儀正しさで、残酷なまでに人を馬鹿にしますからね。私は日本のほうが好きです。

Interview arranged and conducted by Kazumoto Ohno

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