労働時間は長く、所得は低い路線バス運転手…それでも代々ハンドルを握る親子は言う。「こんなに誇れる仕事は他にない」
運転手が足りない。地方だけでなく鹿児島市内でも運転手不足による路線バスの減便・廃止が相次ぐ。住民の移動を支えるバス業界の求人難は深刻だ。待機時間のある変則勤務や事故リスクが敬遠されがちな上、平均年齢の高さなど構造的問題も横たわる。バス運転手を取り巻く実情を紹介する。(連載かごしま地域交通 第2部「運転手はどこへ」④より) 高台の団地から姿を消す路線バス 高齢化が進む住民には急勾配の「地獄坂」が待つ
「父の朝はいつも早かった。バスを運転する姿を見て育った」。鹿児島交通(鹿児島市)の春田正三さん(62)は、生まれ育った中種子町での子どもの頃を振り返る。 1970年代、鹿児島交通と同じ岩崎グループが運営する種子島交通は島内3カ所に営業所があり、40~50人の運転手が在籍した。父正男さんもその一人で、中種子営業所の近くに家族と暮らした。 車社会が到来する前で、住民の移動は路線バス頼みだった。大型のバスを運転できる人は珍しく、朝から晩まで乗務していた。当時を知る関係者は「(中身が多くて)運転手の給料袋が立った」「途中で満杯になった運賃箱を車掌が交換していた」と懐かしそうに話す。運転手という職業は「花形」だった。 未舗装の狭い道で正男さんのバスが、タイヤを側溝部分に少しはみ出すようにして対向車と離合する場面を何度も見た。「父が乗るバスで買い物や遠足によく行った。同級生から『運転がうまい』と褒められて誇らしかった」
□ ■ □ 高校卒業後、県内外で働き、春田さんが鹿児島交通のバス運転手になったのは1999年、36歳だった。自慢の父を亡くして8年たち、花形だった職業はマイカー普及や道路網整備で陰りを見せていた。バス事業の規制緩和を翌年以降に控えていた。 父には物心ついた時から「人の命を預かる大変な仕事」と教えられた。運転だけでなく、車体のチェックや清掃など乗務前後に業務があることも知っていた。「同じ岩崎グループのマークが描かれたバスを運転したい気持ちを常に抱えていた」と明かす。 20代前半で大型1種免許を取得したり、大型1種で乗れるスクールバス運転手になろうと転職したりしたのも、バス運転手に何とか近づきたかったのかもしれない。 鹿児島市内や地方路線を6年担当した頃、スイミングスクールの講師をしていた経験を買われ運転手の指導員に配置転換。以来、若手ドライバーの育成に努めてきた。 □ ■ □