夜の帳の降りるころ、何時ものソヲプへ向かはうとした我は、店の前にて一人のボヲイと顔を合はせたり。
その男は、我を見るなりさも何氣なき風に言ひたり。
その言の葉が耳に入るや、我が心はふと宙に浮きしやうなり。されど、驚くほど冷靜なる己に氣づきたり。
我はえ?と小さく聲を洩らせしが、それ以上の言の葉は續かざりき。
歩みつつ考へぬ。彼女とは馴染みなれど、親しき間柄とは言へざりき。
ただ、店に通ふうちに幾度か口を交はし、身体を重ねるうちに、それなりの親しみを覺えたり。
彼女は常に穩やかに微笑みたり。仕事の愚痴も厭な顏一つみ見せず献身的に乱れ、「さうですねえ」と相槌を打ちたり。
その姿は、まるで店の燈火と同じく、そこに在るべきものとして我が目に映りたり。
されど、その自然さ故に、彼女の人生が如何なるものであつたのかを、我は何も知らざりき。
何處に生まれ、如何なる道を歩み、この店に至りしや。
家族はありしや、愛せし人はありしや。我は彼女の微笑みばかりを覺えてゐて、その向かふにあるものを何一つ知らざりき。
人は何處まで親密になつても、結局は他人に過ぎぬのだらうか。
涙が流れぬ己を省みつつ、さう思ひたり。
悲しみといふものは、果たして如何にして形を成すものか。或ひは、我が内なる悲しみは、まだ形を成すこと能はざるものに過ぎぬのやも知れぬ。
さう考へつつ、さらに歩みたり。
人生とは、何ぞや。生きる意味とは、如何なるものぞ。それは答へなき問ひなれど、さうして問ひ續けることこそが、彼女を偲ぶ行為に繋がるならば、それもまた意義あることかと思ひたり。
家に歸ると我は布團のなかに落ち着き、暗闇に耳を澄ませ、我は眠りに落ちたり。
夢の中にて、我はソヲプの扉を開きたり。部屋には、何時もの燈火が燈りたり。ベッドの上には、嬢がゐたり。
いらつしやい
その微笑みは、何も變はらぬやうに見えたり。されど何かが違ひたり。
彼女は確かにそこにゐるのに、我にはその姿を掴むこと能はざりき。
我は彼女に抱き着き、何度も名前を呼びかけたり。されど、彼女は何も言はざりき。
ただ微笑みたるまま、我と身体を重ね続けたのみ。
胸にぽつかりと穴が開きしやうな氣はしたれど、未だ涙は流れざりき。
ダサイオサム著『風俗』