相談をうけた私が引き受け、アマゾンのサービスで作成することにしました。
できるだけ早く刊行することにし、年末にはだいたいの編集作業がおわり、あとがきも1月はじめには書き終えられ、2月10日の刊行をまつばかりでした。
破壊寸前であった有待庵の救出の経緯、その後の研究成果、追加調査で見つけた錦旗調製の経緯を物語る品川弥二郎発山本復一宛の書簡の原本、有待庵を訪れた富岡鉄斎が芳名帳に残した「有待庵図」なども紹介されていて盛りだくさんな内容になっています。
1.はじめに、西郷酉三について
西郷隆盛と2番目の妻 糸子の間には三人の男子が生まれた。それぞれ寅太郎(慶応2年生)、午次郎(明治3年生)、酉三 (明治6年生)と、生まれ年の十二支と生まれ順によって名付けられている。酉三は明治 6 年 10 月 2 日、鹿児島の武村で生まれたが、その後の経歴はほぼ不明であり、没日である明治 36 年 12 月 21 日没(享年 31 才)については当時の新聞から歴史学者原口泉氏の著書『西郷家の人びと』(角川書店2017年刊)に紹介されるぐらいで原口氏もそれ以上の経歴については不明とされていた。
2.写真について
今回、西郷菊次郎の曾孫である諌山尚子氏より調査依頼をいただいた写真を検討したところ、着席している左端の人物が西郷菊次郎(2番目の妻愛加那との間の長男、二代目京都市長などを歴任)で右に着席している人物が酉三である。と判断した。
背後に制服姿の学生が 2 人立っている。 写真裏に西郷酉三と直筆と思われるサインがあり、写真裏には文字も記載されていた。(解読済ですがここでは割愛致します)
3.酉三の経歴について判明したこと
酉三については成城学校の学内誌(『有文会誌』10 号( 明治 24 年 7 月)に幼年科三級生として 「大石良雄の論」 が寄稿しているのを確認した。( 国会図書館デジタルコレクションより) 成城学校は陸軍士官学校への進学を目指す現在も存続する。(現 成城中学校・高等学校)また、『有文会誌』の14 号には次兄の午次郎の名前も確認していたが、調査の結果、二人とも途中退学していた事実も在籍の事実と共に今回初めて判明した。ちなみにこの時期の成城学校校長は薩摩出身で、陸軍の近代化を推し進めた川上操六であった。 成城学校は現在地である新宿区へ明治24年に築地から移転しており、写真裏の酉三の住所である市谷薬王前町(当時)の至近である。 そしてこの写真を撮影した丸木利陽は明治21年に明治天皇、昭憲皇太后を撮影された一流の写真師である。 隆盛と糸子の間に生まれた 3 人の男子は隆盛没後、陸軍士官への進路が示されていた。年長の寅太郎はこの時すでにプロイセン士官学校へ留学し、弟 2 人は士官学校入学をめざし成城学校に入学したのであろう。 西郷隆盛が初めての陸軍大臣であったことや隆盛の弟西郷従道や従弟大山巌が進路について関係していると推察できる。成城学校幼年科在学の後の公的な記録としては明治 36 年 10 月末の時点で北海道鉄道庶務課事務員として東京本社で勤務していたことが『帝国鉄道要鑑 第2版』( 国会図書館デジタルコレクションより)によってわかる。 実に、結核で死去する 2 ヶ月前のことであった。当時の北海道鉄道社長は北垣国道である。ちなみに午次郎は日本郵船の幹部社員として長く活躍するので結果的に二人とも士官の道には進まなかった事になる。
4.写真裏書きについての推察は解読済ですがここで割愛致します。
2023年から西郷菊次郎の曾孫である諌山尚子氏(菊次郎次男隆治氏の孫)から依頼された所蔵写真を発表してきた。それぞれが貴重であり検証に時間がかかり確信が持てた写真から順番に発表に至った。一生の中で決して写真を撮らせなかったとされる西郷隆盛の子どもたち全員の肖像が判明した事になり、若かりし頃の西郷隆盛の肖像も想像しやすくなったのではないでしょうか。
今回、生徒の制服について成城中学校・高等学校に問合せたところ、当初、酉三の在籍については把握されていなかったが、その後、岩本正校長より当時の成城学校幼年科の制服に似ている事、退学生徒名簿の存在と内容について直接ご調査下さりご教示頂けました。心より感謝致します。
貴重な写真を託して下さった諌山尚子さん、広く周知下さった報道関係者の皆様にも重ねて御礼申し上げます。
追記、報道(2024年3月14日)から随分時間が経ってしまいましたがやっとブログにまとめられました。(報道へと至る前に調査結果はまとめており、専門家や報道機関に提出済)
これからも研究が深まることを祈っています。 原田良子
品川弥二郎書簡の原本発見と報道
慶応3年10月6日、幽潜中であった京都の洛北に位置する岩倉具視宅で、大久保利通や品川弥二郎へ錦旗製作の謀議が行われた史実や錦旗製作のエピソードなどは知られていたが、錦旗製作の具体的な内容を裏付ける第一級の史料である当事者品川弥二郎書簡の原本の所在が不明であることに気づいた筆者は調査を続けていた。
大久保利通の茶室「有待庵」の救出保護に関わって以来、来歴等をより豊かな史料・史実を求め様々な史料の探索を続けていた中で、その結果、昨年2023年12月、京都府京都学・歴彩館の寄託資料の中に原本を発見することができ、2024年1月23日(火)京都新聞 夕刊の一面で報道された。
第一報のスクープとなった当該記事では以下のように筆者を紹介頂いています。
「原本の現存は昨年末、歴史研究に取り組む原田良子さん(56)が先行して確認していた。原田さんは2019年に上京区の大久保利通旧邸で茶室「有待庵」が現存しているのを確かめており、関連資料を探す一環だったという。
原田さんは「討幕の象徴である錦の御旗を巡り、関係した人たちの動きがリアルに描かれている。旧邸や有待庵がどう関わったかも含めた維新史研究の一助になってほしい」と話している。」
当ブログでは当事者として経緯を報告しておく。
原本は京都府立京都学・歴彩館寄託史料「山本読書室資料」の中にあった。(未解読の書状)
錦旗(錦の御旗)製作の経緯
慶應4年1月3日に戦端が開かれた鳥羽伏見の戦いにおいて、翌4日に掲げられた錦の御旗(錦旗)は、いわゆる薩長軍から天皇直属の軍隊としてのシンボルとなり絶大な効力を発揮した。その錦旗は岩倉具視が側近の国学者玉松操の案により、大久保利通および品川弥二郎に依頼して製作させたことは知られている。そして、その謀議が行われた場所のひとつがまさに石薬師の大久保利通の邸であった。
維新史研究者勝田孫弥(1867~1941)が著した『大久保利通伝』(同文館1911年刊)にその具体的なエピソードが記述され、さらに『甲東逸話』(冨山房 1928年刊)に「甲東等秘かに錦旗を調製す」という章をたててより詳しく記述されている。
著者勝田はその根拠として品川弥二郎が山本復一に宛てた書簡を翻刻掲載している。以下がその全文である。
【『甲東逸話』掲載の翻刻】
両度之尊書拝読、御返却書類正ニ落手仕候。岳吉春之錦旗考並玉松之碑文御贈被下、奉万謝候。錦旗考中ニ右府公ノ事ヲ記セザリシハ遺憾ナリ。(尤山口ニテ秘密中ノ秘密ニテ製作サセ候故、本人へハ京師ニテ云々ノ事ハ語リ不申サリシ)製造場所ハ、山口ノ後ロ、河原町諸隊会議所(奇兵隊其外各隊ヨリ常置委員ノ詰所ニテアリシ)土蔵ノ二階ナリ。錦ノ地ハ大久保殿ノ別宅京都寺町白梅小路ニやじガ潜伏中ニテ、やじガ山口ニハ持帰リ、二ツ日月ニテ四本製造ノ中、毛利家へ引当トシテ一ハ山口ニ残シ置、一ハ薩邸相国寺中林光院へ九日ノ朝迄やじガ潜メ置タリ、御参考迄ニ申上置候。二ノ三綴ハ岩倉公ニ何モ関係ハ無之候得共、御調書ノ御一考ニモト存ジ送呈仕候。御返却ニ及ビ不申候。余ハ拝顔ノ節ト匆々頓首。
五月九日朝 やじ拝
山本様 侍史
※ 以上は『甲東逸話』掲載のママである。
※ 以上、翻刻と原文を比べたところ、勝田は忠実に原本を翻刻しているわけではなかった。両者の異同については近く発刊される『地名探求』22号(京都地名研究会)の拙稿(受理済み)に記載している。
※ 大久保旧邸の所在地名について翻刻に「寺町白梅小路」とあったが、原本でもそのように書いてあり、当時石薬師の旧邸は白梅小路という遊郭街に含まれていたことがわかる。
※ すこし意味のわからない「二ノ三綴」という語句であるが、錦旗の端切れが添えられた形でこの書簡が見つかったことによって、この端切れを指す語であることが推察できる。品川は返却の必要はないとしている。憶測ではあるが、「二(にしき)ノ三(みはた)綴」と判じるのではないだろうか。読者の皆さんのご意見を賜りたいところである。
原本発見の経緯
書簡の宛先の山本復一は京都油小路五条上るに、2022年1月にNHKBSで歴史発掘ミステリー京都「幕末奇譚 知を武器にかく闘えり」で取り上げられた山本読書室の関係者である。復一はその学塾主催者の子として生まれたが、塾は弟にまかせて、自分は岩倉具視の秘書として幕末から明治にかけて活動した。
その読書室の膨大な資料は近年、京都大学名誉教授の松田清氏によって目録化され、現在は京都学・歴彩館へ寄託されている。3年前から目録が公開され、順次閲覧が可能となっている。原本が保存されている第一候補がこの資料であった。すでに目録から、原本がある可能性は高かった。
そして、昨年の12月25日に担当学芸員の山本琢先生の立会のもと、歴彩館で原本を確認した。資料は目録整備の最中で、翻刻も解読もされていない状態であったが、錦旗関係の資料は一括してまとめられていた。復一によるこれらの資料についてのメモも含まれていたので、復一自身がまとめて残したものらしい。解読が難解とされる品川弥二郎のくずし字であったが甲東逸話にある翻刻は頭に入っていたので山本先生と一緒に読み進めすぐに原本だと確認出来た。ついに見つけられた瞬間だった。
年が明けて、1月16日に筆者の発見を受けて歴史学者青山忠正先生も閲覧下さり、筆跡等も品川のものと確認され、原本である事は決定的となった。
新発見の書簡について
この原本とは別に、報道には触れられていないが、次のような極めて重要な新発見書簡があった。
明治41年には錦旗調製過程に関する問合せを毛利家史料編纂員の中原邦平に問い合わせた返事の書簡があった。これは明治43年に報知新聞の松原致遠のインタビューに答えた山本復一の談話を裏付けるものである。
また、それ以上に有意義であったのは、山本復一が中心となって明治27年ごろに大久保旧邸を買いとって復元整備する構想をもっていたことを物語る品川との間でかわした書簡があった。これは近年、刊行された『品川弥二郎関係文書』に山本復一からの書簡として掲載されている書簡の対になる品川からの返事と推定され、すでに『品川弥二郎関係文書』に翻刻掲載されている書簡の内容が完全に理解できるようになる画期的な史料であった。
これら新発見の書簡についても詳しく言及しているので、5月頃に発刊される京都地名研究会機関誌『地名探求』No.22(2024年)を覧いただければ光栄です。
令和6(2024)年1月23日(火) 原田良子
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