宿敵ベル・クラネルを葬った後。
スピネルは、自分の体が指先から灰になっていくのを見た。
「ああ、限界か……」
もう、痛みすら感じない。
体の機能がバカになっている。
この後は死んで、力の代償として穢れた精霊に魂を持っていかれ、しばらくしたらモンスターとして転生するだろう。
記憶は……多分少しは残ると思う。
人間だったらまず間違いなく消えるのだが、黒いミノタウロスは多少なり前世を覚えていたようだし、自分もそうなるような気がする。
鎮火したとはいえ、あれほどの呪いの焦げ跡が、死んだ程度で完全に消えてくれるとは思えない。
そして、ベルの転生体でも見た日には、残り火に油を注がれて一気にまた燃え上がる。
そんな予感というか、確信があった。
「けど……」
なんとなく、残るのは呪いだけのような気がした。
ヘスティアへの愛情は、きっと転生したら消えてしまう。
今世ですら呪いに押し潰されてしまったのだ。
自分の親不孝っぷりを思えば、覚えていられる自信が無い。
「行こう……」
だから、最期に会いたい。
スピネルは朽ちゆく体を動かし、
地上は現在、夜。
地下から立ち上る六円環の禍々しい魔力が、夜を紅く照らしていた。
「……こっちが残っちゃったのだけは不本意だなぁ」
スピネルからすれば、あくまでもベルの味方をしそうな冒険者達の手を煩わせるための囮だったし。
黒幕のエニュオからしても、ニーズホッグという切り札を通すための見せ札だったのに。
最高戦力の片割れであるフレイヤ・ファミリアがニーズホッグと引き換えに壊滅したせいで、いつの間にやら、こっちが本命になってしまった。
このままだと、六円環がヘスティアごとオラリオを吹き飛ばしてしまう。
奮闘中の冒険者達がなんとかしてくれることを祈るしかない。
フレイヤ・ファミリアは欠けてしまったが、ニーズホッグも消えているし、頑張ればどうにかなるだろう。
……最悪、オラリオが吹き飛んでも、ヘスティアは神なので、死ぬのではなく天界に還るだけで済むと言えばそうなのだが。
「……騒がしいなぁ」
六円環以外にも悩みの種はある。
エニュオが地上にもモンスターを放っていたようで、食人花達が元気に暴れ回っていた。
地上に残った冒険者達が相手をしているので、嫌がらせ以上の効果は無さそうだが、ヘスティアが巻き込まれたりしていないかが心配だ。
「でも、あいつらは死んでてほしいなぁ」
脳裏に浮かぶのは、原初の苦しみである違法娼館。
今考えてみると、あの店のありそうな場所は、日陰者の集まるダイダロス通りが第一候補だ。
そして、ダイダロス通りは食人花達が丸ごと蹂躙していた。
ギルドを潰したからか冒険者達の連携が拙く、オラリオ全体は守れていない。
あいつらもベルと同じように、苦痛と絶望の中で息絶えていてくれると嬉しい。
「……あっちは壊れてるけど、こっちは無事。アハハ。ようやく運が向いてきたかも」
幸い、ダイダロス通りは潰れても、目的地付近にまで食人花達は到達していない。
地下室のあるあそこは避難場所として悪くはなさそうだし、ヘスティアがそこにいてくれることを祈ろう。
「ッ……! ハァ……ハァ……」
軽く走っただけで息が切れる限界の体を酷使して、スピネルは先を急ぐ。
そうして、ようやく辿り着いた。
一度は抗争で壊れてしまった廃教会。
ヘスティアが借金してでも直してくれたという思い出の場所。
ようやく、帰ってこれた。
「……ただいま」
中に入ると、昔と違って地下室以外の部分も、廃墟とは言えない程度には整っていた。
まあ、それはそうか。
せっかく建て直したのに、わざわざボロく作るというのは、なんか違うだろう。
ただ、思い出にある光景と違っているというのは、やはり悲しくて寂しい。
「え!?」
けれど、そんな気持ちも、人の気配を感じたのか、地下室の扉を開けて出てきた
「スピネル、くん……!?」
「……はい。ただいま戻りました、ヘスティア様」
スピネルは大好きな女神様に向けて淡く微笑んだ。
ベルに向けていた狂気的な笑顔ではなく、会えた喜びと罪悪感を噛みしめるような、泣き笑いのような顔。
「!?」
一方、ヘスティアは死んだと思っていた大切な娘の変わり果てた姿に絶句した。
「スピネルくん……! その体は、その魂は……!?」
「……私はもう、ヘスティア様に意味を貰った
あなたの娘のただの残骸で、ただの醜い化け物です」
隠蔽用の装備をつけていない以上、神に怪人という正体を隠すことはできない。
ヘスティアの目には、今のスピネルの状態がハッキリとわかった。
灰となって崩れゆく肉体。
傷ついてズタズタになった魂。
その魂を絡め取る不気味な触手と、
あまりにも無惨な、目も当てられない状態。
「ッ……」
「スピネルくん!!」
スピネルの体がフラリと傾いた。
ヘスティアは駆け寄っていって、その体を全力で抱きしめる。
「ヘスティア様……ごめんなさい。私、ベル達を殺しました」
「!」
そして、その腕に抱かれながら、スピネルは罪の告白をした。
「今オラリオを襲ってる異変にも加担してます。ごめんなさい。どうしても、我慢できなかったんです」
我が身を焼き尽くす黒い炎のような衝動に、どうしても抗えなかった。
熱くて熱くて、苦しくて苦しくて、どうにかしてそれを消さないと何もできなかった。
「ごめんなさい。もう会う資格も、抱きしめてもらえる資格も無いのに……どうしても、最期に会いたかった」
胸に埋まった魔石が砕けていく。
体がどんどん灰になっていく。
……きっと、最期はヘスティアに罵倒されながら死ぬだろう。
女神の目には泣き腫らした跡があった。
きっと、恩恵の消失でベル達が死んだことを察知して泣いていたのだ。
この
何もかも失ってきた自分は、最期に最愛の女神にすら拒絶されて全てを失う。
殺して、傷つけて、世界を滅茶苦茶にしようとした極悪人にはお似合いの末路。
……けれど。
「!」
ヘスティアは、それを聞いても、スピネルを罵倒することも、彼女を抱きしめる腕の力を弱めることもなかった。
「謝らなきゃいけないのは、ボクの方だ……!
ごめん……! ごめんよ、スピネルくん……!
ボクがバカだったから、どうしようなくバカで無能の駄女神だったから、君をこんなに苦しめた……!」
「ヘスティア様……」
ヘスティアは、泣いていた。
ベル達の死で涙は出尽くしただろうに、こんな愚かでどうしようもない化け物のために、また涙を流してくれた。
凄く心苦しいのに……凄く嬉しい。
「ごめんよ……! ボクは親失格だ……!
君の傷も痛みも知っていたのに、助けてあげられなかった……!
むしろ、ボク自身が君のことを一番追い詰めた……!
君の罪は、ボクの罪だ……!」
ヘスティアは、崩れ落ちるスピネルの体を、必死に繋ぎ止めるように抱きしめ続けた。
涙が止まらない。
どうして、こんな結末を招いてしまったのだろう。
下界に降りて零能となった我が身が憎い。
全ての孤児の保護神のくせに、こんな小さな子一人救えなかった。
生まれた時から世界に全てを奪われ、幸福を知らず、絶望と苦痛だけを味わいながら育った少女。
そんな地獄から逃げて、ヘスティアに出会い、人生で初めての幸せを感じて……それすらも奪われた。
ベル・クラネルの光に焼かれて、育まれ始めたばかりの自己肯定感をへし折られ、承認欲求を滅茶苦茶にされ、愛情の受け皿すら粉々にされた。
おまけに化け物の触手に絡め取られて、人間ですらなくなって……彼女が壊れてしまうことを誰が責められる?
彼女を助けなかった世界の、彼女から奪い続けた世界の、いったい誰が責められる?
少なくとも、助けられなかったヘスティアには責められない。
ベル達を喪ったのは、他の誰でもない、ヘスティア自身の過失だ。
傷ついた子供を守る神として、スピネルを救えてさえいれば、こうはならなかった。
「愛してる……! 愛してるんだ、スピネルくん……!」
「!」
愛してる。
その言葉が、ボロボロになったスピネルの魂の奥にまで染みてきた。
「どんなになっても、君はボクの可愛い娘だ……! それだけは変わらない……! 絶対に変わらないから……!」
せめて、死にゆく娘に、救えなかった我が子に、彼女が最も欲していたものを。
かつて一度は彼女を救えたはずの、神の愛を。
それがヘスティアにできる精一杯。
「……そっか」
その想いは、スピネルの魂の奥にまで届いた。
自分は、ちゃんと愛されていたのだ。
こんな姿になっても、これだけ罪過にまみれても、ヘスティアは見捨てずに愛してくれた。
なら、ベルに勝てなくたって、きっと愛したままでいてくれた。
あの黒い感情に焼かれた心では、上手く受け取れなくなってしまった愛情。
それが鎮火して、ようやく素直に受け入れることができた。
「ああ、これだけで、満足だったのになぁ……」
呪いなんて本当はいらなかった。
あんな黒い感情を抱きたくなんてなかった。
こんな嫉妬と憎悪にまみれた醜い化け物に、なりたくてなったわけがない。
ただ、ヘスティアの愛をちゃんと実感できていれば、それで良かったはずなのに。
なんで、そんな簡単なことができなかったのだろう。
いや、簡単じゃないからこそできなかったのか。
負の感情を抱かずに生きていくことなんて、本来誰にもできない。
自分の努力を全否定するように、簡単に強くなっていくベルが嫌だった。
頑張って、頑張って、ようやくできるようになったヘスティアの役に立てること。
強さ、稼ぎ、そんな自分の存在意義を根こそぎベルに奪われるようで、胸が掻きむしられる思いだった。
もっと褒めてほしかった。
ズルいベルなんかより褒めてほしかった。
そんな気持ちがどんどん歪に膨らんでいって、どんどん心が黒く染まっていって、願いもどんどん歪んでしまって。
そんな自分をどうにもできず、どうにかしようと
闇から這い上がってでも帰ろうとして、目に入ったのは焼き尽くされるような
もうダメだった。
栄光の階段を駆け上がっていくベルと、何も成せずに化け物に墜ちた自分。
あまりの格差に、惨めさに、妬ましさに、心が引き裂かれた。
壊れて、狂って、ベルへの憎しみを抑えられなくて。
ヘスティアはこんなこと望んでないって本当はわかっていたのに、黒い感情に突き動かされる自分を止められなかった。
傷つけて、傷つけて、踏みつけて、踏みにじって、殺して、殺して、殺して。
そんなことの代償に命も魂も捧げてしまって、こんな救いようのない最悪の終わりを迎えた。
……けれど。
「ありがとう……
今この瞬間だけは、最期のこの時だけは、間違いなく救われた。
過去も未来も地獄だけど、今だけは
スピネルは涙を流しながら微笑んで━━次の瞬間、魔石が完全に砕け散った。
体が灰になって崩れ落ちる。
しかし、肉体から解き放たれた魂は天に昇れず、地の底に住まう穢れた精霊に引き寄せられていく。
足りない素質の代わりに、魂すら捧げる契約をした代償。
この先ずっと、彼女の魂は穢れた精霊の手駒だ。
穢れた精霊が討たれるまで、下手したら何千年も、何万年も囚われ続け、転生を果たしたベルと血みどろの戦いを繰り返し続けるだろう。
そこから解放されたとしても、待っているのは神殺しの代償を支払わされる悲惨な人生の連続。
輪廻転生を果たしてもなお救われない、苦しみの連鎖。
「させない」
そんな未来を、彼女の親である女神は認めなかった。
ヘスティアの体から、莫大な力があふれ出す。
『
地上での使用を禁じられた、使えば天界に強制送還されて、二度と下界には戻ってこられない力。
ヘスティアはそれを躊躇なく使った。
「ボクの娘は渡さない。去れ」
『!!』
スピネルの魂を引きずり込もうとしていた穢れた精霊の触手が、神の力によって引き裂かれる。
触手の束縛が消えても、刻まれた傷と罪過はどうしようもない。
断ち切った触手にしても、転生を果たした先で見つかれば、また絡め取られるだけだろう。
一度は結ばれた契約を辿って、穢れた精霊は必ず追ってくる。
そんな重い重い十字架を背負った小さな魂を、ヘスティアは大事に大事に抱きしめた。
「大丈夫。もう君を離さない。これからは、ずっと傍にいる。前みたいに、ずっと」
スピネルの魂を抱きしめたまま━━ヘスティアは光の柱となって、天界へと強制送還されていく。
神殺しの罪過と、転生しても逃してくれないだろう穢れた精霊から彼女を守る方法は一つ。
スピネルを輪廻の輪に帰さず、自らの神域でその魂を守り続けること。
ずっと肉体を持たない魂だけの状態では、永遠に眠り続けるだけだろう。
贖罪の果てにあるかもしれない『人としての幸せ』を、それどころか『人としての全て』を奪い取る行い。
安楽死させたと言っても過言じゃない。
それでも、スピネルにもうこれ以上の苦しみを味わってほしくなかった。
これ以上の苦しみを撒き散らしてほしくなかった。
転生したベルにも、穢れた精霊に敵対する者達にも、もう彼女の力は振るわせない。
自分自身も含めて、もう誰も傷つけさせない。
神の酷く傲慢な責任の取り方だ。
傷だらけの哀れな子供を、
「……お休み、スピネルくん」
せめて、愛娘の魂に安らかな微睡みを。
そうして、一柱の神と一人の眷族は、共に天へと昇っていった。