次の目的地への道は、少しだけ記憶を掘り起こさなければならなかった。
何せ、ちゃんと行ったのはたったの一回だけ。
この日のために何度も道順は確認してきたが、それでも過日の記憶に殆ど無い以上、ギルドのように目を瞑っていても辿り着ける、とまではいかない。
それでも地道な確認作業は裏切らず、特に迷うことなくそこへ辿り着いた。
「お邪魔しまーす」
「あ、はーい!」
そこは、その店は、この騒ぎの中でも嫌に落ち着いていた。
まるで絶対的な何かに守られているかのように、店内の客は不安そうにしてはいても、災禍がここまで及ぶとは考えていない様子だ。
情報を集めて知った事実を考えれば、それはそうだろうと思わされたが。
「ああ、良かった。いてくれましたね━━シル・フローヴァさん」
「はい?」
そこで働く一人の女性を見て、スピネルは嬉しそうに嗤った。
シル・フローヴァ。
何故かベルにやたらと好意的で、彼と知り合い以上友人未満みたいな関係だった人。
ベルをシルバーバック戦に導いたキッカケでもある。
あれから結構な時間が経っているし、もう友人未満からは昇格しているだろう。
仲の良い美少女。
エイナ同様、ベルの目の前で殺す価値がある。
……しかし。
「前に見た時には気づきませんでしたが……シルさんって神様だったんですね」
「ッ!?」
秘密を言い当てられて、シルの顔が驚愕に彩られた。
スピネルを操る穢れた精霊とは、神がまだ地上に降りてくる前の太古の時代に、神に代わって地上に遣わされた神の分身『精霊』がモンスターに取り込まれてあり方が反転してしまった存在だ。
元が神の分身であるため、穢れた精霊も神の力の断片を持っている。
『対価』と『代償』の引き換えとして眷族であるスピネルに貸し与えられた僅かな神性が、シルの正体を見抜いた。
「あ、もしかして、ベルを見えない何かで守ってるのってあなたですか?
……だとしたら、あなた自身にも殺意が湧くなぁ」
「!?」
向けられる殺意。
その時、シルはスピネルのどす黒く染まり、不気味な触手に絡め取られたグチャグチャで傷だらけの魂を見てしまい。
あまりの悍ましさに吐き気を覚えて、口元を押さえた。
そんなシルに、スピネルは容赦なく、エイナにしたような意識を刈り取る腹パンを食らわせようとして……。
「ウチの店員に何する気だい?」
「!」
突然現れた女に、拳を放とうとしていた腕を掴み上げられた。
身長180Cほどの、縦にも横にも大きい年嵩の女性だ。
レベル4相当に至った今のスピネルでも目で追うのがやっとのスピードで現れ、簡単に腕を掴んで拘束された。
掴んでくる力も尋常じゃないほど強くて、
「アハハ。さすがはオラリオ最強派閥の片割れ、フレイア・ファミリアの元団長『ミア・グランド』。
随分前に引退したって話でしたが、それでもオラリオ最高峰のレベル6。
「む!?」
その瞬間、ミアは自分より30Cは背の低い幼子から感じる圧力が、尋常ならざるほど高まったのを感じた。
本能が危険を察知してスピネルの腕を離し、シルを抱きかかえて距離を取る。
同時に、ミアは客に向かって叫んだ。
「逃げな、あんた達! ここに残る奴の面倒は見切れないよ!」
「え? は?」
「ど、どういうこった!?」
「ただのガキじゃねぇか!」
察しの悪い客達に、ミアは思わず舌打ちしそうになった。
スピネルは、そんなやり取りに全く頓着せず、
「うん。大丈夫。すぐに終わらせるから。やらせて? 予行練習は大事だよ」
虚空に向かって不気味に話していた。
「ありがとう。あなたは意外と優しいね」
スピネルの殺気が、改めてミアに突き刺さる。
錆びついていたはずの冒険者としての勘が警鐘を鳴らしていた。
これは、やばい。
武器を取りに行く隙すら無い。
一瞬でも背中を見せれば、その瞬間にやられると確信できた。
「あんた、いったい何者……」
そこまで口にした時━━ミアの視界からスピネルが消えた。
次の瞬間、彼女は既にミアの懐に入っていた。
レベル6のミアが目で追えないほどの超スピード。
咄嗟にガードを固めるのと、殴られたと理解したのは同時だった。
「ぐぅぅ!?」
盾にした両腕が砕ける。
踏ん張りが利かずに吹き飛ばされる。
かつての英雄ミア・グランドの体が、一代で築き上げた大事な店を破壊しながら飛翔し、その後ろの建物も次々貫いて。
数百M飛ばされたところで、頑丈な壁にめり込み、ようやく止まった。
「がはっ!?」
その時にはもう、彼女の体は戦える状態ではなくなっていた。
武器が無かった。実戦から遠のいて久しかった。
言い訳できる要素はいくらでもある。
それでも、レベル6の絶対強者が、たった一撃で戦闘不能にさせられた。
その事実は消えない。
「ゴホッ! ゴホッ、ゴホッ、ゴホッ、ゴホッ!!」
一方、それを成したスピネルの方もダメージを受けていた。
ミアがカウンターを浴びせたわけではなく、全力を解放した反動ダメージだ。
拳を振るった腕も、超速で踏み込んだ足もグチャグチャ。
怪人の再生能力で修復はされていくが、その速度は遅い。
肉体のもっと深いところに、深刻なダメージを負ってしまったから。
『後先を考えなければ、もっと行けますよ』
かつて、スピネルがレヴィスに語った言葉。
『対価』と『代償』を支払い、神性を貸し出す加護と共に、穢れた精霊に刻んでもらった恩恵モドキ。
それによって
呪詛が『想い』によって芽吹いた力なら、こっちは『資質』によって花開いた力。
全力を出せば体がイカれる。
そんな体質が、獣人の『獣化』のように、エルフの『魔法強化』のように、スキルにまで昇華したのだ。
けれど、この力はあまりにも身の丈に合わな過ぎて、一瞬しか使えない。
その一瞬だけならレヴィスをも大きく超える力を出せるが、反動で大きく命を削る。
スピネルは凄まじく苦しげに咳をして、血を吐き散らした。
「ハァ……ハァ……! ふぅ……。たった一発殴っただけで、こんなにキツいんだ。
決戦の前に試せて良かった」
大事な場面でいきなりこんな苦しみに襲われたら、隙を晒していたかもしれない。
ベルが第一級冒険者の群れを率いて現れる可能性もある以上、事前にこの苦しみを予習できたのは僥倖だ。
覚悟ができていれば耐えられる。
「それにしても……」
「ひっ!?」
「こ、こっち来んなぁぁぁ!?」
「助けてくれぇ!?」
店内にいた客が泡を食って逃げていく。
……ここにいたのが客ばかりで、他の店員がシル以外何故かいなかったのは助かった。
情報によると、豊穣の女主人の店員は、ミア以外も化け物みたいに強い。
そんな彼女らに今の咳き込んだ隙を突かれていたら、危なかったかもしれない。
まあ、その場合はスピネルが更に命を削る代わりに、反撃で全員死ぬ可能性が高かったので、彼女らにとっては『幸運』だろう。
「ミア!!」
「大丈夫。素手で殴っただけなんですから、死んではいませんよ。殺そうとしたら邪魔されそうですし」
信じられないとばかりの悲鳴を上げるシルに対して、スピネルはそんなことを言う。
「一回噛みついてみて、なんとなくわかったんですよね。あの理不尽な幸運の特性。
最終的には全部が全部あいつにとって都合の良い結果になるけど、その過程でピンチになるのは容認される。
ただし、取り返しのつかない結果になりそうなら妨害される。
あのヴィーブルが死んだ時、都合良く蘇生魔法なんて代物が出てきたみたいに。
要はセーフティネットありきの試練ごっこをさせて、あれの恩恵を成長させたいんでしょう?
どうです? 合ってますか?」
ベルに過度な幸福を与えている疑惑のあるシルに向かって、答え合わせを求めるように問いかける。
しかし、彼女の顔には「何言ってんだ、こいつ」と書いてあった。
……彼女が犯神かと思ったが、違うのかもしれない。
「……まあ、つまり、ミアさんやあなたをここで殺そうとしたら都合良く援軍が現れるけど、戦闘不能にしたり攫ったりする程度なら大丈夫って話ですよ」
呪いが使えればこんな心配をしなくても済むのだが、あいにくあれはベルを射程内に捉えなければ使えない。
向こうの力を遮断するという効果も、あくまでもスピネル自身の足を引っ張るデバフを無効化するだけであって、シルやミアを守ろうとする力を消すことはできない。
対抗手段を手に入れてなお圧倒的不利でイライラする。
そのイラ立ちの感情も、つい
「うっ……!?」
ミアという守護者がいなくなり、スピネルの悪意が再びシルに牙を剥く。
彼女はなりふり構わず、神としての権能を使った。
使ったら問答無用で天界に強制送還させられる『
鍛冶神が神の力に頼らずとも、人類では手の届かぬ名工であるように。
武神が神の力に頼らずとも、恩恵を授かった冒険者を倒せるほどの達人であるように。
美の神である彼女の権能は『魅了』。
シルの瞳が銀に輝く。
見つめられた者を狂わせる、魔性の光。
それによって、スピネルを魅了することで危機を脱しようとして……。
「? 今、何かしましたか?」
「ッ!?」
まるで効かなかった。
抱え込んだ負の感情が大き過ぎて、魅了が通らない。
魂を覆うどす黒い感情の炎が、自らすら焼き焦がすほどの強大すぎる呪いが、美の神に惹かれようとする感情が芽生える前に焼き尽くしてしまう。
どんな生き方をすれば、こんな人間が出来上がるというのか。
「あぐっ!?」
そして、シルは今度こそ腹パンを叩き込まれて気絶させられた。
スピネルは彼女を担ぎ上げて、最後の第三目標に向けて走る。
レベル4相当に戻った身体能力で走って辿り着いたのは……大きなお屋敷。
この建物の名は『竈火の館』。
そう。ヘスティア・ファミリアの現在のホームだ。
「……良かった。ヘスティア様はいないみたい」
極まったマザコンによって、特に何かの力を借りずともヘスティアの気配を察知できるスピネルは、ヘスティアが外出中であることを悟ってホッとした。
これなら、遠慮なくやれる。
スピネルの片腕が竈火の館に向けられ、その腕が歪に
「『ファイアボルト』」
魔法モドキが放たれる。
チャージして威力を増した爆炎の砲撃が、竈火の館を倒壊させる。
自分から奪った幸福で形作られた忌々しい場所が、瓦礫の山へと変わる。
かつて、あの廃教会がそうなったように。
「ふぅ。ようやく、これで最後」
最後に、スピネルは倒壊した竈火の館の玄関前に、一通の手紙を置いた。
これは『招待状』であり『脅迫状』だ。
『エイナ・チュールと、シル・フローヴァは預かった。
返してほしければ、クノッソスの決戦に参加して取り戻しに来い』
こうしておけば、ベル・クラネルは確実に来る。
だって、彼は英雄を目指していると言っていたから。
だって、彼は可愛い女の子との出会いを求めてオラリオに来たと言っていたから。
だって、彼には望みの全てを叶えてくれる幸運がついているから。
世界に、運命に愛された少年は、ヒロイン達を助ける英雄として、必ずや決戦の地へと訪れる。
その時こそが━━ベル・クラネルの最期だ。
「ああ、やっと君を殺せる……!」
スピネルは恍惚とした顔で嗤いながら、走り去った。
途中で隠しておいたエイナを回収し、クノッソスのまだ知られていない出入り口を開けて中に入る。
どうにか地上に連れ出した食人花達が全滅するまでの間に、全ての用事を終わらせられた。
そして、クノッソス内でしばらく待っていれば━━予定通り、捕食の大魔法が発動した。
蠢く緑色の肉がクノッソスを蹂躙していき、取り込まれた者を養分へと変えていく。
結局、ロキ・ファミリアは全員逃げおおせたそうだが、逃げ遅れた協力者の派閥と闇派閥残党、合わせて百人以上が贄となった。
吸収した
それを使って、六体の精霊の分身達が歌い始める。
精霊の六円環の詠唱を始める。
冒険者達を処刑場へと駆り立てるための、破滅の旋律が聞こえてきた。