「お、ベル君とリリじゃないか。おはよう。今から探索かい?」
早朝。ダンジョン探索に向かって歩いていると、前の方に見覚えのある白髪と大きなバックパックを背負った小さな影が見えたため声をかける。違っていた時は怖いが、この2人に関していうなら間違える方が難しい。
「おはようございます、ズィーヤさん!はい!さっきまで今日はどこまで潜ろうかって話してたところなんです」
朝から元気いっぱいに挨拶を返し、やや前のめりに声をかけてくるベル君。
至近距離からキラキラと輝いた紅目で俺の事を見てくるベル君に体を仰け反らせる。なんか、そんなにキラキラされるようなことしたっけ……?
「もう、ベル様?そんなに前のめりになってはズィーヤ様を困らせてしまいますよ」
「あっ!す、すいません!」
「いや、気にしてないから大丈夫だよ。リリ、気を使ってくれてありがとう」
「いえ、これもリリの役目ですから。改めて、おはようございます。ズィーヤ様!」
素直なベル君の行動を呆れながら窘める様子は、体格差がありながらも姉弟のようで微笑ましいものだった。
だが、こうして明るい笑顔で元気に挨拶する姿は幼さを感じさせて先程の姉のようだった姿とは違った印象を与えるな。そう感じるのも、ベル君に助けられて色々としがらみが無くなったからかな?
と、他人の心を深堀するのは無粋だし確証もないのにそう決めつけるのはリリへの侮辱と言える。雑念もここまでとしておこう。
「それで、ズィーヤさん、何か御用でしたか?」
「おいおいベル君、もしかして用がないと声もかけちゃいけなかったかい?そんなに嫌われていたなんて……俺は悲しいよ……」
「え、えぇっ!?!ち、ち違いますよ!そういう意味じゃなくてっ!嫌うなんてそんなわけ!いや、そのっ!」
「ベル様、落ち着いてください……ズィーヤ様も、あまりベル様で遊ばないでください」
ベル君のわかりやすい慌てふためく姿に笑みを噛み殺していると、じっとりと目を細めたリリに釘を刺される。
まぁ、これ以上は気の置けない友人のコミュニケーションと言うには過剰か。
「冗談だよ。すまないねベル君。意地悪して」
「あ、いえ、その、僕もそう言う取り方ができる言い方だったので……」
「何をどう育てたらこんな純朴になるんだ……?」
「ズィーヤ様の言いたいこと、リリにも分かりますよ……」
俺とリリに不思議そうな目を向けるベル君。彼、女の子だったら絶対外歩かせたらダメだよ。勘違い男と危ない男しか寄ってこない。
ベル君の危ういほどの純真さと純朴さは置いておくとして、そろそろ本題に入ろうか。
「これから探索なら俺も同行していいか?最近9階層を探索し始めたんだが、思ったよりも何とかなりそうなんでな。2人さえ良ければなんだが、10階層まで同行させて欲しい」
「本当ですかっ!?やったー!」
同意でも拒否でも無く、言葉と全身で喜びを顕にするベル君。その姿はプレゼントを貰った子供のようで、つまり俺はベル君へのプレゼントだった?
「リリ、リリ、なんでベル君こんなに喜んでるの?俺、彼にこんなに好かれる事したっけ?」
「……まぁ、ベル様にも色々あるということですよ」
どこか辟易とした様子のリリが未だに喜ぶベル君を落ち着かせ、俺達は改めてダンジョンへと向かった。
「ふぅっ!」
「……っ!」
ダンジョン第8層
襲いかかってくるアリの大群をベル君と2人がかりで処理し続ける。
ベル君は持ち前の敏捷で素早く動き、一体一体を一撃で仕留めていく。中には甲殻への攻撃もあったが、ナイフの切れ味と速度、力によって無理やり殺しきっていた。
俺はベル君の後ろで打ち漏らしを大槌で吹き飛ばしていく。郡のような面で戦う必要がある時は、大槌を使うと戦いやすい。
殺せなくても吹き飛ばせば相手の進行の邪魔できるし、一体なら堅い甲殻なども気にせず叩き潰せる。
「はぁ……ふぅっ、はぁ」
「ベル君、交代だ。少し息を整えてきてくれ」
「はいっ」
ベル君が少し息切れし始めたため、俺の場所と入れ替わる。
ベル君の後ろで打ち漏らしと戦いっていた時も思ったが、異様に数が多い。キラーアントは群れる魔物とはいえ、これだけの数が揃うとなると異常と言わざるおえない。
少し嫌な予感を覚えながらも、後ろにアリを通さないよう大槌で吹き飛ばしていく。
その後、何度かベル君と交代しながらアリ達を蹂躙し、大きな被害なく9階層へと向かうことができた。
「しかし、ベル君は速いな……ついて行くので精一杯だ」
「いやいや、ズィーヤさんも速いじゃないですか!僕、たまにズィーヤさんのこと見失いますもん!」
「それは速い訳じゃなくて死角に入っているだけなんだけど……まぁ、褒めてくれてるんだろ。ありがとうね」
リラックスして雑談しながらも、周囲の警戒は怠らない。ダンジョンでの油断は命取りとなる、というのは有名だが緊張し続ける事もまた良くない。
極度の緊張は疲労に繋がりダンジョンにつけ入る隙を与え、気がついたら死んでいるということも珍しくない。
「ん……?」
「どうかしましたか、ベル様?」
「魔物を見つけたか?」
「いや、そういう訳じゃないんですけど……何かに見られてるみたいな……2人は何も感じない?」
「私は何も感じませんが……ズィーヤ様は感じますか?」
「いや、俺も何も感じない……ただ、妙だと思うことはある」
周囲を見回し、耳を澄ましても物音がしない。
普段の上層9階層であれば、魔物の動き回る音や冒険者の足音、戦闘音が響き、耳を澄ませば幾つかの物音が聞こえてくるものだ。
「魔物と冒険者が少なすぎる」
「あっ、それは僕も思いました」
「リリも奇妙に思っていたんです。8階層では魔物がかなりの数襲ってきましたが、9階層に入ってから一度も魔物と遭遇していません……明らかに異常です」
寒々しい静寂に満たされた9階層に、思わず身体を震わせる。こういう静けさは嫌いだ……良くないことが起こる前兆に感じる。
「……行こう」
顔を顰め、嫌な予感を振り切るように足を進めるベル君。
戻った方が確実に安全ではある。だが、俺の直感が進まなければならないと思考を否定し続ける。
「……行くか」
幾分か離れてしまった2人との距離を詰めるために早足で追いかける。一瞬、背中の恩恵が熱を持った気がした。
「!……止まれ、2人とも」
9階層の奥、10階層へと繋がる道上、最後の広間。
奥から聞こえる足音に嫌な予感が加速する。
ズシン、ズシンと重低音を立てる魔物は9階層には存在しない。
ゴブリンやコボルトが強化種になり、巨大になったとしても、鉤爪などが当たる硬質な音がしない時点で違う。アリやカエルは論外。
考えられるのは2つ。
新種の魔物が現れたか、別の階層から移動してきたか──
「ひっ……」
「……最悪だな、おい」
俺たちよりも一回り以上大きい赤褐色の体躯。はち切れんばかりに肥大化した筋肉は圧倒的な威圧感を放つ。
筋骨隆々という言葉が相応しい体の上には血走った瞳を持った牛頭が乗っている。頭部から伸びる隻角は傷つきながらも輝きがくすむことなく、硬質さを伺わせる。
肉体だけでも格上の風格と共に死を突きつけて来るというのに、手には肉厚で無骨な大剣を握っていた。
「ミ、ミノタウロス……」
何の因果か、5階層で俺とベル君を追いかけたミノタウロス。さらに、恐らく突然変異が目の前に立ち塞がっていた。
「逃げましょう!ミノタウロスなんて、リリ達の手に負えませんっ!」
「ぁ……あ……」
「……逃げたいのはやまやまなんだけど」
俺たちを標的としたミノタウロスは歩みを速め近づいてくる。走っている訳では無いというのに、俺の走る速度を超えている。
敏捷であのミノタウロスに勝っているのは、俺たちの中ではベル君だけだろう。
「あ……ぅあ……」
「ベル様!ベル様っ!」
そして、頼みの綱であるベル君はミノタウロスへの恐怖からか動けずにいた。5階層での出来事を考えれば無理もない。
ベル君の心情にも理解はできるが、この状況で動けないことは致命的だ。ベル君にとってもパーティ全体にとっても。
「……リリ、ベル君のことを頼んだぞ」
「え、ズィーヤ様……?」
「ベル君を正気に戻して一緒に上へ戻れ。多分、途中で【ロキ・ファミリア】と会うはずだから助けを呼んできてくれ」
「ズ、ズィーヤさん……?」
「よく聞けベル君。ベル君の足なら距離さえあれば逃げ切れる。その距離を俺が稼ぐから、全力で上へ走れよ」
ミノタウロスは既に目前まで迫っている。振り上げられた大剣と関節の位置から振り下ろされる場所を想定。
ベル君とリリを後ろに投げ、その勢いのままミノタウロスの股を抜けて攻撃を避ける。
「『深く望むは我が理想 未だ見えぬ羨望の果て 嫉妬に汚れた泥の理想 変われ、変われ、変われ 嫉妬を満たせ 羨望の道を駆けろ
最速で詠唱し、半分以上の精神力を込めた槍を作り出す。ミノタウロスの死角に入るようにして、背後から腰の辺りを狙い撃つ。
「かっっ……!」
確かに突いた。突いたが、貫くことは出来なかった。単純に相手の体が硬く、俺の力が足りなかった。
ダメージを与えることこそ出来なかったものの、ミノタウロスの注意を俺に向けることが出来た。奇しくも、ベル君と初めて出会った時と同じように、ベル君の逃げる猶予を俺が作ったのだ。
「ベル様っ!早くっ!!」
「くっ……あぁぁ!」
広間の入口からベル君達が走り出すのが見える。
この距離ではまだ不安があるが、ミノタウロスの意識は俺に向いている。ちゃんと逃げることが出来るだろう。
後は、助けが来るまで生き残ればいいだけだ。
「ブモォォォ!!」
「……は?」
だが、それらは一貫して、俺の希望的観測であることを叩きつけられる。
俺に意識を向けていたはずのミノタウロスは身を翻し、駆け出したばかりのベル君達を追いかける。
俺の想定よりも少しだけ速く、ベル君の全速よりも少しだけ遅い。
それでも、俺が妨害できず、駆け出したばかりの2人に追いつき、大剣の染みにするには十分な速度。
「2人とも、避けろぉ!!」
リリがいち早く俺の声に反応し、ベル君共々左の方へ体を投げる。
それを尻目に我武者羅に投げた槍は大剣の側面を叩き、振り下ろされる位置を右にズラすことが出来た。
しかし、その威力を殺すことは出来ず、吹き飛んだ瓦礫がリリの頭に直撃したようで頭から血を流して倒れ込んでいる。
「リリっ……リリっ!」
「チッ!ベル君っ!ミノタウロスは君を狙っている!辛いことを言うが、リリから離れてミノタウロスの対応を頼みたいっ!」
「!?ぼ、僕が……」
クソッタレ!ベル君は明らかにミノタウロスを怖がってるし、目の前に立っているのが5階層の出来事と重なって状況の悪さに拍車をかけてる!
緩慢な動作でミノタウロスが地面に埋まった大剣を引き抜く。たったそれだけの事で、ベル君の喉から悲鳴になり損ねた音がする。
だが、倒れたリリを見て覚悟を決めたのか、リリをできるだけ遠くに投げて離れるように走りだす。
「僕はこっちだっ!!」
「最高だぜベル君……!」
ミノタウロスはリリから興味を失ったようで、広間を駆け回るベル君を追いかけ大剣を振り回す。
その背後を走り抜け槍を回収し、血を流し続けるリリの容態を確認する。
「血は出てるが軽い裂傷……意識を失ってるのは当たった時の衝撃……息はしてるし時折呻く。汚れを拭ってポーションかけるので問題なしっ!」
遠くに飛ばされていたリリのバックパックからポーションと水の入った皮袋、比較的清潔な手ぬぐいを取り出し処置していく。
「うっ!」
「染みるだろうが耐えてくれよ……!」
できる限り丁寧かつ迅速に処置を終え、壁に寄りかからせるように寝かせる。
「ベル君はっ!」
「はぁ……はぁっ……はぁっ……っあぁ!」
広間を必死に駆け回り、俺とリリの方へミノタウロスが意識を向けないように立ち回っている。
息も絶え絶え、恐怖からか足が震えているが、恐怖を呑み込みミノタウロスから視線を逸らすことなく、生き延びて時間を稼ぐことを優先しているようだった。
「ベル君っ!リリは問題ないっ!加勢する!」
俺の声に反応して、微かに視線を俺に向けるベル君。だが、ミノタウロスを前にして、それは致命的な隙だった。
「ブモォォォ!!!」
「なっ!?くぅっ!」
「チッ!いい加減にしろ牛野郎がァ!」
ベル君を殴り飛ばし、追撃を加えようとするミノタウロスの頭部、さらに言えばその目を狙って槍を突き出す。
だが、死角でもない場所から放つ突きは容易に防がれ、逆に蹴りによって吹き飛ばされる。
「ぐっ……!オ゙ボェ!」
壁に叩きつけられ、地面へとずり落ちる。衝撃でせり上がってきた血を地面へと撒き散らして、ミノタウロスとの比嘉の差を実感した。
咄嗟に槍を引き戻して盾とし、勢いを殺すよう後方に飛んで尚骨を砕く威力。
これがLv2の相手取る闘牛。絶望的なまでのステイタス差に、人間のような戦闘技術。
速さも力も足りない俺じゃ、攻撃してもベル君の足を引っ張ることになりそうだな……なら、兎に角ベル君が戦いやすいようにサポートする!
「ペッ!……ベル君!まだ、戦えるかっ!?」
「ゲホッ……はいっ!問題ないです!」
さて、ベル君は軽鎧が少しヒビ割れ、吹き飛ばされたり転がされたことによる打撲擦り傷。武器は神のナイフとリリから与えられたという短剣。
俺は鎧は完全に砕かれ、肋骨が何本か折れてクソ痛い。武器はへし折られた泥の槍と腰の短剣。
相手に目立った傷はなし、ステイタスの差は歴然。武器は無骨で肉厚な大剣。
2対1でも勝利は絶望的だな……だが、リリが目を覚まし、【ロキ・ファミリア】の助けを呼んできてくれれば俺たちの勝ちだ。
処置の間も呻いたり瞼を動かしたりしていたから、暫くすれば目を覚ましてくれるはずだ。
俺達の勝利条件は、リリが目を覚まし【ロキ・ファミリア】を呼んで来てくれるまで生き延びること。分かりやすくていい……それが、至極難しくてもな。
「ベル君っ!無理に勝とうとするな!耐えて生き延びろ!そうすれば【ロキ・ファミリア】の上級冒険者が助けに来る可能性があるっ!」
「っ!……はいっ!」
なんだ?今一瞬ベル君が躊躇ったような……ってあぶっ!
「クソがっ!ベル君狙ってた癖に今度は俺を狙うとか!浮気性かよっ!魔物も所詮は獣畜生かァ!?」
「ズィーヤさん口悪くないですかっ!?」
「んな事言ってる場合じゃ……ベル君!前へ飛べっ!」
俺へ放った振り下ろしで俺とベル君の距離を離し、主目的であるベル君の胴へに向けて横薙ぎを放つ。
持ち前の速さによって前へ回避し、すれ違いざまに腹筋に向けて神のナイフを振るう。
「傷がついたっ!……けど、浅せぇ……!」
神のナイフはミノタウロスの強固な腹筋を微かに切り裂いたが、刃渡りの短いナイフかつ、すれ違いざまの一撃であった故にその傷は浅かった。
表皮が裂け、筋肉に少し届いたとしても、ミノタウロスという巨体にとっては正にかすり傷。
「ブモォォォォ!!!」
「っ!」
「……こりゃ、本格的にマズイな」
ダンジョンに響き渡る雄牛の咆哮に、震えた身体から冷や汗が垂れ落ちる。
絶望的な試練は、未だ始まったばかりだった。