アルゴノゥトIF短編集


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作:真黒 空
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道化と愚物の邂逅



時系列はアルゴノゥトが王都での冒険を終えた後。
アルゴノゥトとエピメテウスが活躍していた時代のずれはスルー。
その他細かい部分に設定を付け足し。


 

 

 

 

「なぜだっ……なぜ墓すら建てられない!?」

 

 

 

「人々のために勇敢に戦った者達がどうして名を残す事もできないのだ!?」

 

 

 

「愚弄するのは俺だけにすればいいだろう!? 死した者に、尊厳はないというのか!?」

 

 

 

 

 

「それが世界(おまえたち)の仕打ちなのか……!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 海が見える丘の上。

 一人の男が膝をつき、天を仰いで嘆いていた。

 いつからそうしていたのか、それはもう男自身にも分からない。

 数日なのか、数週間なのか、数か月なのかすら、男にはもはや分からない。

 涙はとうの昔に枯れ果て、慟哭は海の向こうへと消えた。

 それでも嘆きが尽きる事はなく、砕け散った尊厳を足場に男は絶望に蝕まれ続ける。

 

 目に浮かぶのは、期待が失望へと移り変わる人々の視線。

 聞こえてくるのは、賞賛から罵倒へと形を変えた人々の怒声。

 

 それは一瞬さえ絶える事なく、男の魂を粉々に砕き微塵に引き裂いていく。

 果てない悲痛に男の心が絶望に染まり切ろうとした時、男を憐れんだ神が『神託』を下そうとした。

 しかしその直前、男の耳が背後で土を蹴る音を捉える。

 

「誰だ? お前も俺を……笑いに来たのか?」

 

 投げやりに、男は問うた。

 信頼できる仲間を失った男は、もう随分嘲笑か罵声くらいしか聞いた覚えがない。

 だが返ってきたのは男が予想もしない明るい声だった。

 

「私があなたを笑いに? ハッハッハ、面白い冗談だ」

 

 それは若い青年の声だった。

 振り向く気力すらない男は確かめる事もしなかったが、青年は男の態度など気にした様子もなく底抜けに明るく笑う。

 

「生憎と私は人に笑われる事はあっても人を笑えるほど立派な人間ではない! 妹にもクズと呼ばれるくらいだしネ!」

 

 情けない事を堂々と言い放ち、青年は嘲りなどまるで含まない純然な笑い声を上げる。

 

「ならば……何をしに来た?」

 

 その笑い声がどうしようもなく耳障りで、男は再度問う。 

 

「万軍の魔物を屠る偉大な英雄の噂を聞き、是非一度お目に掛かろうと遠路遥々歩いてきたのだ! いやーもう足が棒のようだよ」

 

 どうやら青年は街の者ではなく旅人だったらしい。

 青年の答えを聞いた男は、そこで初めて人間らしい感情を露わにした。

 

「英雄……? ハッ! 英雄か」

 

 それは数えきれないほど自身に向けられたものと同じ、嘲笑だった。

 

「ならば無駄骨だったな。ここにはもう、英雄と呼ばれる者はいない」

 

 ありったけの失望を込め、男は答える。

 その返答に青年は意外そうに問い返した。

 

「おや、そうだったのか?」

「ああ。いるのは英雄などではない。ただの敗残者だ。黒き獣に手も足も出ず無為に仲間を死なせた、愚かな英雄の紛い物だけだよ」

 

 口の端を曲げ、男が嗤う。

 魂の一欠けらががまた、砕けて塵になる音がした。

 

「そうか……」

 

 青年が頷く気配がする。

 納得したならばどこへでも消えるだろうと、そう思っていた男の予想に反して、青年は立ち去る事なく思いもよらない言葉を続けた。

 

「しかしおかしいな。確かに私の前には、偉大な英雄がいるというのに」

「なに?」

 

 一瞬、何を言われたのか分からず男は眉を顰めた。

 しかしすぐに青年の言葉を解し、そのあまりにバカバカしさに男はなおざりに問いを投げる。

 

「お前は街へ寄ってこなかったのか?」

「いや。つい先ほど宿に荷物を置いてきたところだ」

「ならば聞いたはずだ。街の者が俺を罵倒する声を。何も守れず、何もかもを失うしかなかった、英雄でない男(エピメテウス)の惨めな敗北を」

 

 聞かなかったはずがない。そう確信しながら男は青年に言葉を吐き出す。

 そして男の予想した通り、青年はそれを肯定した。

 

「ああ、確かに聞いた。街はベヒーモスに敗れたあなたに対する失望で溢れていたよ」

 

 青年の答えに、男はくぐもった含み笑いを零す。

 

「だろうな。――ああ、そうだろうとも……!」

 

 最初小さかった含み笑いは、徐々に大きさを増していく。

 そしてそれはいつの間にか高笑いとなり、男は狂ったような笑みを浮かべながら高らかに両手を広げた。

 

「なぜなら俺は、勝てなかったのだから! 神から与えられた力を持ってしても黒き獣には敵わず、俺はただ仲間が死ぬ姿を見ているしかなかった! 人々の期待に応える事も、強大な魔物を討ち滅ぼす事も、何一つとしてできなかった!」

 

 己の無力を男はまるで誇示するように叫ぶ。

 しかしそこには、どんなに誤魔化そうとしても隠しきれない悲愴な嘆きが込められていた。

 

「そんな俺が英雄だと!? それはどんな笑い話だ!? あまりに滑稽だ! あまりにも不相応だ! 所詮、ただ神から力を授かっただけの俺など、愚かな凡人でしかなかったのだ!」

 

 吐き出した言葉の通り、男はずっと笑みを浮かべ続け笑っていた。

 自分が主役の滑稽な喜劇に。

 届かぬ理想の前に屈した己の無力に。

 

「そうだ! 俺は……俺は――――英雄などには、なれなかった……!」

 

 とうに枯れ果てたはずの涙を目に湛え、男は嗤う。

 天を仰ぎ、まるで懺悔でもするように。

 表情も感情も動作もちぐはぐに、男は己の敗北を宣言した。

 

「……果たして、本当にそうだろうか?」

 

 誰もが言葉を失ってしまうだろう男の痛ましい有様を前にして、しかし青年は静かに疑問を呈した。

 臆する事なく、無遠慮に。男の嘆きになどまるで頓着せず。

 

「………………………………………………なんだと?」

 

 長い沈黙の後、どす黒く染まったような暗い声が返ってきた。

 男は天を仰ぐのをやめ、青年との会話を始めてから初めて振り返る。

 

「随分と知ったような口を利いてくれるな。何者だ。お前は」

 

 聞いただけで背筋が凍るような鋭利な問いの先にいるのは、いかにも旅人然とした格好の青年だった。

 白い髪を煤で汚し瞳を閉ざした青年は、常人なら竦んで声も出なくなるだろう男の問いに、堂々と胸に手を当て名乗る。

 

「挨拶が遅れてしまったな。私はアル。身の丈に合わぬ過分な舞台から降りた、しがない道化の旅人だ」

「道化……?」

 

 奇妙な名乗りに男は眉を顰めた。

 そしてすぐに、その風貌と呼称が街で耳にした詩と同じである事に気付いた。

 

「確かここより遠く離れた南の地、大陸の中心に栄える楽園と呼ばれる王都で牛人に囚われた姫を救った英雄が、稀代の道化などと詠われていたな」

 

 微かな記憶を掘り返した男の言葉に、青年は答える事をせず微かに笑みを返す。

 それに眉を顰め、男は詩で語られていた青年の名前を口にする。

 

英雄の船(アルゴノゥト)、だったか? 死んだと聞いていたが、海を跨いでこんな所をふらつき歩いているとはな。助けた姫が泣くぞ」

 

 自分とは違い英雄と讃えられる青年に、男は皮肉交じりの言葉をぶつける。

 それを受けた青年は微笑んだまま首を横に振った。

 

「私の事はどうか、アルと呼んでくれ。その名は歴史に置いてきた」

 

 男の推測を言外に肯定し、青年はおどけて肩を竦めてみせる。

 

「それとこうして旅をしている事については大目に見てもらいたい。目が見えず、戦えない英雄など戦場には不要だ。もはやあの場所で私にできる事など、一つもありはしないのだから」

 

 そう言って、少しだけ寂しげに青年は笑う。

 その答えから青年がなぜここにいるのかは分からなかったが、なぜ死んだ事になっているかは察する事ができた。

 戦えないとはいえ、国を救った英雄が街を出る事など民が認めるはずがない。

 無理にでも出ようとすれば、民は自分達が見捨てられたのかと絶望し、最悪国を救った英雄の存在が国を滅ぼす可能性さえ出てくる。だから名を変え、表向きは死んだ事にしたのだろう。

 だがそんな事は男にとってはどうでもいい事だった。

 

「それで? 本物の英雄であるお前は、結局何をしにここへ来た? わざわざ海を渡り、俺に説教を垂れに来たとでもいうのか?」

 

 青年が遠い地で英雄と呼ばれていた事を知っても、男の態度は変わらなかった。

 むしろより一層、その声には敵意が込められているようにも聞こえる。

 しかし青年はそれに気付いた様子すらなく男の問いを笑う。

 

「ハッハッハ! 先程も似たような事を言ったが、人に説教などできるほど私は立派な人間ではない。ましてやあなたのような英雄に私が説教など、身の程知らずを通り越して滑稽の極みだ! いかに道化と呼ばれる私といえど、身に余るサ!」

 

 面白い冗談でも聞いたような調子で青年は男の皮肉を笑い飛ばした。

 だがそんな事で吹き飛ぶほど、男の失意と嘆きは軽いものではなかった。

 

「ならば道化らしくバカにしに来たか。無様な私の有様を」

 

 敵意と怒りを隠そうともせず、男は吐き捨てた。

 その迫力に、終始軽薄な態度を取り続けていた青年も口を閉ざし息を呑む。

 未だ膝をついていながら、憎しみすら込められていそうな男の眼光が、確かなプレッシャーと共に青年を射抜いていた。

 

「たった一匹の雄牛を屠っただけで英雄か。随分と手軽なものだな、アルゴノゥト」

 

 嘲るように男は笑い、目に見えぬ重圧に加え剥き出しの敵意が青年を襲う。

 男には耐えがたかった。

 青年の呑気な笑みが、笑い声が。

 挫折も不条理も知らず、流されるままに英雄の誉れを手にした癖に、その栄光をまるでなんの価値もないもののように捨てる。その呆れるほどの傲慢さが、どうしようもなく男の瞋恚に火をつけた。

 

「その程度の偉業で救国の英雄などと讃えられるお前には分かるまい。英雄になれなかった紛い者の嘆きなど。同じ釜の飯を食い、背中を預けた仲間すら失って、その仇すら取れず守りたかった者から罵声と糾弾を浴びせられた敗残者の、奈落の如き絶望と無力感など!」

 

 緩やかな語り口が、徐々に勢いを増し感情と共に爆発する。

 同時に男は金色の瞳から大粒の涙を流し、両の拳で地面を殴った。

 

「真実俺が英雄であったなら、全てを守り、救う事ができたのか!? 俺を信じ、ついて来てくれた戦友(とも)を死なせる事なく、その勇敢な生き様に相応しい栄誉を与えてやる事ができたのか!?」

 

 答えのない問いを吠えるように叫んだ。

 いまでも鮮明に思い出せる、仲間達の笑顔と――凄惨な死相。

 彼らに報いる事もできず、のうのうと生き延びた己の無様を、男は生涯忘れる事はない。

 

「英雄アルゴノゥト。その名をいとも容易く捨ててこの場にいるお前などに分かるものか! 誰よりも勇敢に戦った者達が、死して墓を建てる事もできず、尊厳をゴミのように踏みにじられたその無念の思いが! 英雄に成り損ない、共に戦ってくれた者の名前すら遺してやれなかった俺の悔恨が! 何も失う事のなかったお前などに分かってたまるものかあぁぁあ!」

 

 血を吐くような叫びがこだました。

 その咆哮には、男の無念の全てが込められていた。

 死力を尽くしてなお足りず、守りたいものは手の平から零れ落ち、己を賭した挙句の代価すら、悲惨という表現も生温い汚名と蔑みのみ。

 

 男の瞳から零れる滂沱の涙が風にさらわれ地面を濡らす。

 その様を目に見えずとも感じ取りながら、青年は決して顔を背ける事をしなかった。

 

「分かるさ。私は――救えなかったから。家族も、街も、国も、人も」

 

 瞳の裏にかつて己が味わった絶望を映し、男の慟哭に青年は共感を示した。

 昨日まで暮らしていた街が火の海と化す中で、立ち向かう事すら叶わずたった一人の妖精の手を取る事しかできなかった、あの日に思いを馳せ。

 ずっと憧れていた『百』を救う英雄にはなれないと悟り、人生最後の涙を流した自分の姿を、目の前の男に重ねて。

 

「あなたは英雄だよ、エピメテウス。

 あなたこそが、真の英雄だ。

 紛い物などという評価は、私にこそ相応しい」

 

 心からの畏敬を込めて、青年は男の痛哭を否定する。

 それは男と同じように目に見えぬ存在から力を授かりながら『ニ』しか救う事のできなかった青年の、偽らざる本音だった。

 

「まだお前は、そんな戯言を……!」

「旅の道中で、この地から離れようとする一団と出会った。なんでもその一団の暮らしていた街がベヒーモスの進路上にあり、死ぬ前に逃げ出して来たのだと言う」

 

 激高して男は言い返そうとしたが、青年はそれを遮り別の話を始めた。

 出鼻をくじかれ、男が怯む隙に青年は口早に語り続ける。

 

「黒き獣の災厄は私も話に聞くところ。街では既に避難が始まっているだろうと、何か力になれる事があるのではないかと私はこの地を訪れた」

「……」

「しかし、街の人間は避難などしていなかった。本来なら跡形もなく踏み潰されていただろう街は地図から消える事もなく、その身を亡骸へと変えていたはずの彼らが口々に語るのは、黒き獣への恐怖ではなく、英雄エピメテウスへの失望だった」

 

 それが意味するところを正しく解し、青年は敬意を示すように膝をついた。

 目を丸くする男を前に、青年はただ一人、誰もが見向きもしなかった男の功績を称える。

 

「何が敗残者なものか。あなたへの罵声はそのまま、あなたが為した偉業そのものだ」

 

 迷いなく言い切り、青年は微笑んだ。

 優しく笑むその姿からは嘲りも蔑みも、街の人間が男に向けてきた感情などまるで見られない。

 それどころか、語り掛けてくる青年の声は男に対する敬意と尊敬に満ちていた。

 

「エピメテウス。できなかった事を恥じる必要はない。あなた以外に誰ができる? あの黒き災厄を相手にして、人々の命を守る事が。あなた以外に誰がいる? 数多の勇士を率いて、あの怪物に立ち向かう事のできる者が」

 

 閉じられた眼で真っ直ぐに青年は男を捉える。

 光を映さない青年の瞳には、確かに一人の英雄の姿があった。

 

「詰られたなら胸を張ろう。石を投げられたなら笑い飛ばしてやれば良い。罵声の数だけあなたは命を救い、失望の大きさだけあなたは偉大な英雄であったのだ」

 

 万軍の魔物を討ち果たした。亡国を魔物から取り戻した。

 海を隔てながらも、大陸には英雄エピメテウスの八面六臂の活躍は聞こえてきた。それらの偉業はたとえ、黒き獣に勝てずとも少しも損なわれるものではない。

 青年もまた、そんな英雄の活躍を聞いて憧れた者の一人だった。

 

「ふざけるな……!」

 

 しかし青年の賞賛に、男は身体と声を震わせながら吐き捨てる。

 誰よりも自身の功績を認められない一人の男は、己の無力と世界の仕打ちを呪って吠えた。

 

「お前がなんと言おうと、現実は変わらない! 命を尽くし、顔も知らぬ人々を守ろうとした者達が墓さえ作る事もできず朽ちていった事実は、何一つとして変わる事はないのだ! それともお前は賞賛されるべき英雄達が嘲笑と罵倒の的になった不条理を、笑って許せとでも言うつもりか!」

 

 それが自分一人への罵声だけであれば、男は青年の賛美を受け入れられたかもしれない。

 石を投げられたのが自分だけであったなら、青年の言う通りそんなものは笑い飛ばす事ができたかもしれない。

 しかし、現実はそうではなかった。

 共に笑い、泣き、誓いを立て、理想のために戦った戦友(とも)までもが、男の無力の犠牲となった。

 報われる事もなく、泥に塗れ、嘲笑に晒されたまま、名を遺す事もなくこのまま歴史に忘れ去られるだろう。

 そんな理不尽を前に、厚顔無恥に己の功績を誇る事など、男にできるわけもなかった。

 それは死んでいった仲間への裏切りに他ならないのだから。

 

「許す必要などないさ」

 

 だが青年もそんな事を言うつもりはなかった。

 男の嘆きを直に聞き、その思いを余す事なく受け止めた青年は、安易な許しなど誰の救いにもならない事を正しく理解していた。

 

「だってあなたの悲しみと憤りこそ、亡くなった者達への何よりの手向けになっているはずだから」

「――!」

 

 青年の言葉に男が息を呑む。

 

「憧れ、焦がれ、共に戦った英雄が自分達のために涙を流してくれる。これほどに嬉しい事はない」

 

 まるで自分の事のように、青年は微笑みながら亡くなった者達の気持ちを代弁する。

 事実青年には、彼らの気持ちが痛いほど分かるような気がした。

 

「だがそれでも、あなたが恨みや憎しみに囚われ絶望の底に沈んでしまう事を、亡くなった仲間達は望まないはずだ」

 

 未だ立ち上がる事ができず、怨嗟の言葉を吐き続ける英雄。

 青年には見えなかったが、それが男の仲間達にとって何よりつらい光景だと確信して訴える。

 しかしそれは男の激情を煽るだけだった。

 

「知ったような口を……! あいつらの顔を見た事も、会って話した事もないお前に、俺達の何が分かる!?」

「私も英雄に憧れ、その道を目指した者。たとえ顔を合わせた事がなくとも、言葉を交わした事がなくとも、その思いを解する事はできる」

 

 激高する男に少しも怯む事なく青年は言い返す。

 誰よりも英雄への憧憬を知っていた青年は、自分の推測が外れているとは少しも考えていなかった。

 そして目の前の男こそがその憧憬の存在だと、自らが理想とする英雄の姿を重ね青年は問う。

 

「あなたとその仲間は賞賛や名誉のためなどではない、人々の命と笑顔を守るために戦った。そうだろう?」

「っ!」

 

 青年の問いに、男は返す言葉を失い沈黙した。

 目に見えない青年にも、男の動揺は伝わってきた。

 青年の問いは、青年が思う以上に男の心を揺さぶっていた。

 なぜならそれは、男の人生の意味を問うているのに等しいものだったのだから。

 発露していた激情は表面上は引っ込み、しかし消える事なく男の心をかき乱し、数多の犠牲と悔恨が男の魂にここに至るまでの是非を問う。

 

 神託が下り、剣を取り、魔物を屠り、戦友(とも)を得て、人々を救った。

 救いの手は届かず、慟哭が耳を打ち、失望を受け、嘲笑を背に剣を振るい続けた。

 

 己の人生を振り返る中で永遠とも思える問答と葛藤が繰り返され、それが終わると同時に、男は力なく再び天を振り仰いだ。

 

「……そうだ。だがそれも全て、無駄だった――!」

 

 男の結論は、己の人生そのものの否定だった。

 

「救っても救っても、救いきれぬ。更なる悲劇が束の間の幸福を塗り潰す。俺がどんなに戦っても、人々(おまえたち)の涙は止まらない」

 

 どれだけの魔物を屠っても、何も変わらなかった。どれだけの人を救っても、意味などなかった。

 次の日には屠った数の倍の魔物が押し寄せ、救った命は手の平から零れ落ちていった。

 

「隣に立っていた戦友(とも)も、一人、また一人といなくなっていった」

 

 同じ理想を持ち、共に戦った仲間を守る力など自分にはなかった。

 理想のために死んでいく仲間の遺志を背負い、来る日も来る日も剣を振るった。

 

「成果を上回る犠牲に罵倒が飛んだ。犠牲を上回る命を守っても、石を投げられた」

 

 一つでも多くの命を救うため駆けずり回った。それでも届かぬ命が消える事はない。

『百』を救おうとも零れる『一』がある限り、認められる事はなかった。

 俺自身も、救えたなどと自惚れる事はできなかった。

 

「すまないと詫び続け、それでも人々の命と笑顔を守り続けられるならと、戦い続けた。絶えぬ傷を癒す暇すらなく、痛哭を聞きつければ東へ、嗚咽が漏れれば西へと向かい、数えるのもバカらしい魔物を屠った。その結果が――――これだ!」

 

 天を仰いでいた顔を青年をへと向け、男は嗤った。

 大粒の涙をとめどなく瞳から流しながら、力の限り叫びを上げて。

 

「全てを救えぬ英雄など、黒き獣を討てぬ英雄など、ただの敗残者! そんな英雄について来た勇敢な者達は、本来なら歴史に名を遺す勇者達は、ゴミ屑同然に蔑まれその墓を建てる事すら叶わない! 救えた命も笑顔も、そこには真実一つもなかった!」

 

 両手を広げ、心底愉快とばかりに男は嗤い続ける。

 何一つ為せなかった滑稽な己の生き様を。道化のように無様な人生を。

 

「無駄だったのだ! 歴史は、世界は、名を遺す事もできなかった英雄達など顧みる事もなく忘れ去る! 俺達が救った命は、敗残者エピメテウスを呪ってその生を終え、生涯にただ一度の笑みを刻む事もない!」

 

 男の顔から、笑みが消えていく。

 それに反比例するように、零れる涙の量は増えていく。

 留まる事を知らない悔恨が、尽きる事のない無念が、絶叫と共に男の喉から迸った。

 

「俺はただ束の間、少ない命を救い上げただけで、その絶望を振り払う事はできなかった! 俺は……俺は――人々に希望(エルピス)を与える真の英雄などには、なれなかった――!」

 

 自分が愚かである事など、知っていた。

 並外れた才などない。選ばれたのはたまたまそこにいたからだという事くらい、誰に言われずとも分かっていた。

 だがそんな自分にも、できる事があるのならそれを全うしようと、戦って戦って戦って――――戦い続けてきたのに。

 結局世界が求めていたのは、神に偶然選ばれただけの『英雄もどき』などではなかった。

 

「エピメテウス」

 

 絶望に打ちひしがれる男の名を、青年は呼ぶ。

 誰もが憐み、言葉を失ってしまうような嘆きを聞きながら、それでも男が立ち上がる事を信じて。

 

「同じ言葉を、あなたは亡くなっていった仲間達に言う事ができるのか?」

「っ!」

 

 青年の問いに男は身体を震わせた。

 男が反論の言葉を口にする前に、青年は続ける。

 

希望(エルピス)を与える事は出来なかった? 本当にそうだろうか? どんな苦難があろうとも、絶望に折れる事なく戦い続けたあなたの生き様は、暗黒の世界を照らす希望の光として仲間達には映ったはずだ。だからこそ彼らは、あなたを信じて共に戦ったのではないのか?」

 

 青年の言葉が男の記憶を呼び覚ましていく。

 まだ英雄と呼ばれていた日、仲間達が自分に向けてくれた確かな信頼と、真っ直ぐな憧れ。

 あなたのようになりたいと言ってくれた、友の言葉を。

 

「ならばあなただけはそれを否定してはならない。どれだけの失意を味わい、絶望の底なし沼に溺れ瞳を閉ざそうとも、誰よりもあなただけは、彼らの偉業が無駄であったなどと断じてはならないはずだ。彼らの死が無駄ではなかったのだと証明できるのは、彼らが命を賭して信じた、あなただけなのだから」

 

 俯き沈黙する男に、青年は思いの限りをぶつけるように言い募る。

 たとえ男が自身をどれだけ否定しようが、そんなものは信じないと態度で示すように。

 

「思い出してほしい。あなたに感謝を告げる人々の声を。幾千幾万の罵声を浴びようと、あなたの偉業はそんなものに塗り潰されるものではない。あなたに救われた者の中には、あなたの勇姿を忘れぬ者が必ずいる。そしてそんな者が一人でもいる限り、あなたの行いが無駄だったなんて事は絶対にないんだ」

 

 青年の言葉に、男の脳裏に忘れかけていた光景が浮かび上がる。

 

 

『ありがとう、英雄様!』

 

 少女がこぼれんばかりの笑みを浮かべてそう言った。

 

『故郷を取り戻してくれて、ありがとう……!』

 

 男が大粒の涙を流しながら感謝を捧げた。

 

 

 

 憶えている。

 

 笑顔を救えた。

 涙を拭う事ができた。

 

 ただそれが――誇らしかった。

 それだけが、俺が剣を振るう理由だった。

 なのに――

 

「それでも……俺にはもう、人々に笑顔を取り戻す事は叶わん。希望にはなれない。いくら命を救おうと、奴らはもはや……俺になんの期待もしない」

 

 目的を思い出し再び灯り掛けた気力は、敵わぬ絶望を前に立ち消えていく。

 黒き獣に敗れた男は、もはや英雄には成り得ない。

 これから先、男がどれだけの魔物を屠ろうと、その果てに決して討ち果たせない怪物がいる事を知っている人々は、明るい未来を男の背中に見る事はない。

 いずれ来たる滅びの結末に恐怖し、笑みを忘れ、その身を震わせて命が終わる時を待つ。

 それを覆す事は、英雄ならぬ男の身では不可能だった。

 だからこそ男は、膝を折ったのだ。

 

「ならあなたが取りこぼしてしまった笑顔は、私が拾ってみせよう」

 

 だというのに、青年はそんな男の諦観を軽々と飛び越えて笑ってみせた。

 

「人々が希望を失わないように、私がその心に光を灯そう。いまは無理でも、いずれ必ず人類はあの黒き災厄に打ち勝ち、この暗黒の時代に終止符を打つのだと。そう信じて人々が笑って暮らせるように、声を上げて私がみなを笑顔にしよう」

「何を……そんな事が、できるわけ……」

 

 目を見開き動揺に露わにする男に、青年は微笑んだまま首を振る。

 なんの根拠もなく、なのにそれを信じさせてしまう不思議な説得力を持って、青年は力強く告げた。

 

「それくらいなら、紛い物の私にもきっとできる。『百』を救ってくれた英雄の、取りこぼしてしまった『一』を救うくらいなら、英雄の皮を被っていない道化にも届くはずだから」

 

 道化の本分は人を笑わせる事だとでも言うように、英雄でなくなった青年は胸を張った。

 それがどれだけ途方もなく困難な事は知っているだろうに、一つも臆する事なく。

 

「あなたが命を、私が笑顔を守れば、たとえ黒き獣を討つ事ができずとも、私達は守りたいものを守れる。違うか、エピメテウス」

 

 笑いながら問い掛けてくる青年。

 呆然とそれを聞きながら、男はそこに英雄譚(アルゴノゥト)に詠われた英雄の威風を見た。

 滑稽な喜劇の影に潜んでいた、隠しきれぬ英雄の器を。

 

「アルゴノゥト、お前は……」

 

 驚愕と共に男が青年の名を口にする。

 しかし続く言葉は思うように出て来ない。

 そして男が自分の内にある言葉を見つけるより早く、青年は胸に手を当て、目の前の英雄に心からの敬意を表した。

 

「英雄エピメテウス。あなたとあなたの仲間が為した偉業は決して無駄などではない。たとえ黒き獣には敵わずとも、数多のかけがえのない命を守り、剣を落とす事なく戦い続けたあなたの生き様は必ず後世へと語り継がれる。それは人々に勇気を与え、次代の英雄が後に続く礎になるだろう。そしていずれは、あなたが討つ事の叶わなかった黒き災厄に届く『最後の英雄』を生み出す」

 

 確信と共に言い切り、青年は男に向かって手を伸ばした。

 

「だからもう一度、立ち上がってはくれないだろうか。エピメテウス」

 

 人々を笑顔にすると言った青年は、誰よりも明るい笑顔を浮かべ英雄へと手を差し伸べる。

 まずは彼自身が戦い続ける内に落としてしまった笑顔を拾うために。

 

「罵声など笑い飛ばして、己の為した偉業にただ胸を張ろう。亡くなった者達もきっと、それを望んでいるはずだ」

 

 英雄に憧れ、英雄の器でないと知り、それでももがき続けて英雄と呼ばれた青年は、英雄でなくなったいまもなお、英雄を信じて疑わない。

 幼心に宿した憧憬を、バカみたいに真っ直ぐと持ち続けている。

 敗北しようが、絶望に屈そうが、そんなものは青年の憧れに少しも泥をつける事はない。

 青年は知っているから。

 自分達が憧れた英雄は、何があろうと最後には必ず立ち上がってくれる事を。

 そこにどんな根拠も理屈も必要ない。

 だから青年は、ただ信じて笑みを向ける。

 

 

「あなたのような真の英雄が紡ぐ英雄譚を、人々(わたしたち)はいつだって心待ちにしているんだ」

 

 

 男が掴む事を疑わず、こちらに手を差し伸べ続ける青年の笑顔を見て。

 とめどなく流れていた男の滂沱の涙が止まる。

 そして男はこの時になってようやく、自分の目の前に立っている青年が何者かを理解した。

 

 ――なるほど。これがあの吟遊詩人(うさんくさいエルフ)が詠っていた、道化の英雄。

 

 初めて聞いた時はふざけた話だと思ったものだ。

 人々に騙され、笑われ、なのになし崩し的に活躍する愚かな道化など。

 笑うよりも先に怒りが湧き、とてもではないが二度目を聞く気にはなれず、なのにどうしてか忘れる事もできなかった。

 だがいまになって分かる。

 自分がそれを受け入れられなかったのは、それがふざけた話だからなのではなく――――憧れたからだったのだ。

 どんな嘲笑も、どんな苦難も、まるで堪えないとばかりに笑って乗り越えていく、その強き心に。

 決して自分では持てぬ、英雄の器に。

 

 ――たとえ力で劣ろうとも、絶望を払拭し人々に笑顔を齎す。

 

 それは目に見える力よりもよほど尊く、得難い力。

 男はそれを理解し、自分との差を思い知る。

 

 

 

 

 

 アルゴノゥトとエピメテウス。

 精霊と神、違いはあれど共に人知の及ばぬ存在から力を授かり、一時は英雄と呼ばれた者同士。

 二人に違いがあるとすれば、それはきっと、英雄になった経緯。

 

 力を授かった結果、英雄を始めた男と。

 ひたむきに英雄を目指し、結果的にその名を冠するに至った男。

 

 希望を知らず、自らが希望たらんとした男と。

 理想とする希望を抱き、憧れと共にそれを口にし続けた男。

 

 たったそれだけの違い。

 それだけの違いで、一人は希望を見失い、一人は希望を絶やさなかった。

 

 

 

 

 

 ――アルゴノゥト。これが人々の希望(エルピス)となった喜劇の道化。

 

 ――英雄の船と呼ばれる、真の英雄か。

 

 

 

 初めて目にした真実の英雄の姿に、男は疲れたように口の端を上げ、その手を取った。

 





4周年記念にダンメモ2・4周年コラボ小説。

2部が終わった時点では今作を書く気がまるでなかったのですが、3部でゼウスの子守歌を見た瞬間には書く事を決めていました。あの文言は卑怯ですね。

作品紹介にも書きましたが、今作を書くにあたってタイトルを変えています。今後また続きとしてアルゴノゥトの短編を書くかは決めていませんが、今回のようにこれだ! というネタがあれば書く事もあるかもしれません。リクエストを受けつけようかなと思いますので、詳細は活動報告にてご確認ください(この作品の感想欄でのリクエストは規約違反になるのでお控えください)。ただあくまで気分が乗れば書く、くらいのつもりなので、あまり期待しないでいただければ幸いです。
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さわらないで小手指くん(11) [講談社]
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