旨みと美味いは無関係
こんにちは榊正宗です。最近SNSで何かと話題の味の素の話ですが、わたし、これが本当に嫌いなんですよね。気になったのでChatGPT のDeep Researchで調べてみたら面白い事実が分かりました。
よく「旨み成分」といった表現で誤魔化されていますが、わたし自身、そもそも旨いと感じたことが一度もないんです。正直なところ、いつも不味いと感じていました。口にした瞬間に広がる妙な刺激感と、舌の上にまとわりつくような不快な後味。料理が美味しくなるどころか、むしろ味の素が入っていると「失敗した」と感じるほどです。
では、なぜ世間では味の素を「うま味調味料」として評価するのか疑問に感じました。「旨み」と「美味い」が混同されているのではないかと思い、Deep Researchで詳しく調べてみました。
味の素の正式な成分名は「グルタミン酸ナトリウム(MSG)」です。確かにグルタミン酸は昆布やトマト、チーズなど自然界の食材にも含まれる物質で、科学的に認められた基本味「旨味」の一つです。しかし、ここで大きな誤解が生じています。
そもそも「旨味」は、単なるグルタミン酸だけで成立する単純な味ではありません。天然の食品に含まれる「旨み」は香り、甘味、苦味、塩味など、さまざまな要素が複雑に絡み合った結果として感じられるものです。一方、味の素は天然素材からグルタミン酸のみを抽出・精製した単一成分に過ぎません。そのため、天然素材が持つような複雑さや奥行きは再現できません。この点が「旨みはあるが美味しくない」と感じる原因ではないかと考えられます。
さらに、味の素は使用量の許容範囲が非常に狭く、少しでも入れ過ぎればすぐに味のバランスが崩れます。つまり、微量でないと使えないほど調整が難しいという構造的な限界があります。そもそも微量しか使えない調味料に、どれほどの意味があるでしょうか。
また「味の素は経済的だ」とよく言われますが、それも冷静に考えると疑問です。確かに味の素は「旨み」を安価に提供できますが、料理の本質的な美味しさを提供するかどうかは別問題です。味の素を単体で使用して料理を仕上げることは難しく、結局、他の調味料や素材を追加することになります。その結果、見かけの経済性に反してコストは割高になる場合も多いのです。一方、昆布やかつお節など天然のだし素材は少量でも複雑で深い味を引き出します。長期的な視点で見れば、料理の本質的な美味しさを提供する天然素材のほうが、結果的に経済的であることが少なくありません。
また、味の素については健康面での議論もあります。多くの科学的研究や公的機関は「適量なら安全」と結論付けていますが、一部の人には頭痛や胸やけなどの症状が報告されています。完全に無害とは断言できない状況です。ただし、私自身は健康上の理由だけで味の素を批判するつもりはありません。仮に完全に安全だったとしても、美味しくないのであれば、そもそも使う価値はないからです。
重要なのは、科学的に認められた「旨味」という基本味と、脳が総合的に判断する「美味しい」という感覚は、まったく別のものだということです。味の素の宣伝は、この二つを意図的に混同させるようなマーケティング戦略が見え隠れしており、それが私にとって非常に不自然で不快に感じられました。
結局、本当に料理を美味しくしたいならば、天然素材からとっただしを使うのが一番です。昆布やかつお節は複雑で奥深い味を持ち、素材同士の相乗効果で飽きの来ない美味しさを提供します。一方、味の素の単調で人工的な味は、長く食べ続けたいと思えるようなものではありません。
味の素を「うま味の正体」と宣伝することは、消費者に対して誤解を招く表現であると、私は強く感じています。
個人的に言わせてもらうなら、味の素を使うくらいなら、料理などしないほうがましです。これが私の本音であり、調べて明らかになった味の素という調味料の少し分かりにくい真実なのです。味の素に論争が起きやすいのは、科学的な意味の旨みと感覚的な意味の美味しいを混同して、議論がズレるからだと思います。あくまで、複雑な成分をバランスよく含む天然の旨みが美味しさとしては本物であり、抽出したものは味覚への単純な刺激でしか無いのです。
もし本当に味の素(MSG)を足すだけで料理が完全に成立するなら、極端な話、何の味も持たない大豆ミートのようなベース食材に、甘味・酸味・塩味・苦味・うま味という五味の基本調味料だけを人工的に加えていけば、あらゆるグルメ料理が再現可能になるという話になってしまいます。しかし実際にはそんなことはありませんよね。
なぜなら、料理の美味しさとは舌だけで感じる基本味の組み合わせだけではなく、香り、食感、温度、視覚的要素、複雑な成分の相互作用など、無数の要素が複雑に絡み合って生まれる総合的なものだからです。味の素を加えることによって確かにうま味は付与されますが、それだけで料理が本質的に美味しくなるわけではないのは、まさにこうした理由からです。
つまり「味の素があれば味が成立する」という考えは、料理の本質や美味しさというものを根本から誤解した単純化にすぎず、その考えが誤りであることを非常に端的に示すたとえだと言えるでしょう。
(補足)
味の素は塩などよりも許容が広いという指摘があったので補足。塩と比べるとそうなんですが、これは実は、味の素論争の誤謬のひとつで、「旨味がある」という事実と、「美味しいと感じる」主観的評価を混同してしまい、「旨味成分が多ければ多いほど美味しくなる」という誤解から生まれます。実際には味の素にも「美味しいと感じられる適正な範囲」が存在し、それを超えると逆に不快に感じるため、許容範囲は狭いのです。旨味が増すというのが、美味しくないけど旨味が出てるという意味ならそのとおりです。
天然成分の旨味は、香りや甘味、苦味、塩味などが複雑に絡み合ったバランスで成立しているため、「旨味成分だけを過剰に入れる」こと自体が難しい構造です。したがって、天然素材を使った場合には、意識的に過剰摂取しようとしても限界があり、「入れすぎ」になることがまずありません。
これに対し、味の素のような人工的に精製された単一成分は、そのバランスが崩れやすいため、簡単に「入れすぎ」になることが起こります。この点が天然素材と人工的な調味料の決定的な違いです。
(補足2)
ただ、味の素をどうしても使わざるを得ない、あるいは使うことが合理的な選択になる場面が存在することもまた事実です。たとえば病院や学校給食、社員食堂などの大量調理の現場では、天然素材からだしを取る時間や労力が非常に大きな負担となり、コスト制約の厳しさから味の素を利用することに明確なメリットがあります。
また、災害時の非常食やキャンプ、宇宙食など、天然素材を使っただしが手に入りにくく、保存性や携帯性が求められる場面でも味の素は便利です。
さらには、加工食品やスナック菓子、インスタント食品、カップ麺など、あえて人工的で強い味覚の刺激が求められる食品分野でも、味の素を使用する必然性が存在します。全国展開するチェーン店やコンビニ商品など、一定の味をどこでも均質かつ迅速に再現することが求められる業態においても、天然だしの持つ味のばらつきを避けるため、味の素の使用が現実的な選択となります。
加えて、高血圧患者のための減塩食など、医療や健康管理の現場において、少量の味の素で味の不足感を補い、塩分を抑えながら満足感を与えるという積極的な健康目的で使われることも少なくありません。
このように、味の素という調味料が、状況や目的に応じて合理的に活用される場面が確かに存在しているということについては、冷静かつ公平に認めておく必要があります。
(補足3)
食品の美味しさは、単に「旨み」だけで決まるものではなく、多様な要素が複雑に絡み合うことで生まれます。例えば、料理の香りは味覚と並んで重要であり、ネギやニンニク、ハーブ、スパイス、魚介や肉の香りなど、多様な香り成分が存在します。また味覚についても、甘味や塩味、酸味、苦味、旨味などの基本味がそれぞれ複数の成分に分かれ、これらが組み合わさることで奥行きのある美味しさが生じます。
さらに、食品の食感も重要な要素で、サクサク、もちもち、しっとり、カリカリ、なめらかといった多彩な感覚があります。油脂もまた料理の風味やコクを左右する大切な要素であり、オリーブオイル、ごま油、バター、ラードなど選ぶ種類によって味わいが大きく変化します。また、料理の提供温度も美味しさの感じ方に影響を与え、冷たいもの、常温、温かいものでは味や香りの感じ方が変わります。
こうした要素を組み合わせることで生まれる美味しさのバリエーションは非常に多様で、単純計算しても数十万通りを超えるほどです。このことからも、味の素のような単一の「旨み成分」だけでは、本質的な美味しさを実現することが難しいことが分かります。
美味しい料理を作るためには、旨味成分だけに頼るのではなく、天然の食材が持つ複雑で奥深い味や香りを意識し、それらをバランス良く活かす調理法や素材選びが重要になります。
(補足4)
実は、料理を成立させるために本質的に必要な調味料は、「塩」と「水」だけです。甘味や酸味は果物や野菜から自然に得ることができ、油脂も肉や魚に含まれる脂肪分で十分に補えるため、別途追加する必然性はありません。実際、自然界においても、塩分だけは食材そのものにほとんど含まれておらず、草食動物が本能的に塩を求めて塩分を含む岩や土壌を舐めることがあります。一方、旨味調味料である味の素(MSG)が必須な動物は存在しません。そのため、塩以外の調味料はすべて補助的であり、必須とは言えません。味の素を食べなくても死ぬことはありません。
(補足5)
旨味成分と、本当の美味しさとしての「うまみ」の違いを比較する実験は、実は非常に簡単です。試しに、大豆ミートのような、ほぼ無味無臭で、食感だけがツナに似ている食材を用意します。まず、これに味の素だけを振りかけ、味見してみてください。口に入れるとたしかに旨味らしき刺激を感じるものの、すぐに「あれ?」という違和感が生まれるでしょう。舌はたしかに旨味成分を感知しているのですが、それは味覚だけの、非常に狭く単調な刺激でしかなく、美味しいとは感じないはずです。むしろ、「何かが足りない」と感じることになるでしょう。
次に、その無味な食材と、天然由来の旨味を含んだシーチキンを食べ比べてみてください。口に入れた瞬間、シーチキンの味は単なる旨味だけでなく、自然な油分や塩気、複雑な香りと調和して、深く広がっていきます。その結果、「旨味」が「美味しい」に変換され、舌だけでなく、鼻や喉、脳にまで広がっていく感覚が得られます。
つまり、味の素を使った大豆ミートは「旨味成分」そのものは持っていますが、それを受け止める他の要素がないために、舌の上だけで終わる単調な刺激に留まります。対照的に、天然の素材は、単純な旨味成分を超え、味覚と嗅覚、さらには複数の感覚が絡み合って脳が「美味しい」と認識する本当の「うまみ」を提供するのです。この違いは、誰でも簡単に試せる実験で、はっきりと確認できます。
(補足6)
なぜ多くの人が味の素を使った料理を「不味い」あるいは「不自然」と感じるのか、その理由をもう少し詳しく説明します。味の素(MSG)は、天然素材が持っている複雑な味の中から「旨味成分(グルタミン酸)」だけを抽出・精製した調味料です。しかし、旨味だけを取り出してしまうと、それ単独では本来の美味しさが成立しません。そのため、料理として美味しくするには、必ず他の調味料や香り、食感、塩味、甘味などとバランスを取る作業が必要になります。言い換えれば、せっかく複雑で調和の取れた天然素材から旨味だけを「抜き出した」のに、わざわざ料理の段階で複雑な状態に「戻す」という無駄な作業をしているわけです。
このプロセスは、天然素材をそのまま使えば不要だった余計な調整作業を生み出すため、むしろ調理の難易度を上げ、味のバランスが崩れるリスクを高めます。天然素材なら最初から適正なバランスの中に旨味が含まれているので、こうした「戻す作業」は必要なく、自然に美味しさが成立します。結果として、多くの場合、天然素材のほうが調理も容易で、味のバランスにおいても明白に優れているのです。
(補足7)
グルタミン酸は日本人が発見した味覚刺激で、「旨味(うまみ)」という名称で知られています。旨味は舌の味蕾(みらい)に存在する特定の受容体によって感知される基本的な味覚ですが、「美味しい」とは明確に異なる概念です。
旨味は日本人が発見した味覚であり、他の味覚(甘味、酸味、塩味、苦味)と並ぶ第五の基本味として世界的に認識されています。科学的にその存在が認められたものの、旨味の独特な性質は翻訳が難しく、英語をはじめ多くの言語においても「umami」と表記されることが一般的となっています。
また、「美味しい(delicious)」という感覚は、単なる旨味の刺激だけでなく、食材の持つ複数の要素、例えば香り、食感、視覚的魅力、他の味覚との調和など、複雑な要素が組み合わさって初めて生じる総合的な感覚的体験です。そのため、グルタミン酸の旨味だけを取り出しても、それ単体では本当の意味で「美味しい」と感じることは難しいのです。
英語では「旨味」を表す適切な訳語が見つからず、そのまま「umami」という日本語が借用され、国際的に定着しました。これは旨味が他の味覚とは明確に異なり、単純に「おいしさ」や「美味」という言葉に置き換えることが困難であったためです。
結局のところ、自然な食材が持つ複雑で調和の取れた味覚を、成分を抽出して再添加するというのは余計な手間であり、最初から素材に含まれている自然な状態の成分をそのまま摂取する方が合理的で美味しく感じられるという考えに繋がります。
結論
私たちが感じる味覚には、甘味、酸味、塩味、苦味、うま味という基本的な5つの味がありますが、それぞれの味覚の中にも多様な物質が含まれています。例えば、甘味にはショ糖や果糖、人工甘味料などがあり、酸味にはクエン酸や酢酸、塩味には塩化ナトリウムをはじめとするさまざまなミネラル塩類、苦味にはカフェインやキニーネなど、そしてうま味にもグルタミン酸だけでなく、イノシン酸やグアニル酸、コハク酸などが含まれています。
このように、多様な成分が複雑に絡み合い、絶妙なバランスを保つことで、私たちは初めて「美味しい」と感じることができます。そのため、味の素などに代表されるグルタミン酸だけを取り上げて「うま味」と表現するのは、あたかもグルタミン酸自体が美味しさの本質であるかのような誤解を生みます。
つまり、「うま味」と「美味しさ」を同一視すること自体が間違いなのです。うま味は美味しさを構成する1つの要素に過ぎず、美味しさとは、それら複数の味覚、さらには香りや食感までが総合的に調和した状態を指しているのです。
(追記)
この記事を書いていて発見があったので報告します。わたしは味の素が大嫌いなんですよね。美味しいとは思わないし、そもそもコンセプト自体が好きではありません。これって、実はAIの悪い部分とよく似ているんですよね。今のAIも、いわば抽出された「うま味成分」のようなもので、人間の創作には現時点では遠く及ばない存在です。でも味の素も、いろいろな成分と混ぜて溶かして、少量だけ使えば確かに美味しくなる。それって、抽出したものを再び加工して美味しく仕上げる、いわば二度手間な作業なんですよね。それでも味の素が活躍できる場面があるように、AIも似たような存在だと思います。予期せずしてAIと結びついた記事になりました!AIをどんなふうに活用すべきか……と考えたときに、味の素のような使い方こそがAIにとってベストだ!と言えるような気がしました。
ちょっと気になったので化学調味料を比較してみました。
結論:
最強の化学調味料は、
創味シャンタン(味覇)
で決まりです。
ちなみに、創味シャンタンをAIツールに例えるなら、現状で言えば間違いなく、『ChatGPT』でしょう。
コメント
18定量評価や定性評価が美味しいや美しいを決めるわけではありませんが、では表現の優劣は審査員のお気持ちだけで良いのか?要素を分析評価してそれを言語化し、選評をつけてこそ良い選者であると考えます。
めんつゆもよく批判されるけど資料見たらかなりバランスよく優秀ですねw
シャンタン安っ!!?
筑水さん
ホリエモンも、なんだかんだで天然調味料の高いラーメンを美味しいと言ってましたね。今回の記事は美味しさについては、わたしの主観で、味の素が嫌いなので、こんな内容ですが、Xのアンケートでは味の素が美味しい派が多数でした。ジャンクなものも美味しいと思う人は多数いるというのは分かりました。
七瀬先生
めんつゆ、結構万能っぽいですね。シャンタンあまり使ったことなかったのでさっそく試そうと思いました😂