『ベースボール不要論』

[副題]~大マスゴミと野球(よきょう)/現代日本の致命傷~
[副々題]~がんばれ日本! なくなれ読売!!~

第6章 なぜサッカーではないのか?[5]

2005年05月07日 | 第6章
[5]

 私たち日本人の「縮み志向」は良いものを数多く生み出しています。ウチワを折り畳んで縮めた扇子、最近とんと見掛けなくなったけどチャブ台とか、盆栽とか、街で配っているポケットティシューなんかもそう。トランジスタや、いま私も使っているメモリーカードなどの記憶媒体、そして娯楽の王様パチンコ(注1)などなど。
 しかし、その一方で、悪い側面ももちろんある。その悪い面を是正するのにサッカーは絶好の「道具」になるのですが、残念ながら、その絶好の「道具」を使うのに、まだまだ多くの日本国民は二の足を踏んでいるのではないか、気後れしているのではないか、と私は感じているのです。

 サッカーはホント、しんどいスポーツです。でも、とても楽しいボールゲームです。間違いありません。世界が証明済みです。競技そのものの楽しさにくわえ、いま述べたような、世界を隈なく知ることができる、世界中の人々と通じ合える、という特典まで付いてきます。最高じゃないですか! ところが、「へなちょこ&萎縮」の人々とってはなかなかそうはいかないのですね。むしろ苦痛になるのでしょう。

(注1)えっ、パチンコ? ごめんなさい。パチンコは「良いもの」の例としては不適当ですね。われわれ日本人の「縮み志向」が生み出したものであるのは確かですが、決して「良いもの」ではありませんね。パチンコは東アジアの最貧民の「与太娯楽」です。すみやかに訂正いたします。失礼いたしました。

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 はい、長くなりましたが、これで大変嫌みなサッカーの話を終了いたします。サッカーとの比較がとてもわかりやすいので、サッカーの話を持ち出しました。
 が、むろん、「サッカーをやりなさい!」「サッカーに興味を持ちなさい!」などと無理強いするつもりは毛頭ありません。私は国際サッカー連盟(FIFA)や日本サッカー協会(JFA)の回し者でも何でもありません。ラグビー、テニス、陸上競技、競泳、アイスホッケー、スキー、スケート、バドミントン、卓球、柔道、空手、バレーボール、バスケットボール……、何だっていいと思います。ただ、「この国、ちょっと野球がデカ過ぎませんか? → ベースボールという競技の価値を過大評価していませんか? → バランス悪いんじゃない? → バランスが悪いから体こわすよ → いや、もう見事にこわしてるよ → 急いで野球を縮小する必要があるんじゃないですか!!!」とだけ言いたいのです。(つづく)

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第6章 なぜサッカーではないのか?[4]

2005年05月05日 | 第6章
[4]

〈サッカーの広大なる世界に萎縮?〉

 はい、つぎです。これもまたおおいに指摘できると思います。サッカーの社会が持つ、いわば「世界への広がり」「世界性」といったものに対し、多くの日本人はまだまだ萎縮しているのではないでしょうか?

   東海の→小島の→磯の→白砂に
   われ泣きぬれて蟹とたはむる(石川啄木)

 われわれ日本人は「縮み志向」(注1)。つまり、こういうことです。
 サッカーは世界中で行われています。サッカーに興味を抱き、サッカーの世界に一歩足を踏み入れると、そこには世界のさまざまな国や地域との遭遇が待ち構えています。いやでも、いろんな国や言語、人々などに出くわします。
 サッカーが盛んなヨーロッパやラテンアメリカの国々はもちろん、50カ国を超えるアフリカ諸国。それに、われわれと同じアジアだけれども何とも疎ましく感じられるアラブの国々や、旧ソビエト連邦から独立した何とも覚えにくい名前の共和国。そして、おまけと言っては失礼だけれど、太平洋、インド洋、カリブ海に浮かぶちっちゃな島国まで登場します。
 当然、言語も多様をきわめます。われわれ日本人は外国人を見るや、すぐに「センキュー、センキュー」などと英語(?)で話しかける不遜な国民ですが、英語だけでは事足りません。スペイン語やフランス語、イタリア語、ポルトガル語などのラテン系言語。私たちはアジアですから、アラビア語の登場もしばしば。ゴツゴツとした印象の、ドイツ語をはじめとするゲルマン系言語や、ロシア語などのスラブ系言語。そして、最近ようやく身近になってきた(そうでもない?)韓国語や中国語……。
 「競技場」という単語一つとってみても、ステイディアム、シュタディオ~ン、スタディオン、エスタディオ、エスタヂオ、スタディオ、スタッド、スタディオヌル……(ごめんなさい。全部ヨーロッパ言語です)。もう大変ですね。
 あと、これは私も最近知ったのですが、ドイツ南部の大都市ミュンヘン(München)は、イタリア語ではモナコ(Monaco)というそうです。え~? ミュンヘンってモナコなの? 驚きました。

 さぁ、このような現実をあなたはどうとらえますか、という話です。チャンスととらえますか? それとも、ピンチですか?
 残念ながら、「ピンチ」の人が多いのではないでしょうか? 萎縮して知らんぷりしている人がまだまだ多い。これが現実だと私は思います。せっかくこの世に生まれてきたのだから、世界をもっと広く知ったほうがいい。
 これをチャンスととらえることができれば、「USA一辺倒」の偏った世界観から見事に脱却することができますし、「ああ、アメリカなんて世界のほんの一部分に過ぎないんだなぁ」「USAってのはむしろ例外的でヘンテコリンな国なんだなぁ」(←ここまでいけば万々歳!)などということがよ~くわかってくるはずです。そして、この好機にちょこっとだけ知的好奇心を振りかければ、ちょっとしたコスモポリタン(世界人、国際人、民族差別をしない人)にだってなれるはずです。そういう日本人が増えれば、「アメリカ一辺倒」ではなく、世界を広く広く見渡せる素晴らしい国に私たちはなれると思うのですが……。(つづく)

(注1)イー・オリョン著『「縮み」志向の日本人』。名著です。ゼシ読んでみてください。

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第6章 なぜサッカーではないのか?[3]

2005年05月03日 | 第6章
[3]

〈サッカーはあまりにも自由〉

 つぎに、サッカーという競技そのものが持つ「自由奔放さ」とでもいうべき特徴。この特徴もまた、ルール好きの日本人には少々疎ましく感じられるのではないでしょうか?

 サッカーはベースボールとは全然ちがい、自由度のかなり高いボールゲームです。つまりルールブックが薄っぺらい(聖徳太子の十七条憲法みたいなもの)。これといったルールはオフサイドだけですね。
 オフサイドという制約、プラス戦術です、一応選手たちを縛るのは。しかし実際、一つ一つのプレーは、選手一人一人の自由な発想に相当委ねられることになります。
 選手一人一人が物の道理や経験などからゲームの流れを予想したり、その場の直感などで瞬時に判断しプレーします。ワンプレーごとに静止して、「どうすんの? どうすんの?」などと監督やコーチなどから指示を仰ぐ優雅な世界とはわけがちがいます。
 ポジションもまた自由です。ゴールキーパーが一人、これだけが決まっていて、残りの10人はどう配置したっていい。ディフェンダーが1人、フォワードが9人で中盤なし──。無謀ですけれど、これでもいっこうに構いません。また、ディフェンダー、ミッドフィールダー、フォワード以外に新しいポジションの概念を作り出したって構わないのです。つまり、「とっても自由」ということです。

 高校のときの体育の授業を思い出します。サイドバックをやらされた大山君(仮名)は、サイドの後方の位置にピタリと張り付いたまま動きませんでした。まさに「サイドバック」。おのれの発想で自由に、また活発に動き回ればいいのですが、怖いのですね、自由が。自由をどう扱えばいいのかわからない。野球のポジションのようにビタッと固まったまま動かないのです。また、動けば動いたで疲れますしね。

 自由を扱うことを苦手とする多くの日本人にとって、サッカーは「あまりにも自由」なのではないでしょうか? 何かをするとき、必ず「きっと何かルールがあるはずだ」と発想する多くの日本人にとって、サッカーの自由度の高さはむしろ苦痛となるのでしょう。
 事実、「サッカーってよくわかんなぁ~い」などと漏らす人間がこの国にはまだまだたくさんいます。それはまさに「きっと何かルールがあるはずだ」と発想する人たちの言い草ですね。順序が逆です。何事もまずは「自由」から入るのが好ましい。サッカーは自由、「見たまんま」です。シンプルです。相手のゴールに入れるだけ。「ルールなんてないんだぁ!」 そう思って見るのが正しいボールゲームです。

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 少々しみじみとした気持ちにもなります。こんな「へなちょこ比率」の高い国で、日本サッカーはよくここまで来たなと思います。もう奇跡に近い!
 長い間、へなちょこ男たちによる「鎖国」(つまり「野球一色」の時代)がつづいていたのに、「開国」するやいなや、ワールドカップやオリンピックにも出場できるようになりました(もちろん、毎回厳しい予選を難なくクリアできるとは思っていません。失敗することもあるでしょう)。
 また、ヨーロッパのトップレベルの舞台で兵たちと互角に渡り合える若い選手も出てきました。やればできるのです。国内のプロリーグも、従来の企業スポーツから脱却し、「あるべき姿」に向かって邁進していますね。また、サッカー選手に対する世間の尊敬もかなり改善されてきたように思います。着実に前進しているようですね。
 しかし、まだまだ全体的には、「嫉妬」というマイナス要素にずいぶんと足を引っ張られているのではないでしょうか? 「嫉妬」と言っても、それは女性たちの嫉妬ではありませんよ。この国の「へなちょこ男たち」の嫉妬です。この国の男どもの嫉妬はホント、凄まじい!
 あんなに激しく動き回ることのできるサッカー選手が、煙たくて煙たくてしょうがないのです。そして、ついでに付け加えておきたいのが、サッカー選手の体型、体つきですね。サッカー選手はみな、筋骨隆々というわけではないけれど、体脂肪の少ない、とてもスッキリとしたスポーツマンらしい体型をしています。つまりカッコイイ。トップレベルのサッカー選手にお腹の出た選手なんてまずいません。身長180cmの選手なら体重は70kgちょいで体脂肪率は10%ほど。野球選手なら80kg超の20%近くですよ。USAと同様、昨今、肥満傾向の著しい日本の「へなちょこ男」にとって、サッカーは立派な嫉妬の対象になってしまうのではないでしょうか?(つづく)

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第6章 なぜサッカーではないのか?[2]

2005年05月01日 | 第6章
[2]

〈サッカーはしんどい!〉

 言うまでもありませんが、サッカーは「走る」という要素が多分に含まれた、とても活発なボールゲームです。だから当然、息が上がります。試合が始まれば呼吸を整える時間もあまりなく、呼吸が整わないうちに、必要とあらばまた走りださねばなりません。何度も何度もダッシュを繰り返します。
 くわえて、とても激しくぶつかりあう競技でもあります。相手選手と激しくぶつかり、とても痛い。生傷も絶えません。「ボールを扱う」という作業も、「考える」という作業も、目まぐるしく動きながら、ときには痛みを堪えながら同時に行わなければなりません。真剣に取り組めば取り組むほど、とても苛酷になってくるボールゲーム、それがサッカーです。サッカーは競技「そのもの」がとてもタフ、とてもハードなのです。(野球は楽ちん)

 何度でも言ってやりますが、日本人男性の多数派は「へなちょこ」です。「へなちょこ」がこの苛酷なボールゲームに対し、好感や親近感などを抱けるわけがありませんね。
 「へなちょこ」のみなさんはへなちょこゆえ、サッカーの楽しさを実感できるところに手が届かないのです。走りながら考えたり、走りながらボールを蹴ったり、全力で走ったあと相手選手と激しくぶつかったり……、そんなこと、「へなちょこ」には到底無理。全然楽しくない。辛いだけ。惨めな思いをするだけです。

 でも、世界の男どもは「へなちょこ」ではありません。だから、「そこ」に手が届くのです。「そこ」とは、「真剣に取り組めば取り組むほどサッカーはキツイ。しんどい。そんなことはわかってる。でも、楽しいんだよ」という真実です。この国は「へなちょこ比率」があまりにも高いため、この真実から長い間眼を背けてきたわけですね。(とてもわかりやすいと思います)

 もちろん、この国にもサッカー選手はたくさんいます。また、サッカー以外の激しい競技を楽しんでいる人たちも大勢います。五十路を過ぎてトライアスロンに挑戦している、そんな元気なオッチャンもきっとこの国にはいるでしょう。私がいま話しているのはそういうことではなく、ウン千万もの日本人男性をおしなべたときの話です。
 そういう「へなちょこ」のみなさん、つまり日本人男性の多数派のみなさんが、サッカーを長きに渡って遠巻きにしてきたのです。激し過ぎるから、キツ過ぎるから、しんど過ぎるからです。何と言っても、1993年にプロリーグがはじまった国ですから、よっぽどなのでしょう。
 そして、遠巻きにするだけならまだ許せるのですが、「あれはバカがやるスポーツだ」などと意図的に社会の隅に追いやった(じつはサッカーやラグビーのほうがベースボールよりもはるかに知性を働かせるボールゲームです)。

 いまでも「サッカーは点が入らないからつまらん」とか、「日本のサッカーはダメだ」「Jリーグはつまらん」などと言い放つ人たちがたくさんいますね。昨今の日本サッカーの急成長を煙たがっている「サッカーアレルギー」の方々です。まさにその人たちが「へなちょこ」なのですが、彼らはきっと、サッカーに何か苦い思い出でもあるのでしょう。子どものころちょっとだけやってみたけど全然ダメだった、というような苦い思い出です。
 そういう人たちにとって、日本サッカー界がダメじゃなくなる、つまり良い方向へむかうのは不都合なわけです。マズイわけです。サッカーのような激しい競技の人気が拡大してしまうと、自分たちが築き上げた「へなちょこ帝国」が崩壊し、肩身の狭い思いをすることになるわけですから。(つづく)

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第6章 なぜサッカーではないのか?[1]

2005年04月29日 | 第6章
[1]

 こう見てきますと、「なぜサッカーではないのか(なかったのか)?」がよくわかってくると思います。わが国にプロサッカーリーグが生まれたのは、つまりわが国のサッカー界に「本腰」が入ったのは、ついつい最近のことです。日本ほどの国力を有する国が、最近になってようやくサッカーに本腰を入れ始めた。どう考えたっておかしいです。不自然です。なぜこの国ではサッカーがあまり盛んに行われてこなかったのでしょうか?
 いやいや、とは言っても、もうすぐですね。外国の方々に「日本で一番盛んなスポーツは何ですか?」と問われて、迷うことなく「もちろんサッカーですよ」と答えられる、そんな「普通の国」「自然な国」に近い将来わが国もなります。もうすぐなるのですが、現時点ではまだですね。いまはあくまで「なりつつある」という状況でしょう。

 さて、もはやスポーツの枠を超え、「世界の言葉」とまで形容されるサッカーを引き合いに出すのは、かなりの嫌みになると思われます。が、やはり、人類にもっとも支持されているこのボールゲームとの比較を明確にすると、とてもわかりやすくなってくると思いますので断行いたします。

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 さて、この地球上には200を超える国・地域がありますが(野球ばかりやっていると、こんなことすら実感できない)、だいたいどこへ行っても、男どもは元気にサッカーです。少々乱暴な言いっぷりですが。
 アフガニスタンに行っても、マダガスカルでも、ブラジルでも、スウェーデンでも、ニジェールでも、ナイジェリアでも、アルジェリアでも、アルゼンチンでも、ソロモン諸島でも、バヌアツでも、コートジボアールでも、ブルキナファソでも、ギニアでも、ベニンでも、パレスチナでも、イスラエルでも、香港でも、北朝鮮でも、メキシコでも、ホンジュラスでも、マレーシアでも、ベトナムでも、リビアでも、スイスでも、イランでも、イラクでも、エルサルバドルでも、エジプトでも、南アフリカでも、ジンバブエでも、ロシアでも、リトアニアでも、ネパールでも、アゼルバイジャンでも、モルドバでも、フィンランドでも、アラブ首長国連邦でも、レバノンでも、トリニダード・トバゴでも、セント・ビンセント&グレナディーンでも、ナミビアでも、スーダンでも、リビアでも、インドでも、ブルガリアでも、ルーマニアでも、アイスランドでも、ウズベキスタンでも、チェチェンでも、イングーシでも、サハ共和国でも……
 男たるもの、だいたいみんなお外で元気にサッカーです。まずはサッカー、元気な男の子はサッカー、自国の代表チームが弱かろうがサッカー、年老いてもサッカー、戦争中でもサッカー、サッカーが多数派、サッカーが「与党」、といった感じです。大変くどいですけども。
 ところが、わが国ではあまりそうではありません。少なくとも一昔前までは全然そうではありませんでした。
 サッカーは完全に「野党」。しかも小さな、名もない党でした。いまではなんとか民主党ぐらいの存在にはなりましたが、まだまだ「与党」にはなれませんね。なぜでしょうか? もうおわかりでしょう。サッカーは? はい、激しいから、キツイからです。サッカーはとてもしんどいのです。(つづく)

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