『ベースボール不要論』

[副題]~大マスゴミと野球(よきょう)/現代日本の致命傷~
[副々題]~がんばれ日本! なくなれ読売!!~

第5章 どうしてこんなに野球なの? 私の勝手な推測③「USAにべったり」にも程がある!!![4]

2005年04月27日 | 第5章
[4]

〈精神的にも「へなちょこ」か?〉

 激しいスポーツを嫌う平均的日本人男性のことを、私は「へなちょこ」と言いました。これはいわば「肉体的身体的へなちょこ」ですね。これに対し、アメリカ合衆国という「上司」に過度にひれ伏す多くの日本国民の態度は、「精神的へなちょこ」と言えるのではないでしょうか? この国の「精神へなちょこ」のみなさんが、「USAにゴマするぞぉ!」「USAに付き従うぞぉ!」と勝手に決めてしまったのですね。

 日本人が被虐趣味(マゾ)なのは知っています。私も大学卒業後、少しだけ普通のサラリーマンをやりましたからわかっています。日本人は「やられる」「痛めつけられる」「支配される」「屈服する」のが大好きですね。

 でも、それには程度というものがあるでしょう。政府がダメでも、せめて大衆レベルでUSAに抗う風潮が欲しい。でも、ほとんどない。なぜか? そんなことを考えても虚しくなるだけなのですが、USAに必死でゴマをするマゾ国民、じつに情けないと思います。

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 わが国がこれほどまでの野球大国になった背景には、いくつかの「通説」があるようです。

 たとえば、ピッチャーの投球に対しバッターが一人ずつ勝負を挑む様が、お侍さんの一騎打ちに似ているから馴染みやすかった、というもの。つまり「ニッポン人1対1大好き説」ですね。なるほど、それも一理あるなと思います。

 また「農耕民族説」なんていうのもありますね。私たちはヨーロッパの人たちのような狩猟民族ではないから、という説。ふん、それもいいでしょう。でも、これらは真実を覆い隠すためのものに過ぎないと私は思います。否定はしませんが、主要なものではない。

 主要なものは、真実は……

① ベースボールは、サッカーやラグビー、アイスホッケーなどとはちがい、激しく動き回る必要がほとんどない。きわめて平穏で不活発な競技。だから日本の「へなちょこ男」が飛びついた。

② 野球には制約が多く、また「型」がビシッと決まっている。つまりルールだらけで不自由。だから、自由を扱うことが不得手で、ルールが大好きな日本人にピッタンコ。

そして、③ USAという「上司」に対する、反吐が出るほどあからさまなゴマすり、擦り寄り、ご機嫌とり。

 これらのじつに情けない、早急に反省し改めるべき三つの理由のほうが、はるかに重大だと私は思います。だから私は「ベースボールは不要!」と主張しているのです。わかっていただけますでしょうか?

 さあ、つぎに、サッカーとの比較をいたしましょう。(つづく)

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第5章 どうしてこんなに野球なの? 私の勝手な推測③「USAにべったり」にも程がある!!![3]

2005年04月25日 | 第5章
[3]

 わが国は戦争で散々米国に痛めつけられ、原子力爆弾まで投下されたのですよ。しかもご親切に、ちがうタイプのものを2発も。もう忘れてしまいましたか?

 戦後もUSAの思惑に振り回されてきましたね。USAというのはとても攻撃的でアイデアに富んでいますから、今後もわが国をおおいに振り回すのだろうと思いますが、私思うに、われわれ日本人はUSAが望む以上に、必要以上に、米国の文化や価値などを率先して取り入れてきたと思います。「USAに喜んでいただこう」「USAにゴマをすろう」ともう必死。本当にそこまでする必要があった(ある)のでしょうか?

 ベースボールも、戦後、進駐軍兵士たちが全国各地で子どもたちに教えたと聞いていますが、なかでも私がもっとも腹立たしく感じる象徴的なものは、広島市民球場です。広島市民球場の位置。一句浮かびましたよ。

   原爆の 投下地点で 野球かよ

 「ベースボールかよ」では字余りになりますので、「野球かよ」となります。いますぐ各紙の川柳コーナーに投句したいところですが、官製ハガキがもったいないのでやめておきます。

 この広島市民球場の位置、何とかならないでしょうか? 広島市内のど真ん中、USAによって原子力爆弾を落とされたまさにその場所で、アメリカンボールゲームをやって大喜びしています。

 「広島市民球場は戦後の広島を元気づけたんだよ」なんていう声が聞こえてきそうですね。でも、私は全然そうは思いません。何てマゾキスティックなのだろうと思います。無神経にも程がある!

 逆のことを考えてみればいいのです。たとえば、わが国がニューヨークの街に原爆を投下したという過去があったとしましょう。日本によって原爆を投下された場所で、大相撲ニューヨーク場所ができますか? 寿司屋や天ぷら屋が繁盛するでしょうか? 考えるまでもないでしょう。

 広島にはJリーグクラブがあるのですから、この広島市民球場は長方形のサッカー場に改修すればいいのです。で、ベースボールをしたい人たちは、せめて街の郊外や瀬戸内海の小島などでやっていただけないでしょうか? ご先祖様に申しわけないから。(つづく)

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第5章 どうしてこんなに野球なの? 私の勝手な推測③「USAにべったり」にも程がある!!![2]

2005年04月23日 | 第5章
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 ところが、どうなんでしょう? 私はとても知りたいのですが、そんな心ある日本人、つまり真剣に、ホントのホントに真剣に思い悩んでいる人というのは、人口の割合でいうと何%くらいになるのでしょうか? たぶん、かなり小さな数字じゃないかなと思います。

 最近、少し変わりつつあるのかもしれません。でも、まだまだ多くの日本人が「外国≒アメリカ合衆国」「世界標準=USA基準」「外国語≒アメリカ語」「米国は民主主義のお手本」などといった、米国中心の世界観、USAへの強い追随意識を無邪気にも抱きつづけているのではないでしょうか?

 最近になってようやく、さまざまな国際問題などにおいて「アメリカの言いなりじゃないかぁ!」などと威勢よく自国政府を非難するようにはなりました。ところがその一方で、多くの日本国民は、ディズニーランドやらユニバーサル・スタジオ・ジャパンやらで大はしゃぎ。「メジャーのパワーはすごいですねぇ~」(薬だよ!)「松井選手を応援しにニューヨークへ行こう!」(だれが行くかぁ!)などと興奮し、異臭漂うマクドナルドで昼飯食って(太るよ、体こわすよ、バカになるよ)、スタバでのんびり過ごし、イチローさんの米メジャーリーグでの記録を「世界的偉業」などと誇張し(「世界」じゃない!)、計算され尽くした味もそっけもない大仰なハリウッド映画に感動し、アカデミー賞に日本の俳優がノミネートされて大喜び。また、「フットボール」をアメリカンフットボールのことだと思い込み(アメフトは「例外的」マイナーフットボールです)、アメリカの学校に留学経験のあるような人物を「国際派」などと崇め、「入院一日1万円」だからとアメ保に加入……。

 おおいにアメリカンなものを、何の抵抗もなく受け入れているように思われます。「野球濃度」と同様、この国の「USA濃度」も相当のもの。まったく、お恥ずかしいレベルのものであります。わが国はUSAにものの見事に「支配」され、ものの見事に「屈服」しています。(つづく)

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第5章 どうしてこんなに野球なの? 私の勝手な推測③「USAにべったり」にも程がある!!![1]

2005年04月21日 | 第5章
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 はい、それでは「本線」に戻りましょう。どうしてこんなに野球なの? 第三の推測です。

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〈「USAにべったり」にも程がある!!!〉

 近年の社会情勢の変化により、最近では少なくなったのかもしれません。でもこの国には、上司が変わるたびに、その上司にあわせて趣味をコロコロ変えるような、いわゆる「C級(あるいはD級、E級、F級……)ゴマすりサラリーマン」とでもいうべき輩がたくさんいます。

 「そこまでしろっ!」とはだれからも指示されていない。また、そこまでする必要もまったくない。なのにそういう行動を自動的にとる。そういった安っぽい「無条件降伏人間」がこの国にはいっぱいいます。

 わが国がこれほどまでの「ベースボール大好き国家」になった背景の一つとして、「フッフ~ン、この構図もかなりあるぞぉ!」と私は強く感じています。(まあ、私だけじゃないと思いますが)

 この場合の「上司」とは、言うまでもなくアメリカ合衆国、USAのことです。ベースボールは「上司がなさっていること」「上司のご趣味」。だから、たとえそれが世界で不評であったとしても、お付き合いしなければならない。そんなふうに勝手に思い込んだのでしょう。「上司」に直接強制されたわけでもないのに、自ら率先して、しかも無自覚に……。

 このような性癖がわが国の民に染み込んでいるのは、かなり明白な事実ではないでしょうか?

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 わが国日本の米国との付き合い方は明らかにおかしいですね。おかしいから、いまや日本は米国の「基地」、そして「財布」になり果ててしまいました。わが国はまさに「USAの僕」「黄色いUSA」であります。

 米ソが対立していた冷戦の時代、わが国が独自の国家戦略など持てず、米国の傘の下でただただ縮こまらざるをえなかったのは、ある程度理解できます。ところが、冷戦が終わってもなお、わが国は健気にもその状態をつづけているように思います。まあ、大きな権力の傍らで、これまた「できるだけ楽をしよう!」という魂胆なのでしょうが、私たち日本人は自分たちの脚でしっかり立つことをやめちゃいました。

 たとえですが、アヒルには、卵からかえって最初に見た生き物を親だと思い込む習性(インプリンティング、刷り込み)がありますが、これにも似たようなことが、この日米間にはあるのではないでしょうか? 私はそう思っています。太平洋戦争でわが国は米国と敵対した? うん、あれは一瞬の出来事でしょう。

 心ある日本人ならば、この嘆かわしい状況を憂い、日ごろの生活のなかでさまざまな思いをめぐらしていることでしょう。最近、国内の新聞や雑誌などをパラパラめくっても、米国との付き合い方、距離感、そしてわが国の独立国家としてのあり方などを厳しく問う言説が数多く見受けられます。

 世界を震撼させる「ハイパー超大国」、地球上のカネと軍事力を一手に掌握しようとする「ヤクザ国家」、核不拡散や地球温暖化防止などといった世界の取り決めを足蹴にする「傲慢帝国」、ありもしない脅威をでっちあげる「自作自演の戦争屋」、……とわれわれはどう向き合えばいいのか? みんな心配なのですね。(つづく)

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